判断の試論 | SETAGAYA通信3.0

判断の試論

エッセイというものがあります。
有名なところではモンテーニュからナンシー関さん。
モンテーニュのエセーは仏語の essayer の動詞から採られています。
吟味する、試論す、基調判断す、あたりが妥当な訳になるでしょうか。


要するに、体系以前の頭にあるもの。
それを断片的に書く試みです。


そこに見え隠れするのは、体系化しようとする動きでの思考のギリギリでの闘争がエセーにはあると
モンテーニュを読むと感じます。


私は私の内部に目を向ける


とモンテーニュは言う。それは世間があまりに外部のものに目を向けるからだとします。
しかしこれは逆説的に機能することはことさら細かく例証するまでもないことでしょう。


モンテーニュは内部に、そして世間が外部に目を向けている時、まさに個人が個人を発見したと言い換えることができましょう。
その原理は、デカルトにも通ずる思考であったと思えます。


判断の実験としてのエセーと位置づけています。そしてその判断の実験はあらゆる事柄に志向する道具だと喝破します。
エセーの魅力、言葉の魅力・・・