デロイ戦後の遍歴その3です。
今回は歴史の暗部、韓国のデロイ/デロニが朝鮮戦争のいつの時点で、北側に持ち去られたかという点を考察したいと思います。
この件に関しては、昔の鉄道ピクトリアルや韓国鉄道史を見ても「・・・1950年の戦争勃発後、いち早く持ち去られた・・・」という記載位しかありません。
(なお、政治的立場により、戦争の名称自体、北側では「祖国解放戦争」南側では「625動乱」もしくは「韓国戦争」とぶれがあるのですが、この項では「朝鮮戦争」で統一します)
1.まずおさらいですが、
デロイを探せ!(その5)でも触れました通り
①デロイ/デロニの生産総量は戦後完成分含め合計16台。
②この内、1945年8月時点で日本統治下の朝鮮半島(韓半島)に
あったものは東芝デロイと日立デロニの合計9両。
(38度線以北8両、以南1両)
③②以外に戦後に連合国軍総司令部(GHQ/SCAP)を輸出
契約者として出荷されたものは東芝・三菱重工/三菱電機製の
デロイ7両。
仕向地は全て「南」側(大韓民国成立前の軍政下南朝鮮)
④纏めると朝鮮戦争前後の南北デロイ/デロニ保有台数は
以下の通り。
(北の保有台数は理論値。損耗分があるかも知れません)
北 南
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1950年6月(朝鮮戦争勃発時点) 8 1+7=8
1953年7月(休戦時点) 15 1
2.で、ここからはゴンブロ主宰者のいつもの推測です・・・
①韓国側にあった8両の開戦時点の保管地点は、
ソウル工作廠7両、釜山工作廠1両だった。
②ソウルにあった7両が持ち去られたのは、
1950年7月から9月上旬にかけての人民軍の
第一次ソウル占領時期2.5ヶ月の間であった。
推測の理由は以下の通りです。
ア.開戦から約3ヶ月の戦局の推移を見ると、開戦時ソウルで
8両全てが保管されていたと仮定すると、
開戦直後の混乱の中、漢江橋梁爆破前に1両だけ南部の
安全地帯に陸送した
もしくは
北側が1両だけ放置していったとなり、可能性が低い。
1950年6月25日 朝鮮戦争勃発
6月27日早朝 韓国政府ソウルから列車で脱出
6月27日 ニューヨークの国連安全保障理事会
ソ連欠席により北朝鮮非難決議
変則的な形で国連軍結成される
6月28日 韓国軍、人民軍のソウル以南への侵攻阻止の為、
漢江にかかる鉄道橋3箇所(京釜線二カ所、京仁線一カ所)、
道路橋1箇所全てを爆破
混乱の中、ソウル市内の韓国軍は自身の退路がなくなり、
総崩れとなり、同日人民軍ソウル占領
(上記はソウル占領直後の7月10日に発行された「ソウル解放記念1950.6.28」と入った北朝鮮の記念切手です。ソウルの中央庁(1945年までの総督府)にひるがえる北朝鮮の国旗という図案です。手回しの異様な速さが周到な準備を窺わせます・・・)
7月-8月 人民軍の猛攻続き、南側国土の大半が占領される
国連軍は釜山橋頭堡まで追い込まれる。
(人民軍は、38度線付近で撤去されていた鉄道を再連結し、
前線への補給に使用開始していました。漢江鉄道橋の爆破は装薬不足で
一部の破壊に止まったため、自動車の通行は可能となりましたが鉄道車両の
通過は不可能となったため、ソウルの南部で鉄道による補給線は一旦
途切れてしまい、効率的な兵站が延ばせず、夏の攻勢の息切れの
原因となってしまいます)
9月15日 マッカーサ指揮下の国連軍 仁川に逆上陸
人民軍が逆に退路を断たれ総崩れに
9月28日 国連軍、ソウルを人民軍から奪還
イ 人民軍が第一次ソウル占領時にはデロイに手を触れず、
その後ソウル奪還時も韓国側は何ら避難処置を取らず、
第二次占領時(1951年1月~3月)に初めて北に持ち去った
とは考えにくい
3.南にあったデロイ8両はかくして7両が北に連行された訳ですが、休戦後も1両だけ韓国側に残存したデロイは韓国側の中央線(京慶線)電化工事再開のめどがたたないまま、電化区間を走ることも釜山工廠を動くこともなく1958年に釜山で解体処分されております。
北に行った仲間達が幸せであったかはともかく、動くこともなく解体されたのは何ともいえません・・・
もしかするとこの1両は日本から最後に船積みされたデロイ33(三菱三原から1948年に出荷)だったかもしれません。
今回も長文になってしまいました。
いつもご愛読有り難うございます。
感謝の気持ちを込めて、今回最後に、東芝府中で1943年夏から秋に撮影されたと思われるデロイ2(デロイ1ではありません。二号機です!)の写真を添付します。写真不鮮明ですが、確かにデロイ2と車番が読み取れます。
次回は戦後デロイの北朝鮮における形式番号について考察の予定です。
それではまた!