今年を占う新年一発目の歴史ネタは何にしましょうかね?

 

「幕末」は、今年の大河で語れる機会が一杯ありそう。
「源平」「忠臣蔵」はやったばかり。

 

「戦国」・・・・という手もありますが、思い切って一気にさかのぼり、久々に飛鳥時代をやってみたいと思います。

 

 

645年中大兄(なかのおおえ)は横暴を極める実力者・蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺。

 

さらに翌日、甘樫丘(あまかしのおか)にある蘇我氏の邸宅を囲んで、入鹿の父・蝦夷(えみし)を自害に追い込み、古来からの大豪族(おそらく、ヤマト建国からの功臣)・蘇我宗家は、ここに滅亡しました。

 

歴史上「大化の改新」、最近の教科書では「乙巳の変(いっしのへん)と呼ばれているこのクーデター事件は、多くの謎に包まれています。

 

例えば、この事件は「中大兄と中臣鎌足によるクーデター」・・・・と言われてますけど、この事件の首謀者は、本当にこの2人だったのでしょうかね?

 

中大兄が天皇に即位したのは、668年のこと。

「乙巳の変」から23年も経っています。

 

中大兄が立てたクーデターなのであれば、すぐにでも即位して政治に乗り出せば良かったのに、どうして23年も待ったのだろうか。

 

そう考えた時、「首謀者は違う人だったんじゃないの?」と疑いたくなってしまうのです。

 

 

「乙巳の変」の首謀者が中大兄と鎌足でないとしたら、誰が首謀者だったのか?となれば、ここは推理モノの鉄則。
 

「その出来事によって、一番得をした人が真犯人」

 

これに照らしてみるのが一番です。

 

じゃあ、「乙巳の変」で、誰が一番得をしたんだろうか。

 

 

「乙巳の変」の後、軽皇子(かるのみこ)孝徳天皇として即位。

 

都は難波宮に遷宮され、新たな御世がスタートしました。

 

この孝徳天皇のもと、我が国で初の左大臣が任命されます。

 

それは「乙巳の変」の功臣・中臣鎌足ではなく、蘇我氏を裏切った石川麻呂でもなく、阿倍内麻呂(あべのうちまろ。別名:倉梯麻呂=くらはしまろ)という人でした。

 

 

左大臣といえば、人臣の最高位

(初めて太政大臣が定められたのは、もっと後の天智天皇の時代)

 

「乙巳の変」の入鹿暗殺で最も得をしたのは、この男だったと言えます。

 

つまり、阿倍内麻呂こそが「乙巳の変」の真犯人だったのでは・・・・という説が急浮上してきます。
 

では、この阿倍内麻呂なる人物・・・・一体、何者なんでしょうか?

 

 

飛鳥王朝が成立した時、強大な豪族が4つありました。

 

大伴(おおとも)

物部(もののべ)

蘇我(そが)

阿倍(あべ)

 

仏教伝来があった6世紀、第29代・欽明天皇の時代。

 

まず、朝鮮半島に関する外交政策の失敗で、大伴氏が失脚。

仏教伝来を巡って蘇我氏と争い、敗れた物部氏が没落。

 

蘇我氏の一人勝ちの世が訪れます。

 

この間、阿倍氏は中立を保ち、ずっと傍観していたようです。

 

 

蘇我氏の最盛期は、なんといっても推古天皇の時代。

 

蘇我氏を邪魔者として排除しようとした崇俊天皇を殺害すると、先代の妹だった推古天皇を即位させ、実権を握ります。

 

蘇我蝦夷にとって従兄弟の子であり、皇族でもある摂政・聖徳太子と組んで政権を固めると、蘇我氏は「まるで大王家」と言われるほどの権勢を誇るようになりました。

 

天皇すら殺害するその専横ぶりに、豪族たちは反感を募らせていったといいます。

 

系図で関係を確認しておくと、こんなかんじです。

 

 

聖徳太子が亡くなり、推古天皇も崩御してしまうと、阿倍氏は活動を開始。

 

聖徳太子の息子である山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)を旗頭として、反蘇我派を集めようとしました。

 

蘇我入鹿はその動きをいち早く察知。

ただちに軍を派遣して、山背大兄皇子を攻めて殺害します。

 

阿倍氏は先手を打たれてしまう形になってしまいました。

 

 

しかし、反蘇我派の動きは止まりません。

 

即位した皇極天皇の弟・軽皇子(かるのみこ)を次の旗頭に定めると、蘇我氏の傍流である蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)のに取り込みに成功。

 

反蘇我派の中臣氏の協力もあり、飛鳥板蓋宮大極殿(あすか いたぶきのみや だいごくでん)において蘇我入鹿の暗殺に成功。

 

旗頭であり、娘婿である軽皇子を孝徳天皇として即位させ、自らは左大臣となって人臣を極めたのでした。

 

ちなみに、孝徳天皇が遷宮した難波宮は、阿倍氏の本拠地にあたります。

 

やっぱり、阿倍内麻呂こそがアヤシイと疑ってしまいますねw

 

クーデター成功から4年後の大化5年(649年)

阿倍内麻呂は突如として急死します。

 

白雉4年(653年)、中大兄によって都が強引に戻されると、置き去りにされた孝徳天皇は失意の中崩御。

 

阿倍氏の後ろ盾で次期天皇と目されていた有間皇子も、中大兄の陰謀で絞首刑に処せられ、あっという間に阿倍氏の勢力は政権から駆逐されてしまいました

 

この阿倍内麻呂の急死は、中大兄による暗殺ではないかという説があります。

 

というのも、そのわずか12日後に、内麻呂の次席である右大臣・蘇我石川麻呂が、中大兄によって自殺に追いやられているから。

 

孝徳天皇を置き去りにしたのも、有間皇子を殺害したのも、中大兄の手によるもの。

 

「大化の改新」とは、まず阿倍氏に協力して蘇我氏を倒し、その後に阿倍氏を倒してトップになるという、二段構えのクーデターだったのかな・・・・という気までしてしまうのですが、どうだったのでしょうかねー。

 

 

「乙巳の変」で朝堂のトップに躍り出て、中大兄の策謀で失墜してしまった阿倍氏は、その後も細々と中央政権に残っていたようです。

 

嫡流をずっとずっと下ると、あの陰陽師・安倍晴明(あべのせいめい)に辿り着きます。

 

 

内麻呂の従兄弟(とされる)である阿倍比羅夫(あべのひらふ)は、日本海ルートで北上して北海道まで遠征したことで有名。

 

この系譜には、唐に留学して玄宗に重用され、帰国の夢かなわずに彼の地で没した阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)がおります。

 

 

あまの原 ふりさけ見ればかすがなる
三笠の山に いでし月かも


安倍仲麻呂/古今集 覊旅 406

 

 

百人一首の7番歌の詠み人としても知られていますねw

 

 

さらに、比羅夫の子孫は奥州に留まって土着しました。

 

その子孫、安倍頼時(あべのよりとき)の娘は、権大夫・藤原経清(ふじわらのつねきよ)に嫁いで、男の子を儲けました。

 

この子が、奥州藤原氏初代となる藤原清衡(ふじわらのきよひら)

 

奥州藤原氏には、阿倍氏の血も流れ込んでいたのですねー。

 

 

安倍頼時の息子・宗任(むねとう)は、「前九年の役」の敗北によって捕らえられ、九州に流されてしまいます

 

その子孫は、海の男たち・松浦党の構成員となり、源平合戦では平家に味方しました。

 

平知盛の子・知貞に娘を入れて関係を深めましたが、「壇ノ浦の戦い」で平家は滅亡。

 

源氏の追及から逃れるために苗字を「安倍」に戻します。

 

それから800年。彼らの子孫は、平成の子らの目の前に、最高権力者となって現われました。

 

安倍晋三・第96代内閣総理大臣その人です。
 

あべちゃん

 


このあたりを系図で確認すると、以下のようになります。


 

なんと、安倍ちゃんは阿倍氏とともに、平家の血も流れているんですなー(系図を信じるならばw)

 

 

2013年。

 

645年に「乙巳の変」で天下を取り、649年に中大兄の策謀で失墜してから1300年あまり。

 

再びもぎ取れた、阿倍氏の天下。

 

より良き治世をほどこして、これまた久しぶりの長期政権を築いて欲しいものです。