第8弾です。
前回に引き続きデロイ導入の経緯です。
今回は硬派に編年体で・・・
青字で京元線、朱記で京慶線関係を表示しています。
1932年10月 鮮鉄局/鉄道電化の実行計画作成に着手
1937年6月 鮮鉄局に電気課新設
1937年度 京元線 福渓/高山間および京仁線 京城/仁川の電化計画
(直流1500V)完成、議会予算請求書を作成したが承認に至らず。
1938年度 京慶線の一部の電化計画追加予算を(国会に?)提出するが
承認得られず
1939年? 三井物産/東芝連合 3000V電化計画の情報を入手。
鮮鉄局と折衝に入る
1940年3月 第75回帝国議会において京元線 福渓/高山間電化設備
(直流3000V 53.9km) 予算可決(359万円)
1940年5月 鮮鉄局・鉄道省・東芝による第一回設計打ち合わせ(@京城)
1940年12月 京元線 福渓/高山間電化設備(直流3000V)着工
1940年12月 京元線:福渓第一電気工事区設置(電車線路工事担当)
1941年3月 第76回帝国議会において京慶線 堤川/豊基間電化設備
(直流3000V 50.5km) 予算可決
1941年7月 京元線:福渓第二電気工事区設置(変電所工事担当)
1941年夏 東芝府中工場完成
1941年12月 京慶線 堤川/豊基間電化設備(直流3000V) 着工
1941年度 京元線:電車線路支持柱 建植 および 福渓(東芝製)・
三防(富士電機製)変電所建屋工事施工
京慶線:設計・用地買収、丹陽変電所建屋工事施工
1942年6月 京元線:三防電気工事区新設(三防変電所工事担当)
1942年度 京元線:電車線路支持柱 建植 および 福渓・三防変電所建屋工事竣工
京慶線:豊基 工事区新設
1943年6月 デロイ1 東芝府中にて完成
1944年3月27日、28日 京元線 福渓/高山間電化試運転
1944年4月1日 京元線:福渓/高山間電化営業運転開始
(重連により25パーミナル勾配で1200トン貨物の牽引を行い、軍から大変に
感謝される)
1945年7月末? 福渓機関区に米軍による爆撃(B17 4機)
車庫設備、運行中の列車、機関車に損傷
(死者30名 負傷者 約120名)
1945年8月 京元線電化区間運転中の貨物列車が艦載機の機銃掃射を受け、
電機に約60発被弾。乗務員負傷。
1945年10月 京慶線:丹陽・豊基間 電化運転開始(予定・・・)
1946年はじめ 京慶線:堤川・丹陽間 電化運転開始(予定・・・)
こうしてみると1940年、1941年といった時期でも、きちんと手順をふんで予算取得手続きがなされており、意外にも帝国議会が機能しているのが印象的です。1932年の515事件で政党政治は終焉、1936年の226事件で軍部大臣現役武官制が復活して、日本は歯止めない軍国化に突入、その後1940年には全政党が解散して大政翼賛会に一本化し、一気に無謀な対英米戦に突入というのが一般的な史観ですが、なんかそれだけでは割り切れない案外マトモな運営が見え隠れするのが不思議です。
今回も長文になってしまいました。最後のおまけは前回ご紹介のマテニ 戦後の姿です。1988年北朝鮮発行の機関車切手(額面20銭)からです。
ハングルを解読すると、「史的機関車 《蒸気》22号」とあります。戦後の北朝鮮では蒸気機関車は全て「蒸気○○号」という連番のようです(一方、鉄道関係部署の内部では戦前の呼称を引き継いでいるという噂もありますが真相は不明・・・)
それではまた!