「フラッシュフォワード」 ロバート・J・ソウヤー 内田昌之 訳 ハヤカワ | 表層人間の半可通読書とゲームリプレイブログ(略称半読書リプレイw)

「フラッシュフォワード」 ロバート・J・ソウヤー 内田昌之 訳 ハヤカワ

ロバート・J. ソウヤー, Robert J. Sawyer, 内田 昌之
フラッシュフォワード
量子力学SFと言うと、コペンハーゲン解釈に基づき、
並行世界の存在を認めるものが多いが、
本作はそれに反論する交流解釈が語られ、
私は胸の痞えが降りました。
「宇宙消失」に怒り狂った人は是非とも本作を読んで溜飲を下げて欲しい。
宇宙は唯一つしか存在しない。
観測者が観察出来る未来は、過去と同じように既に決定されているのだ!
主人公の科学者(理論担当)は、人間に自由意志なんて存在しないと
言いきってしまう。
別の選択の未来なんて存在しない。
唯一の未来に向けて、既に決定している選択を体験するのみであるのだ。
そんな主人公がヒッグス粒子発見の為に、
高エネルギーを発生させたその時、
世界中の人類は同じ夢を見た。
それは、ダークグリーンやがな!
もとい、世界中の人類の意識は21年後の未来の自分に
転移されていた。
2分弱で、現代に意識は戻るが、
飛行機、自動車等を操縦していた者は、
現代に帰った時、多くの者が事故死した。
現代に観察者がいたとしたら、全ての人類が2分間気絶したように
見えたであろう。
主人公は現在ラブラブファイヤーしている日本人娘と
結婚してない未来を体験してしまい、とまどうが、
生きていたのでマシである。
もう1人の主人公(金物担当)は、
未来のビジョンを見ずに、単に気絶しただけである。
そして、彼が殺害された未来を見たものも現れた。
理論屋は未来を変えるのは不可能だというが、
自分が殺されると知った金物屋は、
21年後の殺人事件の犯人と探偵の捜索を開始する。
やっと見つけた探偵は、現在では、小学生であり、
探偵が語った殺害現場は、被害者が行きそうもないところだった。
懸命に情報を集める金物屋。
そして、未来を見たと語っていた、金物屋の弟が死んだ。
ということは、未来は変更可能なのか?
金物屋は安心しつつも、殺される未来になる可能性も残されているので、
気を付けていたが、やはり、彼は21年後に
殺害現場に来てしまっていた。
理論屋は、肌のきめ細やかなロリロリ日本人娘と
結婚出来ない未来が気になり、
ヒィーヒィー言わせる変態セックスにも身が入らなくなり、
淡白に正常位一回しかやらなくなったら、
日本人娘とは別れるハメになった。
未来は変更可能なのか?否か?
はっきり言えば失敗作である。
SFミステリに徹した方がよかったと思う。
哲学者が嫌いな理論屋と、
愛する女より、科学の進歩の方が大事だと思う金物屋のキャラは魅力的であるが、
完璧にミステリにした方が感動すると思う。
ラストで唐突に、ダイソン球が出て来て、ソウヤーなのか
バクスターなのか、混乱したぞ(藁。
交流理論の面白さだけでも、読む価値はあるけどね。
アインシュタインは時間も単純に次元に組み込んだのに、
何故、時間だけを過去と現在と未来に分ける必要があるのか?
絶対座標軸となる特別の観測地点は存在しないのに、
何故、時間だけを特別に認識しなくてはいけないのか?
未来が過去と同じように唯一つしかなくて困るのは、
時間を認識している人間だけである。
未来転移後、人類は、類人猿たちと手話で話すが、
猿たちは、未来を見たとは認識出来ず、
別の場所にいきなり移動したと思い込んでいたことが判るのは痛快である。
未来にこだわるのは、
今はしがないフリーターだが、
未来の僕は人気ミュージシャンさ!
と夢見てるプータローみたいでキモイですね。
未来の自分が結婚出来ない童貞の低所得野郎だったとしてもイイじゃん。
何故、未来の自分だけが、輝かしいものにならねばならないのか?
何故、自分は未来に成功すると夢見るのか?
人生はつまらない、人間はクダラナイ奴ばかりである。
それでも人類の未来は明るい。
何故ならば、科学が生活環境を良くするからである。
夏に存在するクーラーのありがたさを見よ!
冬にこたつでヌクヌクするのは至福の時である!
相当脱線しているが、
並行世界テーマでムカツクのは、主人公たちだけが
有利な選択をするからである。
て、言うか自分で選択したと思い込むのがゴーマンなのである。
別世界の自分が選択しなかったから、自分が選択出来たと
感謝してほしい。
お前等はつまらん選択してサラリーマンやってろ!
俺様はビッグになって金と名誉と女を一人占めしてやる!!
という発想と同じものが、人間原理の並行世界ものにはあると思う。
名もなき大衆が存在するからこそ、偉大なクリエイターが存在出来るのだよ。
誰も彼もがクリエイターになって、生活必需品を生産し管理する者がいなかったら、
社会はどうなる?
クリエイターは社会の寄生虫だと認識して欲しい。
クリエイターの努力というのは後ろ向きの努力であり、
クリエイターが作品を発表しなくても誰も死にはしません。