2022.10.9 「主イエスは神である」
本物は虫がつきやすいですね。どういうことかと言いますと、今年の6月くらいに、奈良県にあるバイオリン工房で、私にとっては人生初めて、まともなバイオリンの弓を購入しました。それから暑い夏場には練習出来ないまま、二ヶ月くらい放置し、一度もケースを開けることなく、バイオリンの状態を確認しなかったのです。そして、最近少し涼しくなってから久しぶりにバイオリンケースを開けてみたら、馬の毛でできている弓の毛が沢山切れていました。こんなの初めてだし、まあ、消耗品だから仕方ないかと諦めていました。しかし、その数日後にバイオリンのケースを開けてみたらまた弓の毛が沢山切れていました。そこで、さすがにこれはと思い、どういうことなのか、購入した工房のオーナーさんに聞いて見ました。そして初めて、弓の毛が虫に喰われていることが分かりました。 そのバイオリン工房のオーナーさんと相談しながら、弓の隅々を確認しているうちに、弓の毛の先っぽにくっついている一ミリくらいの小さな毛虫を発見しました。 最悪でした。バイオリンを何十年やって、念願の本物の弓をやっと手に入れたとおもったらこうなったのです。 本物には、虫がつきやすいんだなと、初めて学習したわけです。 皆さんの信仰はいかがでしょうか。 試練大き人生です。悪魔サタンは私たちの信仰に小さな毛虫のように、私たちの弱い隙間を狙ってきて、いつのまにか、私たちの心は、悪魔サタンに蝕(むしば)まれて行きます。しかし、イエス様は、私たちにその一ミリほどのからしだねのような信仰さえあれば十分であると言われました。しかしながら、私たちは一ミリほどのからしだねより、一ミリほどの悪魔サタンにむしばまれて躓いて行きます。そうではないでしょうか? ということは、 もし、そうであるなら、皆さんの信仰は本物であるかも知れません。そして、イエス様はそんなあなたのために、天の右の座においてとりなしをし続けておられるのです。 {詩編2:7~12} さて、最近日本のあるテレビ番組で、他人より優れた才能や技術を持っていたりしたら、かるがると、「神だ。神だ!」という表現をよく使われていることに気が付きます。 皆さんもご存じのように、十戒には、聖書の神のほかに何物をも神としてはならないし、神の名をみだりに唱えたりしてはならないと戒めています。 にも拘わらず、私たちは気づかないうちに、神の名をみだりに唱えたり、他人より優れた才能を持ったりすると、「神だ!」という表現を使ってしまいがちです。 私が、本日のタイトルに「主イエスは神である」としましたのは、単純に主イエスが病人をいやしたり、たくさんの奇跡を起こした方なので、だから主イエスは神であると主張したいのではありません。 世界中の多くの新興宗教や異端は、いまだにその教祖の力強い発言や目に見える才能に左右されて、その指導者をキリストとして、あるいは神として崇めたりしています。 本日、私が皆さんと分かち合いたいのは、主イエスが神様であるという根拠を聖書的観点からはっきりと示すことによって、皆様の信仰がより強くなり、確信に満ち、福音を伝えてほしいからです。 主イエスは、神の御子であり、神ご自身です。アドナイ・エロヒムというヘブライ語を聞いたことのある方もいらっしゃると思いますが、これは、主なる神様の意味であり、御父なる神、御子なる主イエス、御霊なる聖霊、英語でトリニティーの三位一体の神様を含んでいます。 では、まず、新約聖書の方から、主イエスが神である根拠を見ていきたいと思います。
ヨハネ福音書8:57-59. [そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ50歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」 すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。]
ヨハネの福音書10:23-30
【時は冬であった。イエスは、宮の中で、ソロモンの廊(ろう)を歩いておられた。それでユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」
イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行うわざが、わたしについて証言しています。
しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去ることはできません。 わたしは父と一つです。」】
日本のユーチューバーの駿台の先生は、日本を格好よく!と言いながら、聖書の話をしていました。そして、主イエスはご自身を神様であると言っていませんと断言していました。
それなら、わたしと父と一つですというこの御言葉はどのように解釈すればよいでしょうか。聖書をただの出来事として、本の文字として読んでいるから、主イエスを信じることができないのです。
続きまして、
使徒20:27-28
【私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。
あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。 聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、
(With His own Blood)/Dia tou haimatos tou idiou. 神がご自身の血をもって、ギリシア語原文では「その血」になっています。この文章では血を現わす単数形の「haima」ではなく、複数形の「haimatos」、血の複数を意味します。
主イエスは39回鞭うたれたとき、また、十字架に釘付けられたときにも、私たちの罪の為にたくさんの血を流されました。 その血は、主イエスという人間ではない、神ご自身がご自身の血を持って流されたと、使徒パウロは伝えています。ですから、この個所からも主イエスが神であることがわかります。
そして
第一ヨハネ5:19-20にはさらに明確に示しています。
「私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、真の神、永遠のいのちです。」
二千年前に救われたユダヤ人クリスチャンも、なぜ主イエスがメシアであり、神であるのか、答えを求めていたに違いありません。これに対しての説明があります。
ヘブル人への手紙1:1-3
「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、色々な方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。 御子は神の栄光の輝き、また神の本質【ウーシア】の完全な現われであり、その力ある御言葉【rhema】によって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、優れて高い所の大能者【Megalosune:神ご自身】の右の座に着かれました。
では、新約聖書は、クリスチャンの観点から主イエスは神であることがわかったならば、新約聖書を信じないユダヤ人たちやイスラム教の人たちには主イエスが神であることをどのように説明できるでしょうか。
旧約聖書の箴言8:17-31
【わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に探す者は、わたしを見つける。
富と誉れとはわたしとともにあり、尊い宝物と義もわたしとともにある。
わたしの実は黄金よりも、純金よりも良く、わたしの生み出すものはえり抜きの銀にまさる。わたしは正義の道、公正の通り道の真ん中を歩み、わたしを愛する者には財産を受け継がせ、彼らの財宝を満たす。
主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。大昔から、初めから、大地の始まりから、わたしは立てられた。深淵もまだなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしはすでに生まれていた。
山が立てられる前に、丘より先に、わたしはすでに生まれていた。
神がまだ地も野原も、この世の最初のちりも造られなかったときに。
神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。
神が上のほうに大空を固め、深淵の源を堅く定め、海にその境界を置き、水がその境を越えないようにし、地の基を定められたとき、わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、人の子らを喜んだ。】
最後に、詩編2:7-12、ここで「わたしを主イエスに取り換え、主を父なる神に取り換えて読んでみたいと思います。
【わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。』
それゆえ、今、王たちよ、悟れ。地のさばきづかさたちよ、慎め。
恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ。12:御子に口づけせよ。
主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。
幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。】
12節の「御子に口づけせよ」は、御子は主イエスのことであり、口づけせよのヘブライ語の原文には、①touched ②men armed(人々が武装すること)を意味します。
私たちは、主イエスの中において、武装する必要があります。そして、最後に、「すべて主に身を避ける人は」は、原文とおりに訳しますと、「彼の中に、信頼をおくこと」を意味します。
短い時間ではありますが、神の本質[ウーシア]なる主イエスは、神ご自身であり、トリニティの三位一体の神様であることがわかりました。私たちはさらに信仰と確信に満ちて、主イエスこそ、救い主メシアであり、神であること、そしてこの良き知らせをより多くの人々に伝えていけたら嬉しいと思います。アーメン