15.逃走劇


屋上は一階と違い風が強い。結菜の後ろから時折吹く強い風で、背中まである髪が顔を隠すように暴れていた。
背後には頑丈な、自分の背よりも遙かに高いフェンスがある。そして、前方には男が四人。
カメラを構えているメガネ男は横に移動し、カメラを結菜に向けていた。
-逃げられるとしたらメガネ男の反対側しかない。
結菜は前を見ながら逃げ出すチャンスを窺っていた。
-チャンスがあるとすれば、それは一度だけ……
誰が一番先に動くのか―――
後ろから強い風が吹き、ゴゴゴォという音とともに屋上を通り過ぎていった。

端にいた一番気の弱そうな男が一歩前に踏み出した。すると残りの三人も釣られて一斉に結菜に向かってきた。
-今だ!!
ヒラリと男達を交わしメガネ男とは反対側へ走った。
「逃がすな!捕まえろ!」
メガネ男の声が風でかき消される。
結菜は一度大きな円を描くように走ると、男達は律儀に結菜の後に付いてきた。次に階段へ繋がる唯一の出口の扉に向かって全速で走った。
-このまま逃げ切れる。
そう思ったが、扉の前にあのメガネ男が待ち構えていた。
「そう上手くは行かないみたいだね」
憎らしい男のニヤッと笑った顔が見えた。
でも、結菜は減速せずそのままのスピードで男に向かって走っていった。男はビデオカメラを置き、結菜を捕まえようとしている。
「さっきの、お返しよ!!」
そう言うと走ってきた勢いのまま、男の前でジャンプし、前で縛られている両腕を振り上げ、思いきり男めがけて振り下ろした。
男が倒れていくのと同時に、結菜の身体も勢い余って扉に打ち付けられた。
「―――っつう」
一瞬目の前が真っ暗になったが、頭を振って正気に戻す。結菜を追いかけていた男達は目の前で起こった光景に唖然としているのか動きが止まっている。
その隙に結菜は扉を開き階段を駆け下りた。
「に、逃がすな……っ」
扉が閉まる隙間からメガネ男の弱々しい声が聞こえた。

まだ頭がくらくらする。
-この校舎って何階まであるんだろう。
下っても、下っても、まだ階段が終わらない。
取り敢えず、一階まで下りて教室に戻ろう。そしたら、蓮がいるはずだ。あの男達も教室までは追って来ないだろう。
三階まで下りたところで、後ろから追いかけていた男達がすぐそばまで迫っていた。
このままでは捕まってしまう。
結菜は階段の手すりを縛られた両手で掴むと方向を変え、二階の教室側へと走った。
「誰か。その子を捕まえてくれ!」
後ろから追いかけていた男が叫んだ。
-えっなんで?
教室の前にいた生徒達数人が手を広げている。もしかすると、この男達の仲間かもしれない。後ろも前も挟まれてしまった―――絶体絶命……だ。

結菜は走りながら考えた。このまま突進しようか。それとも大声で叫ぶ?いや。私のことは誰も助けてくれないだろう。ではどうする?
柵の向こうに見える芝生が目に入った。

-これしかない。

結菜は躊躇せず、胸ほどの高さの柵を重なった両手で掴むと、走った勢いに任せ両足をひるがえした。
ふわりと身体が浮き上がる。目の前に広がる光景が、まるでスローモーションのようにゆっくりと動いている。
柵から手が離れるとそこへ追いついた男が手を伸ばすのが見えた。
間一髪……
結菜は……空を飛んだ―――

まるでジェットコースターが下っているときのような、ぞくっとする感覚が全身を支配する。
こんなこと、しなければ良かった。今更後悔しても時間はもう巻き戻らない。
脳裏にはヒカルや広海、教室で笑っているみんなの顔が浮かぶ。
死ぬ前に今までの人生が鮮明に蘇るって言うけれど本当だ。
-私はこのまま死ぬのかもしれない。


足にこれまでにないほどの衝撃がはしった。
「あ……れ?」
-生きてる……?

「お、お前。なんで上から……」
驚きのあまり目を見開いている蓮がそこにいた。
「蓮くん。どうしてここに?」
「俺が知りたいんだけど」
それどころではなかった。
二階を見上げると、男が柵を乗り越えて今にも落ちてきそうになっている。
「こっち」
蓮は結菜が縛られている手首を見ると、そのまま腕を掴んで走り出した。




「ねえ。どうしてここなのよ」
「なに?助けてもらったのに文句を言うのか?」
そこは体育館の用具がしまってある倉庫だった。バレーボールにバスケットボール、マットや跳び箱などが置いてある。
「……だって。だって臭いんだもん」
倉庫にはカビくさい臭いが充満していた。
「そうか、ならさっきの奴らに突き出してやる」
「蓮くん酷い」

蓮は結菜をマットの上に座らせると手首に食い込んでいるネクタイをほどいた。縛られた後がくっきりと赤い。
「普通、二階からなんて飛び降りるかよ。お転婆もほどほどにしないと……」
結菜は自由になった手首を回し、蓮に視線を向けた。
蓮は結菜の顔をじっと見つめている。
-なに?
そして、徐々に蓮の整った顔が近づいてきた。
座っているところはマットの上だ。まさか、そういうつもりでここへ連れてきたとか……?
そして、蓮の手が結菜の頬に触れた。
-この男!?
近い顔が近すぎる。なにこれ、まさか……キスされる?
「お前。殴られたのか」
蓮が殴られた場所を手でなぞると、忘れていた痛みが感覚を取り戻した。
「っう」
「痛いか?女を殴る男なんか最悪だな」
近くで見る蓮の目は優しい。いつもこんな風にしていればいいのに。
「だ、大丈夫よ。それに二倍にして返してあげたから」
「お前って……」
蓮の俯きがちな目を見ていると、このまま本当にキスをされそうな気がしてくる。心臓の鼓動が蓮に聞こえてしまいそうなほど大きくなっていた。
こんな雰囲気は慣れていないからもう限界だ。
結菜は蓮の手を払いのけると視線を逸らした。
-痛い。
今度は派手に打ち付けた右肩に痛みを感じた。蓮に悟られないようにと思っても、自然と手が肩を押さえてしまった。
「そこも痛いのか?」
見せてみろと肩を触られると、さっきよりも激しい痛みに顔が歪んだ。
「大丈夫だよ」
「なにが大丈夫なもんか。少し腫れてる。上条ちょっと服を脱げ」
-は?今なんて言った?
「じょ、冗談でしょ……」
「冗談なもんか。安心しろ。たとえお前が裸で俺の前にいたとしても、欲情しない自信がある」
「それって、女としてどうなの?複雑なんですけど」


結局、絶対イヤを押し通して服は脱がずにすんだ。
「綾ちゃんたち大丈夫かな?」
あのメガネ男は綾たちに何もしていないだろうか。
「あの二人なら大丈夫だよ。それより、上条はどうして追いかけられてたんだ?」
どうして……か。
「なんでだろ?」
「なんだよそれ」
あの男はヒカルに恨みがあると言った。省吾に恨みがあると言った。でも、結局は誰が悪いなんて分からない。きっとあの男達がしたことは何も意味のないことのように思える。

「最近、お前が変な嫌がらせをされてるだろ」
「気づいてたの……?」
「あれだけされて、気づかないわけがないだろ。それで、今純平たちが調べてるとこ」
「調べてるって、何を?」
「それは、俺にも分からない。二人でこそこそ動いているからな。そんで、俺はお前のお守り役。いきなりいなくなるから焦った。純平に何言われるか……でも、こんなにケガさせたんじゃお守り役も失格だな」
蓮は、ははっと力なく笑うと首の後ろに手をあてた。

蓮くんがあの場所にいたのは私を捜していたからなんだ。『自分のことは自分で解決する』なんて……結局はみんなに迷惑をかけている。自分が情けない。情けないよ……

「悪い。俺。何か嫌なこと言ったか?」
結菜は、流れる涙を掌で拭きながら首を振った。
「ううん。違うの……私ってみんなに迷惑をかけてるって思って」
「人は誰にも迷惑をかけずになんて生きられないんだから。助けられたら、笑顔で『ありがとう』でいいんじゃないか?そんなに卑屈にならなくてもいいんだよ。だから、もう泣くな」
蓮の言葉に余計に涙が溢れた。
いつもは機嫌なんて良い方じゃないのに、時々凄く優しくなる。
-なんか。ずるい。
こうして女は蓮くんに惚れていくんだ。
ん?……それって、私が蓮くんに惚れてるみたいじゃない!
ブンブンと頭を左右に振る。
そんなわけ、あるわけない!絶対ない!

「お前……頭も打ったのか?」
ほら。やっぱり意地悪だ。
「あのねぇ」
「シッ」
蓮が口に手を当て黙れという仕草をする。

「こっちはどうだ?」

体育館に響く男の声が聞こえた。