今回は戦後に製造された「三菱デロイ」に関するデータです。
先日の三原訪問後、ツテをたどって、「三菱三原製作所50年史」(1995年頃発行)を入手し内容を確認することが出来ました。
同書発行の当時一旦(1979年の段階で)鉄道車両事業から撤退していたとは言え、鉄道車両工場として1943年に建設された成り立ちからか、意外にもかなりのページ数、車両関係の記事がありました。
残念ながら50年史本文にはデロイに関する記事は見つけられず。
本文には1945年9月21日作成の「(昭和)20年度-21年度上期生産計画」(1945/10-1946/9月度の生産計画)なるとてつもなく貴重な写真もあるのですが、1946年上期には生産されていたであろうデロイの記載はありません。
元資料が不鮮明なのですが、これを見ると生産計画にはD52、C57、EF57、修理車両の記載があるだけです。
もっとも、そもそもEF57に三菱製はなかった筈なので、なにかちょっと怪しいです。
(しかも良く見ると終戦直後、物資不足、虚脱感一杯だったであろう状況下、D52 4両、C57 86両、EF57 10両という驚異のハイペースの生産計画です・・・終戦後翌月作成でこのハイテンションはスゴイ)
あきらめかけて、巻末の製作年表を見たところ
・・・・ありました。
さりげなく デロイ3両生産の記載です。
向け先は朝鮮となっていますがこれは大韓民国のことです。
タイトル通り、ゴンブロ主宰者は様々な確度からデロイを探しておりますが、公式資料でもこうして裏付けが取れると、何か大変な達成感があります!
新たな疑問となりますのは、実際の生産と納入の間隔が随分空いていることです。
前回ご紹介した尊敬するある方から頂戴した写真に、中日本重工の会社カタログ用写真として修正されたデロイ33の写真(銘板は三菱のスリーダイヤから中日本重工のマークに修正されている)があるのですが、Date of Completion June, 1946 (1946年6月完成)と記載あり、鉄道ピクトリアル1956年12月号にありましたデロイ31,32:1946年製、デロイ33:1948年生産と辻褄があいません。
単にカタログでは手近な写真を使っただけで製造年は誤植という説もありますが、同鉄道ピクトリアルを見ると、「昭和23年頃には国鉄とメーカに実習生として現地人が渡来してきており・・・」との記載があったので、教習用に一台は三原に残していた可能性はあります。
メーカにとっては、引渡し出来ずに、なし崩しで客先にモノを使い倒されるのは悪夢ですが、ここで想像を逞しくすると当時泣く子も黙ると言われた連合国軍最高司令部(正常な貿易が再開されるまでの、日本からの輸出契約当事者でもありました)から、「無闇に引渡しても韓国側には電化区間がない(京元線の電化区間は「北」側にある)ので、将来電化区間が出来ても(或いは占領された北半分の国土を回復した後でも)これでは運用ができない。製造者として、客先運転指導を含めOperation & Maintenanceを完璧に伝授するまでは、出荷を認めない」位、圧力をかけられていた気もします。
この理由は例によって全くの下名の推測なのですが、上記カタログ写真を見ますと、引渡し(Delivery)や製造(Product or Manufacturing)ではなく、わざわざ完成(Completion)という言葉を使っているのも、何か意味ありげに見えてきます。
ちなみに、中日本重工はワンポイントリリーフで二年たらずしか存続しなかった非常に短命な会社なので、このカタログ写真自体、非常に貴重です。
改めて写真を頂戴した方には深く感謝申し上げます。
<三菱重工業分割の歴史>
1950年 (旧)三菱重工業、GHQの財閥解体指令の一環として
東日本重工業、西日本重工業、中日本重工業に分割
三原製作所は中日本重工業の所属に
1952年 講和条約発効に伴い、三菱名禁止命令解除になる。
重工三社はそれぞれ三菱日本重工業、三菱造船、新三菱重工業に
改称される
三原製作所は新三菱重工業の所属となる
1964年 三重工合併、新生 三菱重工業 発足
なんか今回も長文になってしまいました。
いつも本当にご愛読感謝申し上げます。
それではまた!