ゴキゴキ殲滅作戦! -2ページ目

ゴキゴキ殲滅作戦!

念のために言っておくが、私はゴキブリではない。
さらに念のために言っておきますが、このブログはコックローチやゴキブリホイホイとは何の関係もありません。
本と映画と渋谷とフランスについての日記です。

ギヨーム・シベルタン=ブランの『ドゥルーズ=ガタリにおける政治と国家/国家・戦争・資本主義』(上尾真道・堀千晶訳)を読了しました。原著は2013年に発表されたもので(邦訳は2018年)、著者はドゥルーズ=ガタリ(以下D=G)の政治哲学の研究で国際的にも有名なフランス人学者だということです。

 

一言でいえば、D=Gが『資本主義と分裂症』二部作(『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』)で提出している「国家・戦争機械・資本主義」の三位一体についての詳細な分析。

 

全体は三部・六章から成り、第一部(第一・二章)では、原始共同体においてすでに前提されていた〈原国家〉から「国家」が誕生するという自己前提構造、そのような「国家」の「力能」としての「捕獲」が分析されます。そして第二部(第三・四章)で、元来は「国家」の外部にあった「戦争機械」が「国家」によって「捕獲」され、そのことによって「国家」も「戦争機械」も変容していく様子が解析される。さらに第三部(第五・六章)で著者は、公理系としての「資本主義」が、「国家」と結託しつつも諸「国家」を超え、全世界を包摂するにいたる過程を詳説し、最後にそうした「国家・資本主義」に対する抵抗の拠点として「マイノリティー」たちと彼らの「連帯」に希望を託す、という構図です(←あまり理解できていないので、違うかもしれませんw)。

 

「リゾーム」や「器官なき身体」といった「派手な」語は用いず(「逃走線」は一回だけ出てきたかもしれません)、彼らの政治哲学をマルクスの発展形として地道に分析しています。

 

具体例をほとんど示さない抽象的な記述が多く、D=Gの原典ほどではないにしても、相当に難解です。おまけに前半部分(第三章まで/上尾訳)は訳文が生硬で、かなり読みにくい。

 

いつものように赤ペンでチェックしながら読みましたが、議論の「筋」がよく見えず、そのため「要点」もわからないので、チェックした箇所だけでも膨大な量になりましたw。これからその箇所だけを読み返し、何か気づいたら「その2」ということで書こうと思っています。

 

劉慈欣(りゅう・じきん)の『三体(さんたい)Ⅲ/死神永生(ししんえいせい)』上下(2010年、邦訳2021年、早川書房)を読了しました。上下巻で850頁を超える大作である上、勤務先の大学で通信教育の「スクーリング」の授業もあって、読み切るのに二週間もかかってしまいました。世界的ベストセラー「三体三部作」の完結編です。

 

地球を遥かにしのぐ科学技術を持つ三体世界。その宇宙艦隊が迫るなか、人類は「面壁(めんへき)計画」を遂行中である(『三体Ⅱ』)。しかし、その背後で進展する第二のプランがあった。それは「階梯(かいてい)計画」、人間のスパイを三体艦隊に送り込むというものである。かくて、主人公である若き航空宇宙エンジニア・程心(ていしん)に想いを寄せる、雲天明(うんてんめい)の脳を搭載した飛翔体が、三体艦隊に向けて発射された。

 

他方、前作の主人公・羅輯(らしゅう)は「暗黒森林作戦」の実行者である「執剣者/ソード・ホルダー」となっている。高齢のため引退することになり、第二代「執剣者」として圧倒的多数で程心が選出された。就任式典の直後、太陽系に潜んでいた「水滴」(←わずか一機で地球の宇宙艦隊2000隻を殲滅した)三機が地球に向けて発進する・・・

 

超微細人工知能「智子(ソフォン)」を搭載する女性型アンドロイド「智子(ともこ)」、地球の残存戦艦が深宇宙で遭遇する「四次元のかけら」、光速推進を可能にする「空間曲率ドライヴ」、三次元空間を二次元化してしまう超兵器、天明が廷心に贈る小宇宙「宇宙♯647」等々、アイディアの多彩さ、ストーリーの震幅が凄まじく、驚嘆することもしばしばです。

 

掛け値なしの「傑作」。絶対にお薦めですね!

 

劉慈欣(りゅう・じきん)の『三体(さんたい)Ⅱ/黒暗森林』上下(2008年、邦訳2020年、早川書房)を読了しました。世界的ベストセラーになった「三体三部作」の第二編です。

 

太陽系から4.3光年離れ、三つの太陽からなる三体世界。地球を遥かにしのぐ科学技術を持つ彼らは、地球を侵略すべく1000隻の宇宙艦隊を発進させた。彼らの宇宙船の速力は最大で光速の10%に達するが、加速・減速にも大きな時間がかかるため、地球に到達するのは400年以上未来のこととなる。

 

他方で、地球。三体文明が多数送り込んだナノサイズのスーパーコンピュータ「智子/ソフォン」によって、地球上では基礎物理学の実験がことごとく妨害され、もはや物理学の発展は不可能となった。同時に、地球側のあらゆる情報が「智子」を介して三体世界に報告されている。とは言え、「智子」といえども人間の心の中まで見通すことはできない。そこで、「惑星防衛理事会」は四名の「面壁人/ウォール・フェイサー」を選出し、来たるべき「最終決戦」に向けて戦略を立てることを依頼する。「面壁人」の一人で宇宙社会学者の羅輯(らしゅう)は・・・というお話。

 

壮大なスケールを持った重層的なストーリーが、凄く面白い。

 

200年の人工冬眠から覚めた羅輯が見る未来社会と「宇宙軍」の構想は、大変興味深いと思います。三体世界の探査艇「水滴」(形状からそう呼ばれる)一隻が地球艦隊2000隻を殲滅する場面は、背筋が凍る。また、地球を離脱した戦艦「自然選択/ナチュラル・セレクション」とその追撃船四隻の末期も、残酷ではあるが説得力を持っている。

 

オバマ大統領やメタのザッカーバーグCEOも愛読者だとのこと。お薦めですね。

 

本日、午前11時ごろ、今年の仕事を終えました。

 

大学の授業は22日(金)に終了し、その晩はZoomで会議。ここで「仕事納め」でもよかったのですが、「義務=やらなければならない仕事」が残っていると気分的にリラックスできないので、今のところできる仕事は全て片づけてしまおうと考えたのです。

 

で、来年度の「シラバス」で今書けるものは全て書き、一月の授業資料(3クラスだけ残っている)と期末テスト(5クラス分)を作成。さらに来年新しく使うことになった教科書(ある大学で「統一教科書」にしようという計画がある)の「練習問題」の「正解」と「和訳」をパソコンに入力する。それから、確定申告のため、「医療費」の一覧を作り、「決算書」(「原稿料収入」があるので)も作成しました。

 

その後はノンビリと、新聞の読み残した記事を読んでいます。明日、実家に帰って、お正月は図書館で借りてきた『三体Ⅱ/黒暗森林』の上巻を読む予定です。

 

では皆さま、よいお年をお迎えください。

 

『ドゥルーズ=ガタリ〈千のプラトー〉入門講義』(仲正昌樹/作品社)を、ようやくのこと読了しました。読み始めたのが10月8日ごろでしたから、まるまる10週間を費やしたことになります(学期中、読書に当てられるのは日曜と月曜だけなので)。

 

「入門講義」と称していますが、「入門書」ではありません。内容は相当に難解で、著者の解説を読んでもよく分からない箇所が多々あります。とは言え、そもそも原典が難解を極めるので、それはやむを得ないところでしょう。

 

著者は、あの浩瀚な書物で引用・言及される文学、哲学、文芸批評、言語学、文化人類学、考古学、経済学など多岐にわたるテクストを、実際に参照した上で、原典を丹念に読解して行きます。

 

私は『千のプラトー』後半部分では、「リトルネロ」と「生成変化」の概念がよく理解できていなかったのですが、仲正さんの解説は明晰で、今ではそこそこ分かったように感じます。

 

また、第13プラトー「BC7000年/捕獲装置」の国家論・資本主義論も晦渋で、理解できない部分もありますが、非常に興味深いと思いました。

 

森田裕之さんの『ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス」を読む』(作品社)に始まり、私にとってこの一年は「ドゥルーズの一年」でした。ここに来てようやく、ドゥルーズ(+ガタリ)の姿が、おぼろげながら見えてきました。

 

次は何か小説(←『三体Ⅱ』にしようかな)を読んで、冬休みに本書の赤ペンでチェックした箇所を読み返そうと考えています。

 

仲正昌樹さんの『〈千のプラトー〉入門講義』(作品社)を読んでいます。先月初旬に読み始めて、ようやく半分ほどが終わりました(学期中、読書に当てられるのは週二日だけなので)。

 

以前紹介した『「アンチ・オイディプス」入門講義』と同様、週刊読書人が主催した計7回の「連続講義」を書籍化したもので、二段組み440ページ超の大著です。

 

ドゥルーズ=ガタリの原著から引用しつつ、その内容を読み解いていくという形式ですが、「よくここまで調べたな」というのが率直な感想。「地層」の概念やイェルムスレウの言語学など、原著を読んだときは全く理解できなかった事柄が、目から鱗が落ちるように分かります。

 

サルトルやデリダについての記述など、「違うのでは?」と思う箇所もままありますが、全体的には「力作」と言ってよい内容でしょう。

 

上に書いたとおり厳しい読書環境ですが、何とか年末までには読破したいと考えています。

 

岩波書店創業百年記念シンポジウム『知の現在と未来』を再読しました。2013年に開催されたセッションの記録で、刊行は翌年の8月。購入後割と早めに読んだはずですが、このブログでは紹介していなかったようです。

 

全体は二部(←シンポジウムが二日間に渡る)から成り、それぞれ基調講演とパネル討論で構成されています。第一部は広井良典(現在は京都大学教授)の講演「ポスト成長または人口減少時代における科学と知」の後、広井、高橋源一郎他二名での討論。第二部は柄谷行人の「資本主義に安楽死はない」の後、金子勝(慶応大学教授)、國分功一朗(東京大学教授)他一名での議論でした。

 

広井の基調講演が圧巻。5万年前の「心のビッグバン」(=壁画や装飾品の出現)を狩猟採集社会の「定常化/停滞化」、紀元前5世紀頃の「枢軸時代/精神革命」(=世界各地における儒教・老荘思想、仏教、ユダヤ教、ギリシア哲学の同時多発的な誕生)を農耕社会における「定常化」の結果と捉え、さらに現代を人類史上第3の「定常期」とみなします。その上で、福祉・環境・文化・町づくりなどローカルなものを中心とする、新たな「倫理」の可能性を主張する。

 

第二部の柄谷の基調講演は『世界史の構造』の一部を要約したもののようですが、「要約」であるが故か、論理の飛躍や説明不足な部分が多く、いろいろな論者の意見を継ぎ接ぎしただけの「パッチワーク」のように見える。しかし、終盤での「ウクライナ戦争」を予言したような一文には戦慄しました。

 

セッションについて言えば、金子の「集中メインフレームから分散ネットワーク型へ」という主張は、第一部の広井の議論と重なって、大いに説得力があると思いました。また、國分の「これからの国家にどういう役割を求めるのか、それをしっかりと理論的に考えねばならない時期に来ている」という発言にも、同意します。

 

10年前のシンポジウムですが、古さは感じさせません。お薦めですね。絶版になっているようなので、図書館でどうぞ。

 

仲正昌樹さんの『ポストモダンの左旋回』(作品社、2017年)を読了しました。2000年前後に書かれた論考9編をまとめた旧版に、その後執筆された5編を加えた「増補改訂版」です。

 

マルクスから語り始め、柄谷行人と浅田彰、デリダ、ドゥルーズ=ガタリ、リチャード・ローティなどのポスト・モダンの思想家とその政治思想を分析。14の章はそれぞれ独立しているので、自分が読みたい章だけを読めばいい(実際私も、第4章のほとんどと第5章は飛ばしました)。

 

圧巻だったのは、柄谷行人の『マルクス/その可能性の中心』を高く評価しながら、90年代以降の柄谷・浅田の政治活動を批判した、第3章「マルクスの学位論文における『偶然』の問題――柄谷行人がやり残した課題」。

 

また、第8章「ポスト・マルクス主義としてのプラグマティズム――ローティの『文化左翼』批判をめぐって」も、ローティの思想を簡潔にまとめてあって、勉強になりました。

 

さらに第6章「ドゥルーズ=ガタリと『資本主義』の運動」、第7章「ポスト・モダンの『左』転回――デリダ、ローティ、そして柄谷行人(?)」も、読み応えのある良い論文だと思います。

 

ただ、新たに加えられた5編を含め、すべてが2004年までに書かれたもので、加藤典洋の『敗戦後論』(1997年)や高橋哲哉の『戦後責任論』(1999年)の批判などは、若干の「古さ」を否めません。

 

良書だとは思いますが、図書館で借りて、興味を感じた章の興味を感じた箇所だけ読めば、それでよいのではないでしょうか。

 

2013/2/24

今日の朝日新聞の書評で、柄谷行人の肩書が「哲学者」になっているのを見て、驚いた。

 

柄谷は若い頃から、『マルクス、その可能性の中心』など、哲学的な著作を何冊も発表している。それでも彼は、自ら「批評家」と名乗り、どこかでそのことを正当化するような一節も書いていた。

 

ジル・ドゥルーズを巡るシンポジウムで、財津理(ざいつおさむ、『差異と反復』の訳者)さんからカント解釈のデタラメさをさんざん指摘され、その後『批評空間』(←柄谷自身が浅田彰と共に編集した雑誌)掲載時には、財津さんの批判を全て削除してしまったwwwという柄谷が、「哲学者」を名乗るとは!!!

 

最近、『哲学の起源』とかいう本を出したから、気が大きくなっているのだろうか?

 

それとも、その著作の宣伝のために「哲学者」を名乗っているのだろうか?

 

そう名乗っている理由は判りませんが、皆さま、柄谷が哲学について書いていることは、決して信じてはなりませんwww

 

 

10年と半年後の追記

今でもアクセスがあるようので、以下、箇条書きで追加しておきます。

・先日の『朝日新聞』のインタビューによれば、「哲学者」と名乗ったのは出版社の意向だそうです。

・昨年、柄谷が「バーグルエン賞」とか言う賞金金額が大きいだけの「訳のわからない」賞を受賞して、日本のマスコミは大騒ぎしている。過去6人しかいない受賞者で私が知っているのは、チャールズ・テイラーとピーター・シンガーだけで、本当に「訳がわからない」。

・ドゥールーズは、本の読み方には二通りあると書いている。まず、本を一つの箱のようなものとみなして、その中に何が入っているのかを探求する読み方。第二に、その本と共振し、その本がどのように機能しているか(←よくわからないがw)、その本をどのように使えるかを考える読み方。彼は前者を排除し、後者の読み方を称揚する。このような立場からすれば、柄谷のカント読解も「アリ」なのかな、と思う(具体的にどのように読んでいるのかは把握していませんがw)。

・その場合、柄谷の読解が「正しいか/間違っているか」を考えても意味がない。彼の読解が「面白いか/つまらないか」を考えるべきである。

・ちなみに、ドゥルーズのヒューム・スピノザ読解(+デリダのフッサール読解)は、「専門家」からは全く認められていないようです。

・私は『批評空間』(1991年~2002年)以降の柄谷の仕事は、全くフォローしていない。唯一読んだのが『知の現在と未来』(2014年、岩波書店)におけるシンポジウムの基調講演だが、「つまらない(くだらないとまでは言わないが)」としか思わなかった。なお、シンポジウムでの金子勝と國分功一郎の発言は興味深いものでした。

・柄谷は「交換様式」を重要視しているようで、昨年出版された最新作も『力と交換様式』というタイトルだ。他方で、ドゥルーズ=ガタリは『アンチ・オイディプス』で、「交換様式は二次的なものだ(=根源的なものではない)」という意味のことを書いていた。この観点から、柄谷の理論を再検討することができるかもしれない。

 

さらに一日後の追記

念のために書いておきますが、私は柄谷が「二流の批評家」だと言いたいわけではありません。私も『近代日本の批評』や『シンポジウム』などの業績は大いに評価しています。

ただ、哲学の解釈については「全体的に見てその哲学者が言おうとしていると思われる」ことを完全に「無視?」している、だから、たとえばカントなら、柄谷がカントについて書いていることは信用せず、自分でカントを読め、と言いたいのです。

劉慈欣(りゅう・じきん)の『三体(さんたい)』(2008年、邦訳2019年、早川書房)を読了しました。

 

オバマ元大統領やメタのザッカーバーグCEOが推薦したことで、世界的なベストセラーになった中国のSF小説です。邦訳刊行時、日本でも大きな話題になりましたから、ご存知の方(あるいはすでにお読みの方)も多いでしょう。

 

ほぼ等質量の三つの太陽が相互干渉し、複雑な軌道(その一般的な運動は数学的に解析不可能とされる)を描いている三体世界。彼らが住む惑星の自然環境は苛酷を極め、歴史上すでに200以上の文明が滅亡している。現在の文明は光速の1/10で航行する宇宙船を開発するまで発展しているが、その彼らとて、突然の太陽の膨張による惑星そのものの消滅の危機を免れているわけではない。

 

他方で、地球。中国科学院・紅岸基地に勤務する天体物理学者・葉文潔(よう・ぶんけつ)。彼女の任務は、巨大パラボラアンテナを用いて地球外生命体とのコンタクトを試みることである。あるとき文潔は、太陽表面を巨大増幅装置として利用することを着想し、宇宙に向けてメッセージを送信する。この企ては失敗したかに見えたが・・・というストーリー。

 

パナマ運河で太陽が太平洋側(=西)から昇る(375頁)など、ときどき奇妙な記述がある(なお、次ページでは太陽は西に沈んでいます)。

 

文潔が宇宙からのメッセージを受信する箇所(299頁)と三体星人が地球からの通信を受信する場面(383頁)が、主語を除いて全く同一だが、これは何らかの「効果」を狙ったものなのだろうか・・・(あるとしてどんな「効果」?)

 

SF小説はしばしば、その奇抜なセッティングによって、哲学的な側面を持つことがありますが、この小説に関してはそういった傾向は感じませんでした。

 

しかし、設定そのもののスケールの大きさと重層的な物語の面白さは、文句のつけようがありません。章立ては過去と現在とが交錯し、ミステリー仕立てで興味を掻き立てます。文化大革命に関連するエピソードも、多くの日本人にとって「目新しい」ものでしょう。

 

私としては「第一級のエンタメ作品」という評価。お薦めですね。