ケイがロスに行ってからどれぐらい過ぎたのだろう……
 一度、暫く帰れなくなったと連絡があったきりで、結菜はここにいて良いのかさえ思うようになっていた。

 その間に、広海は正式に上条財閥の後継者となり、宣言したように芸能事務所との両立をこなしている。
 マユは無事、男の赤ちゃんを出産し、日々育児に追われていた。
 結菜のお腹も少しだけ目立ってきている。
 OMURASUの夫婦にも、妊娠のことを伝え、一人で産んで育てることだけ伝えた。
 初めは驚かれたけれど、身体に負担をかけない程度に働くことを条件に、引き続き雇ってもらっている。
 省吾とはあれ以来、きちんと向き合って話しはしていなかった。たまにバイト先に来て、オムライスを注文し、ありきたりな会話をする程度だった。



「ちょっとお腹が張ってるね。あまり動いたら赤ちゃんに負担をかけるから、なるべく安静にしておくように」
 そう産科医である省吾の父親から言われたのは、定期検診に行った日のこと。
「安静って、それはバイトとかしないほうがいいってことですか?」
「そうだね……省吾から聞いているよ。洋食屋でバイトをしているそうだけど、立ち仕事は控えるべきだね」
……そんな。
「それじゃバイトは……」
「やめた方がいい」

 塚原先生が言うには、子宮が収縮しやすく切迫早産しかけているということだった。
 なるべく動かず安静にしていないと、今以上に子宮が収縮したり出血したりと赤ちゃんが危険になると説明された。
 思っていたよりもバイトを早くやめなければいけなくなった。
 それでも、赤ちゃんの命には代えられない。

 病院を出ると、結菜は広海に電話をした。
 帰ってこいと言う広海の好意を無視し続けた報いなのかもしれない。
「忙しいのにごめんね」
『いいのよ。今日検診だったんでしょ?どうだったの?』
 忙しくても広海は気にしてくれていたみたいだ。
「それが……バイトもやめなくちゃいけなくなって」
 結局一人では生きていけない……意地を張ってもし自分の所為で赤ちゃんに何かあったらと思うと怖くなる。
 
『そこどこ?今から迎えに行くから』


 電話を切ってから30分ぐらいして、広海は結菜のいる場所まで車で駆け付けてくれた。
「なんて顔してるの。大丈夫よ」
 不安そうな表情を浮かべていたのだろう。
 広海に助手席に乗るように促がされた。
「私……帰ってもいいのかな」
 菜穂の居るあの家に帰ってもいいのだろうか……
「何言ってるのよ。いいに決まってるでしょ。菜穂には全部話してあるから結菜ちゃんは何も心配しなくてもいいわ」
「でも……」
「菜穂ね。心配してたわよ。あなたと赤ちゃんのこと。安静にしてないといけないんだったら尚更帰ってきてもらわなくっちゃ」
 前を見たまま話している運転中の広海を隣に感じながら、結菜は顔を背けた。
 あまりに優しすぎる広海に感謝しきれないぐらい気持ちがいっぱいになり、涙で溢れてくる。
「荷物もケイくんのマンションから運んで貰うように段取りはできてるから。用意周到でしょ?」
 フフフっと笑う広海は隣で泣いている自分に気づいているはず。
「いろいろゴメンね……ありがと」
 それは、泣きながら言った精一杯の感謝の言葉だった。



「お帰りなさい」
 菜穂に笑顔で出迎えられると、心が痛んだ。
 一緒に暮らしたいと言ってくれたのに、自分勝手に家を出て、こうしてのこのこと帰ってきた自分を菜穂はどう思っているのだろう。
 酷いこともたくさん言った。
 それでもいつもこうして温かく向かい入れてくれる。
 こんな我が儘な自分でも、優しく包んでくれる……

 躊躇っている背中を広海に押されると、結菜は久しぶりに家の玄関に足を踏み入れた。





















 月日が流れ、結菜は24歳の夏を迎えようとしていた―――
 




「ソラ~幼稚園行くよ!」

 小さい黄色のカバンと帽子を持った結菜は、もう!と不満げに階段を上った。
「どこにいるの~?ソラ~」
 娘の空は、朝になるとよくこうしてストライキを起こす。
 ヒカルの部屋だったドアを開けると、ベッド上の水玉模様の布団がこんもりと盛り上がっていた。
「ソラってば」
 布団を引きはがすと、身体を丸め、ほっぺたを膨らませた空が反抗心丸出しで寝転んでいる。
「ソラ。幼稚園行かないもん」
「またそんなこと言って……」
「だって……」
 いくら聞いても幼稚園に行きたくない理由を言わない。
「幼稚園で何かあったの?」
「…………」
「言わないとママ分かんないよ?」
 チラリと視線が合うとまたすぐに逸らす。
「な、何もないもん」
 きっと言いづらいことなのだろう。
 小さな身体で精一杯反抗している我が子を見るといじらしくなってくる。
 空に内緒で幼稚園の先生に聞いても、それらしい理由は分からなかった。
「何もないんだったら幼稚園に行こうよ」
「行かないったら行かないもん!!」
 空は一度こうと決めれば頑固だ。こういう嫌なところは自分に似ている。
 少し前まではこんな我が儘言わなかったのに……
 こうなれば最後の手段と、結菜はベッドに腰掛け、空の頭を撫でた。
「頑張って幼稚園行けたら、今度の土曜にソラの大好きなオムライス食べに行こうか」
「え?オムライス?」
 オムライスと聞いて一瞬で眼を輝かせ、ようやくベッドから起きあがった。
 もうじき6歳になる空は、時には大人びたことを言うようになったけれど、こういうところはまだまだ子供だ。

 約束だよと指切りをして、やっと部屋から出てくれた。

「あらあら。また立てこもり?」
 菜穂が相変わらずの綺麗な顔でフフフっと笑いながら、洗濯物が入ったカゴを運んでいた。
「菜穂ちゃん。ソラね。土曜日にママとオムライス食べに行くんだ~」
「そう。良かったわね」
 嬉しそうに話す空に菜穂も満面の笑顔で返す。
「ママ。早く行かないと門が閉まっちゃうよ!!」
「はいはい」
 まったく誰の所為で、と言いたいところを押さえながら結菜は荷物を持ち代えると玄関で靴をはいた。
「ママ。ハイは1回よ」
「……はい」
 背中では二人のやり取りを聞いていた菜穂の微笑が聞こえた。








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