今回は「戦中から運用の開始された京元線電化区間が北朝鮮実効支配領域にあったのに、なぜデロイが戦後韓国側に出荷されたのか?」という点を検証したいと思います。
以下日本統治下における鉄道電化の経緯おさらいです。
1940年12月 京元線 福渓/高山間電化設備(直流3000V)着工
1941年12月 京慶線 堤川/豊基間電化設備(直流3000V)着工
1944年4月1日 京元線:福渓/高山間電化営業運転開始
(京慶線電化は工事中断のまま、終戦を迎える)
1945年夏 終戦。南北鉄路分断
「戦中から運用の開始された京元線電化区間が北朝鮮実効支配領域にあったのに、なぜデロイが戦後韓国側に出荷されたのか?」と言う点は「デロイを探せ!」開始当時からの大きな疑問で、かねてからの自分の推理としては米国が「南側(米軍軍政から大韓民国が成立するのは1948年なので、ここでは南側と呼称)主導による早期の北進統一を前提に半ば強引に出荷させた」「端的に言うと、米国は現地実情を把握していなかった」と思っておりました。
しかしながら今回文献調査の結果、以下新たに判明!
以下鉄道ピクトリアル1970年1月号(233号)の記事からの抜粋です。「注記」部分はゴンブロ主宰者の補足です。
「中央線(注記:戦前の京慶線)の電化については・・・(中略)・・・旧鮮鉄末期既に計画されていたが、解放後電化計画の一部として、丹陽-豊基間23km(最大勾配25パーミナル、ループ線あり)をDC 3KVにて工事再開することとし、ECA(注記:米国経済協力局)援助資金により、デロイ型EL5両のほか所要機器を日本から導入、既存の1両と合せ6両にて電気運転の計画であった。そして1950年動乱勃発時までには、送電線・電車線路工事共、すでに90%完成していたが、動乱中数次に亙る激戦場となり、施設の大部分は破損の上、EL5両は北鮮軍により持ち去られるに至り、休戦後は一般復旧が優先した為計画は頓挫するに至った。
その後10年を経た第一次5か年計画作成の折、動力近代化方策の一環として、京釜・京仁線と共に再度電化計画が取り上げられたが、所要資金調達や、当時の電力事情問題も絡み、実現を見なかった。」
(この地図は戦前の電化計画です。上記のうち、南の丹陽-豊基間23km部分の工事再開計画が具体化していた、ということ)
上記文献を見て、米国も何も闇雲に無計画に出荷強行をした訳ではなくて、実態の電化工事とセットになった車輛輸出であったこと、実際の工事もかなりの進捗度であったということが改めて判明しました。
この他にも、戦後の鉄道電化に備えて現地鉄道関係者による運転実習の研修を日本で行ったとの別文献も発見しましたの、また別途ご紹介します・・・
我々戦後教育を受けた人間の感覚としては、何か1945年を境に全てがデジタルに切り替わったかのような錯覚を覚えますが、実態はそんなことはなく、戦後にも戦前、戦中からの連続性が確実に存在していることが、今回の件でもよく判りました。
最後のおまけは、今回のお題とも関連して、朝鮮半島で使用された戦前、戦後の紙幣の変遷です。
まずは戦前の紙幣から
次は戦後の紙幣
終戦後、1947年の米軍軍政下で発行された朝鮮銀行発行の100円紙幣です。戦前の紙幣から一部意匠を修正(発行者部分を変更、日本政府の象徴「桐」のマークを「すもも」に変更等)していますが、一瞥して顕著な連続性が感じられます。
当時貨幣価値は戦前の何十分の一かにシュリンクしていた筈ですが、朝鮮銀行当局がインフレを警戒して高額紙幣の発行には踏み切らなかったため、1950年までの最高額紙幣でありました。
肖像部分のアップ。桐とスモモにご注意ください。
要するに日常はデジタルな変化ではなく、徐々に変わっていた部分もあるということがこの件からも判るかと思います。
それではまた!