何だか急にこの本のことを思い出したので、記憶を頼りに書いてみます。

1970年代に書かれたものは読んでおらず、何故か去年本屋さんで完全版という形で出されたものを初めて読みました。五木寛之さん創訳(翻訳ではないらしい)。

 

話の内容は周りのカモメたちが彼らが常識とするカモメの生き方で日々を送っている中、ジョナサンという名の若いかもめが毎日毎日ただひたすら、究極の飛び方を追求する話。

いつしか彼は伝説の存在となり、彼がこんなことを言っただとか、こんなことをしただとかそんなことを語り継がれるようになる。

しかし彼の教えを実践する者はおらず、彼は特別なかもめなのだと崇め奉るだけでした。

そんな中、そういった周囲の在り方に疑問を感じた若いかもめが、空を飛んでいるとき、いなくなったはずのジョナサンに出会い、導かれていく・・・

 

読んですぐにああ、これはイエス・キリストのことだなと思いました。

あとがきを読んでいくと、やはり私と同じことを五木寛之さんも思ったようでした。

 

私の母は新約と旧約の両方が一緒になった聖書を読んでいました。母は教会に行っていたようです。

私は教会にこそ行くことはしませんでしたが(幼稚園の時拒否しました)、母の影響で聖書自体は子供のころから読んでいました。

その経験から元々私は、イエスは自分を伝説にしたかったわけではなくて、ただ私たちもひとりひとりが奇跡を起こせるんだよということを言いたかっただけなんだと確信していたので、ああ同じことを考えている人がここにいたと嬉しくなりました。

 

アブラハムもモーゼもイエスもブッダもムハンマドも、預言者と呼ばれる人たちはただ神の前に私たちは皆ひとつで平等に愛されている存在なのだということ、私たちの中に神と同じものが存在し、願いは叶うのだ、奇跡を起こせるのだということを言いたかっただけなのです。

決して、彼らだけが特別な存在なのではなく、私たちひとりひとりが特別な存在なのです。

彼らとの違いは、自分の中の神様の存在を信じ切ることができるかどうかなのだと思います。

 

私もまだ自己否定感が根強く残っているようで、自分自身を信じ切れていません。

私が私を信頼し認めることで、私と彼の関係性も変わり、私だけの何かを見つける自己実現にも繋がるという確信があります。

恵まれた環境にいても、心からの幸せを感じられていないのは、一番信じて欲しい自分という存在が信じてくれないから。

彼が私が楽しんでいないと嫌だと感じるのは、一番認めて欲しい私が認めてくれないと感じるから。

暫くの間、愛する彼と離れて、自分自身を認めることに専念しようと思います。

 

作者のリチャード・バック氏は「翼に乗ったソウルメイト」という作品も書いています。

私がツインレイの彼と出会った後に、彼の作品を幾つか読む機会を得たのにも何か意味があるのかもしれません。