SS『truth』(マリア様がみてる) | ぐりーくらぶろぐ

SS『truth』(マリア様がみてる)

 聖が珍しく真面目に机に向かい、よしっと気合を入れたまさにその時。携帯電話がメロディーをかなで、メールの着信を伝えた。
 少々がくっとしつつ見てみると、蓉子からのものだった。なんでも、明日自分達が一年生だった頃の山百合会のメンバーでお茶会をするのだそうだ。
 随分突然だなあとは思うが、別に異論はない。むしろ歓迎したい気分だ。
 一、二年生の頃は山百合会にそれほど愛着はなかったので、お姉さま以外のメンバーとは、「おばあちゃん」の涼子さまを除けばほとんど会話もしなかったような気もするが、今となってはとても懐かしい。
 思えば愛し、とはよく言ったものだ。みんなどうしているだろう。

 ただ、一つだけ問題があった。どうしてよりによって明日なのだろうか。明日までに提出しなければならないレポートが白紙のままで、徹夜を覚悟したところだというのに。
 考えうる限りで最悪のタイミングだ。

「お姉さま方と会うのに、あくび連発してちゃマズいよね、やっぱし」

 聖はぽりぽりと頭を掻いた。
 いや、あくびで済めばまだいい方だ。睡眠が足りないときの自分は、まるで猫のように場所を選ばず眠ってしまうということを、聖はよく知っていた。こりゃ即行で終わらせて、少しでも寝ないと、と決意する。
 ……そこで重要な問題に気がついた。すなわち、自分は起床できるのかどうか。
 蓉子にモーニングコールを頼んでおこうかなと考える。
 情けないことをかなり真剣に悩んでいると、またメールがきた。やはり蓉子から。

『飛鳥さまからの伝言。「久しぶりに二人で話したいから、少し早めに来なさい」とのことだったわ。確かに伝えたわよ』

「お姉さまがねえ……」

 聖は一人ごちた。

◇◆◇◆◇◆

「ごきげんよう、お姉さま。お久しぶりです」
「ごきげんよう、聖。……具合が悪そうだけど、大丈夫?」
「アハハ。まあ、自業自得ですから」
「あら、そうなの」

 翌日。
 レポート作成に手間取り、結局睡眠時間がほとんど取れなかった聖は、徹夜明け特有の体の芯に重くのしかかってくる疲労をなんとかこらえつつ、大学へ行ってレポートを提出。その足で待ち合わせ場所へと向かった。
 電車の中でうっかり眠ってしまい、危うく駅を乗り過ごしてしまうところだったが、間一髪で目を覚ました聖である。
 久しぶりに会った飛鳥さまは、ますます美しさに磨きがかかっていて。しかしその一方で、あの頃とまったく同じいたずらっぽい笑みで聖を迎えてくれて、聖はなんだか凄く安心した。

「それにしてもどうしたの?」
「いえ……今日中に提出しなければならないレポートを、徹夜で仕上げていたので」

 聖がそう言うと、飛鳥さまは少し顔を曇らせた。聖としては、そんな顔をしてほしくて言ったわけじゃない。

「まあそんなわけで、単に寝不足なだけなんです。病気とかじゃありませんから、ご心配なく。それに、レポートはもう出してきましたし。」

 ニヤッと冗談っぽく笑いかけると、飛鳥さまは一瞬目を丸くし、そしてクスリと笑った。
 よかった、と聖は思った。卒業してまで心配かけたりしては、あまりにも申し訳なさ過ぎる。

「ごめんなさいね、急に呼び出すようなことになってしまって」
「いえいえ。……ところで」

 聖は気になっていたことを言うことにした。

「なあに?」
「二人だけで、ということは、他の皆様のいないところで話したいことがある、ということですよね?」
「ええ。……そうね、立ち話もなんだから、どこか喫茶店でも入りましょうか」

 飛鳥さまはそう言って微笑んだ。

◇◆◇◆◇◆

 それにしても、と聖は思った。喫茶店のコーヒーは、どうしてこう、馬鹿みたいに高いのだろうか。
 いや、別にコーヒーだけではないが。
 しかし、家で飲むなら多分二十円や三十円で済むものにその二十倍前後の金額を払うのは、やはり理不尽な気がする。その上、大して美味なわけでもないし。
 ……というようなことを、注文を済ませた後の待ち時間に率直に言ってみると。飛鳥さまは苦笑した。

「地価も人件費も、東京は高いものね。空調なんかも馬鹿にならないでしょうし税金もかかるんでしょうから、多少高いのは仕方がないわ。
 いつのまにかこの値段に慣らされてしまっていると考えると、ちょっと怖い気もするけれど」

 でも、と眉をひそめ、飛鳥さまは続けた。

「お店に入って堂々と『美味しくない』なんて言うのはマナー違反よ、聖。気をつけなさい」
「はーい」

 どうせ店員はバイトだろうからそんなことはあんまり気にしないだろう、とは思ったが、姉に久しぶりに注意されたのがなんとなく嬉しくて、聖は素直に返事をした。
 祥子に小言を言われている時の祐巳ちゃんの気持ちが、ちょっとだけわかった気がする。

(そういえば、この前蓉子とデートした時にも……)

 そうそう。あの時は、
「ファミレスのコーヒーは、インスタントコーヒーよりも不味いと思うんだけど、どう?」
と聞いて、ちょっと嫌な顔をされたのだった。
 むむ、自分のこういうところは、ひょっとして直した方がいいのだろうか。
 ……などと考えていると。

「ご注文の品、お持ちしましたあ」

 ウェイトレスがやってきてちょっと舌足らずな声でそう言って、二人の前にそれぞれの飲み物を置いた。
 聖はコーヒー。飛鳥さまは紅茶。二人で違うものを頼んだけれど、これはリリアンですごしたあの当時と同じ。
 ミルクや砂糖を入れずストレートで飲むのを好むのが、姉妹の共通点だった。
 カップを取り上げ、飛鳥さまのカップにカチリと合わせてから一口飲む。……ん?これは思ったより……。

「結構美味しいじゃない」

 一瞬、無意識のうちに口に出してしまっていたのかと思ったが違った。声の主は飛鳥さまだったのである。

「聖、貴女のコーヒーはどうだった?」
「こっちもなかなかのものでしたよ」

 問われて聖は答えた。

「なんだか、ちょっと嬉しいわね」
「確かに」

 そうして、二人でクスクスと笑いあう。なんだか懐かしい雰囲気だ。
 久しぶりに会うということで正直少し緊張していたのだが、そんな必要はなかった。姉妹は卒業してもやっぱり姉妹。飛鳥さまは聖の姉で、聖は飛鳥さまの妹のままだ。二人は確かな絆でつながっているのである。
 ……って、なんか思考が祐巳ちゃんになってるような。

(あー、なんか安らぐなあ)

 そう思っていたら、不意に眠気が襲ってきた。心が緩みすぎたのかもしれない。
 慌ててコーヒーをとり、二口ほど飲んでからふと飛鳥さまの方を見ると、まだクスクス笑っていた。ただし、先程とは違って随分意地の悪い笑みである。

(……見抜かれてる?)

 聖は苦笑し、両手を挙げて『降参』の意を示した。


 それから、いろいろな話をした。
 と言っても、実際は聖が飛鳥さまを質問攻めにしていたのだけど。
 なんでも飛鳥さま、大学では随分とおモテになるらしい。さもありなん、と思う。聖が男でも、間違いなく惚れていただろう。
 なのに未だに、生まれた時から続く『彼氏いない歴』を更新し続けているのだそうだ。

「この人、って思える人がなかなかいないのよ。女子校育ちで、理想が高くなりすぎたのかもしれないわ」

 というのが、飛鳥さまのお言葉だった。その方がなんとなく嬉しかったりするのは、妹としてどうなのだろう。
 聖は?と聞かれたので、なんといっても大学部唯一の薔薇さま経験者ですから、と胸を張ると、大爆笑された。
 こうまでウケると、言った甲斐があるというものだ。


 やがて、二人のカップがほぼ同じくらいに空になる。その時になって、聖はようやくこの喫茶店に来たそもそもの目的を思い出した。

「あの、お姉さま?」
「なあに?」

 帰り支度に入っていた姉は、動きを止めて言った。

「結局、お話ってなんだったのでしょうか?」

 あんまり楽しかったので忘れていたが、そもそも「話したいことがある」と言われて来たのである。ところが、これまでそれらしい話はまったく出ていない。

「……ああ、そうね」

 そうだったわね、と言いながら、飛鳥さまはなぜか苦笑した。

「?」
「こうして話していて、もう改めて聞くまでもないかなと思ったから特に言わなかったのだけれど」
「はあ」

 なんのことやらわからないのですが。そう思って、間抜けな返事をしてしまった。
 ……が。
 次の飛鳥さまの言葉で、聖は一瞬、凍りつくことになる。

「二年前のクリスマス・イブ。貴女、私の家に泊まったじゃない?」

 二年前の。
 クリスマス・イブ。

「───────────っ!!」

 それは、“彼女”が聖の元から去った日。
 身を切るほどにつらい別れを経験した日。
 この心に、癒し難い傷を負った日。

 ……でも。

「そう、でしたね。お姉さま」

 聖はうっすらと笑った。
 笑えた。

 そう、あの日は、決してつらいだけの日ではなかったから。
 姉と親友の優しさに支えられ、自分を愛し見守ってくれる人がいることの幸せを、知ることができた日でもあったから。

 飛鳥さまはちょっと微笑んで、言った。

「あの夜、私が言ったことを覚えているかしら?」

 聖はコクリとうなずいた。言葉にするまでもない、当然のことだ。

「そう、よかった。
では聖。教えてもらえる?今、貴女の瞳に映る、“真実”を」

 聖はそっと目を閉じた。
 思い出すのは、あの聖なる夜。
 蓉子と、そしてこの姉と過ごした、十七回目のバースデイ。

◇◆◇◆◇◆

[二年前のクリスマス]

 飛鳥さまの家に到着すると、飛鳥さまと蓉子は有無を言わせず聖を浴室へと追いやった。

「とにかく早く温まりなさい」

 異口同音にそう言われると、もう抵抗する気など欠片も起こらない。なんでも、二人は一度帰宅して入浴も済ませているのだそうだ。
 ……当たり前か。

「私たちのことは気にしなくていいから、ゆっくりと入っていらっしゃい。
 いいわね?」

 そう言って飛鳥さまが脱衣所の扉を閉じ、聖は一人になった。
 不意に、ブルッと体が震える。一人になった途端、寒さを思い出したかのようだ。脱衣所は電気式のヒーターによってそれなりに暖められてはいたが、真冬の夜に六時間も外にいて芯まで冷え切った身体には、完全に無力だった。
 ほとんど無意識のうちに服を脱いでいった聖は、ふと鏡を見た。映っているのは、涙の跡がくっきり残った聖自身の顔。目がまだ赤い。
 ヒドい顔、と聖は思った。


 お姉さまの家なのだ。お湯にしろシャンプーにしろ、遠慮して使わなくては。普通ならそう考えるところだろう。しかし、今の聖にはそんな当たり前の礼儀すら億劫で仕方がなかった。
 壁の金具にシャワーのノズルを引っ掛けて、蛇口を一気にひねる。温かい、と思っていられたのは最初の十秒くらいで、すぐに耐え難いほど熱くなった。
 だが、聖はそれを無視しようと努めた。どれほど熱く感じたとしても、火傷をすることなどない。すっかり凍えてしまっている身体は、温度を感じ取る感覚が狂ってしまっているのだと、聖はわかっていた。

 だが。そうした理性的な理由とは別に、とにかく自分を痛めつけてしまいたいと言う気持ちも、聖の中にはあるのだった。
 飛鳥さまと蓉子の優しさは、聖の心を確かに楽にしてくれた。しかし、それだけで割り切ってしまうには、栞への想いは、そして彼女への罪悪感は、あまりにも強すぎたのだった。

 ……それでも。身体が温まると、心も少しずつほぐれてくるものらしい。頭も身体も洗い、湯船につかりながら、聖は他人事のようにそう思った。
 飛鳥さまも、ある程度はこうした効果を期待していたのだろう。以前、栞との関係、栞への気持ちについて思い悩んだ時に読み漁った本の中にも、こんなシーンがいくつかあったような気がする。
 まさか自分がその当事者になろうとは思いもしなかったが。

 思考がまたしても自虐的な方向へ向かっているのに気が付き、聖は軽く頭を振った。
 自分が一人きりならそれでもいい。己の惨めさをあざ笑い、栞の運命を捻じ曲げてしまったことへの罪の意識にさいなまれ、どこまでも堕ちてゆく。それは、当然の報いとも言える。
 だが、聖には姉である飛鳥さまがいた。友人である蓉子がいた。こんな自分であっても、案じてくれる人たちが、今ここに少なくとも二人いる。
 今また自分を貶めるのは、彼女たちへの裏切りに等しい。せめて、二人に微笑み返せるくらいには回復しなければ、と思った。
 たとえそれが、見せ掛けだけのものだったとしても。

 脱衣所へ出てみると、何故か聖がいつも家で着ているパジャマと下着があった。
 だが、もう驚きはしなかった。飛鳥さまが気をまわして、家から持ってきてくれたのだろう。あるいは、母が届けてくれたのかもしれない。
 衣類を身につけてから、鏡を見る。そうして、無理やり笑顔を作ってみた。
 姉が「好きだ」と言ってくれた顔では、おそらくないだろう。それでも、先程と比べれば随分とましなはずだった。
 身体が温まったことで、精神も───少なくとも表面は、かなり楽になった。
 壁にかかった時計を見ると、すでに午前一時を大きく回っている。待たせてしまったかな、と思い、ちょっと急ぐことにした。

 部屋に入ると、飛鳥さまはこちらを向いて唇に人差し指をあて、「静かにね」と言った。
 部屋の明かりはテーブルの上のクリスマスキャンドルらしきろうそくの火だけだったので、初めは気が付かなかったのだが、よく見てみれば蓉子がベッドに寄りかかって眠っていた。

「頑張って待っていたのだけれど。やっぱり疲れていたのね」

 飛鳥さまは薄く微笑むと、蓉子にそっと毛布をかけてやった。
 それほどまでに心配させていたのか。飛鳥さまは言わなかったが、聖はそう思い当たった。蓉子は優等生だから夜更かしに慣れていないのかな、などと、一瞬でも思った自分を、聖は恥じた。
 起こしたらいけないと思い、心の中で「ごめんなさい」と謝った。

「いつまで突っ立っているの。こっちへいらっしゃい」

 飛鳥さまは蓉子の隣に少し離れて腰をおろすと、さらにその隣を手でぽんぽんと叩き、聖を呼んだ。言われるままに腰を下ろす。
 一瞬ちらりとこちらを見てから、飛鳥さまはキャンドルの方へと視線を向けた。そしてその澄んだ瞳で、揺らめく炎をじっと見つめている。
 そうしなさい、と言われているような気がして、聖は飛鳥さまの肩にそっと身体を預けた。
 見つめることもなく、何か言うでもなく、ただ側にいて支えてくれるこの姉の存在がとても嬉しかった。
 無言のままで、しかし同じものを見つめて。そうしていると、飛鳥さまの優しさが、少しずつ伝わってくる気がした。
 少しずつ、傷が癒えていくように思った。

 やがて、キャンドルの炎が眠たげに二、三度瞬き、フッと消えた。暗闇が部屋を支配する。そこで不意に、飛鳥さまが口を開いた。

「貴女は、真実は一つ、と思い込んじゃうタイプね」

 ギリギリ聞こえるかどうか、というくらいの、小さな囁き。
 心持ち低めの、かすかに甘いその声の心地よさに、聖の反応は一拍遅れた。

「……よく、わかりません」

 正直に答えると、空気が少し揺れた。多分、飛鳥さまが笑ったのだろう。

「貴女はね。多分、普通の人より深く物が見えてしまう人なのよ」
「…………?」

 言い直したその言葉も、やはり意味がわからない。と言うより、何か繋がりがあるのだろうか。
 それで、黙り込んでいると。

「それがいつのことなのか、私にはわからないけれど。
 あなたが初めてこの世界に目を向けた時、貴女はその洞察力で、ものごとの裏にある嫌な部分を見抜いてしまったのだと思うわ。
 そして、それを自分の中で“真実”にしてしまって、生きてきた。
 栞さんに出会ってからは特にそうだったようだけれど、貴女は自分を取り巻く環境のほとんど全てに嫌気がさしていた。
 そうして、そんな自分が何よりも嫌いだった。
 違う?」
「…………」

 たったの一年。二人の年齢には、たったそれだけの違いしかないはずなのに。
 お姉さま、という存在は、これほどまでに妹のことを理解できてしまうものなのか。
 聖は否定の言葉を持たなかった。唯の一つも、持ち得なかった。

 再び聞こえてきた飛鳥さまの言葉からは、ほんのり含まれていた甘さが消えていて。その代わり、僅かに厳しさが加わっていた。

「だけどね、聖。
 いくらそれらしく見えたって、世の中には、特に人間関係には、絶対の真実なんて存在しないの。
 貴女は自分で自分を縛っているだけ」

 言っている内容そのものは、別に目新しいものではない。要約すれば、“ものごとを前向きに見なさい”という、ただそれだけのこと。自己啓発の本なら大抵は書かれていそうな、むしろ陳腐と言ってもいい内容だ。その手の本を見かける度、それができれば苦労はしないよ、と聖は思ったものだった。

 だが、飛鳥さまの言葉は違った。この胸の奥の奥まで、スルリと入り込んでくる。
 多分それは、不特定多数へ向けた無責任な言葉ではなく、自分のことを誰よりも理解し見守ってくれる、お姉さまの言葉だからだ。
 聖はそう思った。

「私はね、聖。貴女に笑っていてほしい。幸せそうに、笑っていてほしいの。
 貴女は、とても素敵な笑顔を持っているじゃない」
「……っ!?」

 聖は反射的に飛鳥さまの方へ顔を向けた。姉の言葉にごく微量の、こうして身を寄せ合っていなければきっと気付けなかったであろう程に微量の、負の感情が混じっているのを感じたから。

「……今の貴女にこんな説教じみたことを言いたくはないのだけれど。でも、栞さんが去った今日だからこそ、私は言わなくちゃいけない。
 久保栞さんこそが、貴女をもっとも強固に縛り付けていた“真実”だと思うから。
 そう。他の誰でもなく、私ですらなく、栞さんが」
「えっ……?」

 部屋の明かりは、遠くの街頭の光が遠慮がちに差し込んでいる程度。互いの顔がなんとか判別できる、そのくらいの明るさしかない。この暗い部屋の中で、なぜこうもはっきり見えるのか。聖にはわからない。

 だが。

 そう言って飛鳥さまが振り向いた時、聖は確かに“見た”。


 ─────優しい姉の頬を伝う、一筋の涙を。


 ふと我に返ってみると、聖は左手を伸ばし、姉の頬に触れていた。
 今更引っ込めることもできず、そっと涙をぬぐうと、飛鳥さまは二、三度瞬きをした。
 自分が涙を流していたことに、まったく気が付いていなかったように。

「……何故、涙を?」

 やっとしぼり出した言葉は、あまりにも直接的に過ぎると思った。舌打ちしそうなのをこらえて、返事を待つ。
 すると、飛鳥さまは微笑んだ。どこか無理のある笑顔だった。

「……そうね。多分悔しかったのよ、私は」
「…………」

 再び視線を正面へ戻して、飛鳥さまは続けた。

「私が一年間付き合って一度も見ることができなかった笑顔を、栞さんはあっさり引き出した。
 私が一年間かけて理解した貴女の心を、栞さんはほんの数回会っただけで、私よりずっと正確に感じ取った。
 一年間経っても、私は貴女にとって、精々『晴れた日の日傘』程度の存在でしかなかったのに、栞さんはあっという間に貴女の“全て”になった」
「それは……!!」
「私は、貴女の姉だというのにね」
「っ……」

 寂しそうな微笑みは、口を挟むことを許してはくれない。

「そう……。私は、栞さんに嫉妬しているんだわ」

 震える声に、聖の心はズキリと痛んだ。

 自由に、心の赴くままに振舞うことを許してくれた飛鳥さま。この姉のことを、自分は一度でも省みたことがあっただろうか。
 感謝はしていた。だが、ほんの少しでも、姉の心情を思ったことがあっただろうか。

 自分の行動がどれだけこの姉を苦しめていたのか、聖は初めて知った。後悔の炎に身を焼かれ、聖はたまらなくなって飛鳥さまに抱きついた。

「ごめんなさい……ごめんなさい、お姉さま……。私が……私が……っ!!」

 枯れてしまったに違いないと思っていた涙が、後から後から溢れ出す。姉の身体にすがり付いて、聖はただただ謝り続けた。
 やがて、自分のものではない嗚咽がそこに加わって。二人はお互いの身体を抱きしめ、その温かさを感じながら、静かに泣いた。









 そして。二人はようやく、本当の意味で姉妹になれたのだと。
 聖は、そう思った。







「ねえ、聖」
「はい」
「蓉子ちゃんも、江利子ちゃんもいる。何より私が、貴女の側にいる。
 私たちが手伝うから、……必ず、貴女を捕らえている牢獄から抜け出しなさい。
 そして、違った“真実”を見つけるの。
 これは私からの命令よ。いいわね?」
「……はい、お姉さま」



 それは、この世で二人だけしか知らない約束。
 聖なる夜に交わされた、大切な誓い。

◇◆◇◆◇◆

 聖は瞳を開いた。飛鳥さまが、限りなく優しい微笑みを浮かべて見つめていてくれる。

「では、答えを聞かせてもらいましょうか」
「……少なくとも、悪くはないですよ」

 飛鳥さまが卒業してからの日々を思い出す。たくさんの人と出会い、色々な経験をした。
 本当に幸せだった。

 そして勿論、今も。

 万感を込めて、聖は繰り返した。

「本当に……悪くない」

 飛鳥さまはコロコロと笑った。

「貴女ったら、前にも増してひねくれ者になったわね。そんなに幸せそうな顔をして、『悪くない』だなんて」
「そりゃ、私は『顔が好き』なんて言ってヒネた下級生を丸め込むような人の妹ですから」
「言ったわね、こら!」

 飛鳥さまに軽く小突かれ、聖はわざとらしく悲鳴を上げた。こうしてふざけあえることが、たまらなく嬉しいと思う。
 カウンターへ向かう飛鳥さまの後に続きながら、聖は心の中で言った。

(貴女の言葉が、私を救ってくれました。今の私があるのは、あの時貴女がいてくれたから。
 本当に、ありがとうございます)


 飛鳥さまが振り向き、ちょっとえらそうな顔を作って言う。

「今日はお姉さまのおごりよ。ありがたく思いなさい」
「はい、ごちそうになります」

 聖は大仰に頭を下げた。


 言葉にはしなかった自分の想いは、しかし確かに伝わったに違いない。
 店を出て、先程の場所、皆との待ち合わせ場所へと向かって歩きながら、聖は密かにそう確信していた。


<了>