2022.10.9        「主イエスは神である」

 

本物は虫がつきやすいですね。どういうことかと言いますと、今年の6月くらいに、奈良県にあるバイオリン工房で、私にとっては人生初めて、まともなバイオリンの弓を購入しました。それから暑い夏場には練習出来ないまま、二ヶ月くらい放置し、一度もケースを開けることなく、バイオリンの状態を確認しなかったのです。そして、最近少し涼しくなってから久しぶりにバイオリンケースを開けてみたら、馬の毛でできている弓の毛が沢山切れていました。こんなの初めてだし、まあ、消耗品だから仕方ないかと諦めていました。しかし、その数日後にバイオリンのケースを開けてみたらまた弓の毛が沢山切れていました。そこで、さすがにこれはと思い、どういうことなのか、購入した工房のオーナーさんに聞いて見ました。そして初めて、弓の毛が虫に喰われていることが分かりました。 そのバイオリン工房のオーナーさんと相談しながら、弓の隅々を確認しているうちに、弓の毛の先っぽにくっついている一ミリくらいの小さな毛虫を発見しました。 最悪でした。バイオリンを何十年やって、念願の本物の弓をやっと手に入れたとおもったらこうなったのです。    本物には、虫がつきやすいんだなと、初めて学習したわけです。 皆さんの信仰はいかがでしょうか。 試練大き人生です。悪魔サタンは私たちの信仰に小さな毛虫のように、私たちの弱い隙間を狙ってきて、いつのまにか、私たちの心は、悪魔サタンに蝕(むしば)まれて行きます。しかし、イエス様は、私たちにその一ミリほどのからしだねのような信仰さえあれば十分であると言われました。しかしながら、私たちは一ミリほどのからしだねより、一ミリほどの悪魔サタンにむしばまれて躓いて行きます。そうではないでしょうか? ということは、 もし、そうであるなら、皆さんの信仰は本物であるかも知れません。そして、イエス様はそんなあなたのために、天の右の座においてとりなしをし続けておられるのです。 {詩編2:7~12} さて、最近日本のあるテレビ番組で、他人より優れた才能や技術を持っていたりしたら、かるがると、「神だ。神だ!」という表現をよく使われていることに気が付きます。 皆さんもご存じのように、十戒には、聖書の神のほかに何物をも神としてはならないし、神の名をみだりに唱えたりしてはならないと戒めています。 にも拘わらず、私たちは気づかないうちに、神の名をみだりに唱えたり、他人より優れた才能を持ったりすると、「神だ!」という表現を使ってしまいがちです。 私が、本日のタイトルに「主イエスは神である」としましたのは、単純に主イエスが病人をいやしたり、たくさんの奇跡を起こした方なので、だから主イエスは神であると主張したいのではありません。 世界中の多くの新興宗教や異端は、いまだにその教祖の力強い発言や目に見える才能に左右されて、その指導者をキリストとして、あるいは神として崇めたりしています。 本日、私が皆さんと分かち合いたいのは、主イエスが神様であるという根拠を聖書的観点からはっきりと示すことによって、皆様の信仰がより強くなり、確信に満ち、福音を伝えてほしいからです。  主イエスは、神の御子であり、神ご自身です。アドナイ・エロヒムというヘブライ語を聞いたことのある方もいらっしゃると思いますが、これは、主なる神様の意味であり、御父なる神、御子なる主イエス、御霊なる聖霊、英語でトリニティーの三位一体の神様を含んでいます。  では、まず、新約聖書の方から、主イエスが神である根拠を見ていきたいと思います。

 

 ヨハネ福音書8:57-59. [そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ50歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」 すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。]

 

ヨハネの福音書10:23-30

【時は冬であった。イエスは、宮の中で、ソロモンの廊(ろう)を歩いておられた。それでユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」

イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行うわざが、わたしについて証言しています。

しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。

わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去ることはできません。 わたしは父と一つです。」】

日本のユーチューバーの駿台の先生は、日本を格好よく!と言いながら、聖書の話をしていました。そして、主イエスはご自身を神様であると言っていませんと断言していました。

それなら、わたしと父と一つですというこの御言葉はどのように解釈すればよいでしょうか。聖書をただの出来事として、本の文字として読んでいるから、主イエスを信じることができないのです。

続きまして、

使徒20:27-28

【私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。

あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。   聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、

(With His own Blood)/Dia tou haimatos tou idiou. 神がご自身の血をもって、ギリシア語原文では「その血」になっています。この文章では血を現わす単数形の「haima」ではなく、複数形の「haimatos」、血の複数を意味します。

主イエスは39回鞭うたれたとき、また、十字架に釘付けられたときにも、私たちの罪の為にたくさんの血を流されました。 その血は、主イエスという人間ではない、神ご自身がご自身の血を持って流されたと、使徒パウロは伝えています。ですから、この個所からも主イエスが神であることがわかります。

そして

第一ヨハネ5:19-20にはさらに明確に示しています。

 「私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、真の神、永遠のいのちです。

 

二千年前に救われたユダヤ人クリスチャンも、なぜ主イエスがメシアであり、神であるのか、答えを求めていたに違いありません。これに対しての説明があります。

ヘブル人への手紙1:1-3

 「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、色々な方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。 御子は神の栄光の輝き、また神の本質【ウーシア】の完全な現われであり、その力ある御言葉【rhema】によって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、優れて高い所の大能者【Megalosune:神ご自身】の右の座に着かれました。

 

では、新約聖書は、クリスチャンの観点から主イエスは神であることがわかったならば、新約聖書を信じないユダヤ人たちやイスラム教の人たちには主イエスが神であることをどのように説明できるでしょうか。

旧約聖書の箴言8:17-31

【わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に探す者は、わたしを見つける。

富と誉れとはわたしとともにあり、尊い宝物と義もわたしとともにある。

わたしの実は黄金よりも、純金よりも良く、わたしの生み出すものはえり抜きの銀にまさる。わたしは正義の道、公正の通り道の真ん中を歩み、わたしを愛する者には財産を受け継がせ、彼らの財宝を満たす。

 主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。大昔から、初めから、大地の始まりから、わたしは立てられた。深淵もまだなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしはすでに生まれていた。

山が立てられる前に、丘より先に、わたしはすでに生まれていた。

神がまだ地も野原も、この世の最初のちりも造られなかったときに。

神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。

神が上のほうに大空を固め、深淵の源を堅く定め、海にその境界を置き、水がその境を越えないようにし、地の基を定められたとき、わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、人の子らを喜んだ。】

 

最後に、詩編2:7-12、ここで「わたしを主イエスに取り換え、主を父なる神に取り換えて読んでみたいと思います。

 【わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。』

 それゆえ、今、王たちよ、悟れ。地のさばきづかさたちよ、慎め。

恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ。12:御子に口づけせよ。

主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。

幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。】

 12節の「御子に口づけせよ」は、御子は主イエスのことであり、口づけせよのヘブライ語の原文には、①touched ②men armed(人々が武装すること)を意味します。

私たちは、主イエスの中において、武装する必要があります。そして、最後に、「すべて主に身を避ける人は」は、原文とおりに訳しますと、「彼の中に、信頼をおくこと」を意味します。

 短い時間ではありますが、神の本質[ウーシア]なる主イエスは、神ご自身であり、トリニティの三位一体の神様であることがわかりました。私たちはさらに信仰と確信に満ちて、主イエスこそ、救い主メシアであり、神であること、そしてこの良き知らせをより多くの人々に伝えていけたら嬉しいと思います。アーメン

 

 

2022/9/11         【UNDERSTANDING】

創世記3章全文

 

生まれた時から目の見えない韓国人の20代のバイオリニストがいます。彼女は生まれた時から目が見えなくて、5歳になって視覚障がい者の為の幼稚園に入らせてもらい、小学校2年になるまで、自分が見えないという不自由さを感じていなかったそうです。むしろ彼女は回りが皆、自分と同じだと思っていたとのことです。

彼女の人生は目の見えない代わりに、耳で聴こえている音を通して、感受性を養い、ものを触ることでその存在を認知することができました。

小さい時から音を通してバイオリンを習っていた彼女は、目が見える普通の人とは違う音感を持っていました。もちろん楽譜を見ることも出来ません。目の見える友達が楽譜を見ながらバイオリンを練習し、のんきに遊んでいた時、彼女は曲を覚える為に必死に練習してたそうです。目の見える一般人ですら、バイオリンは習いにくい楽器であるとは皆さんもご存じだと思います。

人の何十倍も努力した彼女は成長し、見事に韓国でも天才しか入れないとされている音楽大学に入り、卒業することになります。そして、何かのきっかけで、アメリカに住んでいる方に保証人となってもらい、神様の恵みの中で留学も出来ました。

彼女は、ミッションスクールを卒業したものの、最初からクリスチャンではありませんでした。2010年の中学生の頃、教会での音楽発表会に行き、そこでたまたま歌われた賛美歌に心打たれ、回心するきっかけになりました。

そしてその後、彼女はアメリカ留学中にクリスチャンの集まりで聖書の御言葉に触れられることになり、主イエスを自分の救い主として、受け入れることになります。彼女の回心は目で見て信じたのではなく、生まれた時から目の見えない状態から、耳で聞いて、神様と出会う霊的な目が開かれたのです。

彼女は韓国のクリスチャン放送に出演されて証していました。司会者が彼女に質問しました。生まれた時から目が見えないことで不便さを感じたり、見えるようになりたいと思ったことはありませんか? 司会者の質問に対して、彼女は言っていました。今も見えないことの不自由さを感じてないし、むしろ霊的な目で見えることに神様に感謝しますと証していました。彼女の素晴らしい信仰に感銘を受けました。

と言いますのは、人は自分が持たないものに対して、うらやましがったり、ねたみを持ちやすいですが、彼女に訪れてくれた神の御霊なる聖霊様は、目の不自由なままではありますが、今持っていることにただ感謝する心を彼女に与えてくださったのです。

目の見える私たちは、外から見える外見でその人を判断したり、今与えられているものにさえ満足しないまま、不満を言ってたりしますが、目の見えない彼女は信仰の中で、すべてに感謝し、目の代わりに心で御言葉を暗記し、生きることへの喜びをもっていました。

私たちも彼女と一緒で、創造主である父なる神の存在は見えません。

これに対して聖書は、ひたすら (シェマー、イスラエル) 聞きなさいと言われています。

創世記1章2章に神は仰せられた、神は言われたとあります。

そして、複数形の神に似せてアダーマ(土)から造られた人間は、初めて神の声に反応します。しかしながら、この時、人は既に神の命令を違反し、罪を犯していました。

創世記3:8です。「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。」とあります。

 

人はアダムの罪により、神との人格的関係を失い、神を難しい存在、近づきにくい存在、神を対象化して考えるようになってしまいました。

聖書的意味の罪とは、人間が小さき神々になろうとすることです。身体的、心的感情である恐れや羞恥心は、人が神から分離されている徴候であります。

この人間と神との関係を回復させる為に十字架にかかられたのが、神の御子なるイエス·キリストです。

私たちは主イエスを信じることで、神の子どもとされました。ガラテヤ3:26-29

3:26あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。 3:27バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。 3:28ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。 3:29もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

 

そして、主イエスは私たちの罪を背負い、ご自身のいのちを捨てました。

 主イエスを信じる信仰により、神は、私たちを友達と呼んでいます。友達とは、互いに尊敬できる、信頼できる存在を意味します。

 

ヨハネの福音書15章

12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
14 わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。
15 わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。

 

イザヤ2:22には、鼻から息する者に頼ってはならないとあります。すなわち、本当に頼れる、信頼できる方は、主イエスのみであります。この方が私たちの友達であります。神を遠い存在ではなく、近い存在、友達のような存在として、主イエスを受け入れてほしいです。

人はなぜ寂しさや虚しさを感じ、生きる意欲を失うでしょうか、それは鼻から息する人間に頼りすぎているからです。

天地創造の初めに、神の形として作られた人間(Imago Dei)は他の被造物のように直接態において神の栄光を現わすものではなく、神との関わりにおいて、神の栄光を照らし続ける鏡のようなものでありました。しかし、アダムとエバの罪により、人類は神との関係が断ち切られ、神から独立し、神の園から追い出されたのです。これは罪を犯したからです。

創世記3:22-24

22.神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」

23.そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。

24.こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。

 

今私たちには、神の霊的働きにより、まるで枝分かれをしたブドウがブドウの木にしっかり結びついてその命をつなぐように、私たちもまた、神の御子なる主イエスを信じる信仰により、父なる神との関係が元の状態に回復され、神の栄光の為に生かされることになりました。アーメン

 さて、第一列王記3章のソロモンの話になりますが、ギブオンで主は夜の夢のうちにソロモンに現れました。

神は仰せられました。「あなたに何を与えようか。願え。」

第一列王記3:7-10

7 わが神、主よ。今、あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし、私は小さい子どもで、出入するすべを知りません。

8 そのうえ、しもべは、あなたの選んだあなたの民の中におります。しかも、彼らはあまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど、おびただしい民です。

9 善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるのでしょうか。」

10 この願い事は主の御心にかなった。ソロモンがこのことを願ったからである。

神の御心にかなった祈りとは、聞き分ける心を与えてくださいと祈ることです。これが祝福につながるのです。

先ほど、冒頭で生まれた時から目の見えない姉妹の話を分かち合いました。彼女は目が見えない代わりに、霊的な目と研ぎすまされた耳で人を判断するができるようになりました。創世記3:8「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた」と、そして第一列王記3:9「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。」とあります。ここで[聞くと聞き分ける]は同じ語源を持つヘブライ語の「shama」から来ていますが、第一列王記3:9にはto hear,listenではなく、understandingに訳されています。

すなわち、私たちには神の声をただ耳で聞くだけではいけません。その声を聞き分ける【Understanding】心が私たちには必要です。私の個人的な解釈になるかもしれませんが、【Understanding】は上からではなく、下に立ち続ける謙遜差ではないと思われます。これは跪いて主の御声を聞き続けるお祈りの姿ではないでしょうか。

創世記3章の最後に、アダムの罪によって、彼らは園から追い出されます。それだけでなく、永遠に生きないようにされます。

罪からくる報酬は死です。アダムとエバの罪により、私たちは永遠のいのちから死ぬべき、呪われたいのちになりました。しかし、主イエスの十字架により、私たちは呪いから解放され、死から復活されて永遠のいのちへと。さらに、追い出された園であるパラダイス、神の国に戻ることができます。

ローマ6:23 「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのちです。」アーメン

マタイ4:5-11           「言葉の力」

 

先週のメッセージの中に、ボクシングの内藤選手のことを触れてましたね。彼は学校の先生の一言で励まされ、人生が変えられた証を聴くことが出来ました。

皆様の人生はいかがでしょうか? 私も高校の英語の先生のおかげで、人生が変わるようになりました。

 

前回の説教の続きになりますが、

主イエスは御霊に導かれて、荒野において40日40夜断食をした後で、空腹を覚えられていました。すると、試みる者、即ちサタンが現れて、主イエスに向かって石がパンになるように、命じなさいとか、この世の富や栄華を見せて、「もしひれ伏して私を拝むなら、この世のすべての国々をあなたに差し上げる」と言っていました。すると、主イエスは言われました。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある、と父なる神の御言葉を用いて返答するのです。繰り返しますが、主イエスは、悪魔の試みを受けられるときに、ご自身の言葉を出すことなく、また決して感情的になることもなく、父なる神の御言葉を引用して、悪魔と立ち向かいました。

申命記6:12-16「あなたは気を付けて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい。あなたの神、主を恐れなければならない。主に仕えなければならない。御名によって誓わなければならない。ほかの神々、あなたがたの回りにいる国々の民の神に従ってはならない。あなたのうちにおられるあなたの神、主は、ねたむ神であるから、あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、主があなたを地の面から根絶やしにされないようにしなさい。 主が正しい、また良いと見られることをしなさい。そうすれば、幸せになると、主なる神は約束しています。

もし私たちが幸せになりたいと思いますならば、主の御言葉を守り、思い起こしましょう。

ここで余談になりますが、出エジプト記のストリーからも分かりますように、かつてイスラエル人はエジプトにおいて400年間奴隷として生活していました。そのエジプトから解放してくださったのが、モーセによるエックソドス(エジプトからの脱出)だったのです。

私たちも主イエスに出会う前、かつては罪の奴隷としていました。それを要するに、霊的なエジプトの状態と言えます。しかし、主イエスを信じる信仰によって、私たちは霊的エジプトからエックソドスすることができました。そして、私たちがこんにち礼拝の時に毎回唱えている十戒は、神様が私たちを幸せにするための約束でもあるのです。

ですから、もし皆様が幸せを求めるならば、ぜひ主の言葉である聖書を読むことをお勧めします。

マタイ福音書4:11に戻りますが、「すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。」とあります。

ここで、御使いたちが主イエスに近づいて来て仕えたという、ギリシア語原文の「diakoneo」

は今や医学用語として、お医者さんが患者をケアーするときに使う専門用語になっています。

繰り返しますが、主イエスは御言葉を用いてサタンと向き合いました。すると、サタンは離れて行きました。すなわち、私たちは、聖書の御言葉を暗記したり、読まないといけない理由がここにあるのです。

御言葉無しのお祈りは、世俗的なお祈りと変わりはありません。しかし、御言葉によるお祈りは力があります。サタンの誘惑を打ち切ることができるのです。

そして、もう一つですが、先ほど、「見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた(diakoneo)

」とありますが、ルカ福音書22:39-43を見てみたいと思います。「それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、『誘惑に陥らないように祈っていなさい。』と言われた。そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。『父よ。みこころならば、この杯をわたしから取り除いてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のとおりにしてください。』すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。」とあります。

すなわち、要約しますと、一つは、御言葉を用いてお祈りすることです。そしてもう一つは、自分の思いや願いを祈るのではなく、天の父なる神の御心は何かを求めるお祈りをすることです。

その時、天の御使いが私たちの面倒を見てくれたり(diakoneo)、力づけてくれたりするのです。

もちろん、そのときに、キリストの御霊である聖霊が、願い求める私たちのうちに働かれるのです。

 今から30年ほど前の私が生まれ育った韓国では、うつ病という病名がありませんでした。うつ病という病名の代わりに、ただ「あの人は頭がおかしくなった!」で片づけられていました。当時の私はというと、「頭が正常に働いていたとはおもえません。」それは、その時にはわかりませんが、年月が経ってから、振り返ってみると、そうであったことがわかりました。

頭がおかしくなると、否定的な考えに落ちいてしまい、生きていることもそうですが、すべての考えにおいてネガティブになります。今やそれをうつ病の状態だと言えます。

アメリカのジョンス・ポップキンス大学の精神科教授の話によると、うつ病に打ち勝つための方法があると言っています。その教授の言葉を借りて伝えたいと思います。

たまに憂鬱になる方はご参考にしてくだされば幸いです。

うつ病に打ち勝つ方法の一つは、感謝の心をもつことであります。そして感謝の日記をつけてみてください。

二つ目は、呼吸法や瞑想をしてください。具体的に合気道の呼吸法やヨガのマインドフルネスがそれです。これらがキリスト教とは異なっているとの議論は抜きにしての話です。

三つ目は、すべての人は弱さがあるので、自分自身の弱さを認めてあげてください。うつ病の経験者と互いに弱さを分かち合ってください。即ち、弱さがあると、逆に強さもあります。自分の弱さを受け入れてください。そして、気分転換ができるように、趣味を持ち、環境を変えてくださいとのことです。

つまり、鬱になりますと、すべてを否定的に考え、口から吐き出す言葉もネガティブな言葉ばかりになります。

箴言18:21「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」

*幸せホルモン:セロトニン。お祈りは脳の前頭葉を刺激し、セロトニンという幸せホルモンを分泌します。これは奇跡を起こすホルモンとも言えます。いまだに医学や化学で仕切れない奇跡がたくさんありますが、これらはお祈りと言葉を信じることで起きる出来事だそうです。周りに、短気でイライラする人がいるならば、脳の前頭葉のセロトニンが不足する証拠です。

なので、その人は、静まって聖書を読んで、お祈りすることをお勧めいたします。

 

本日のポイントは、主イエスは荒野において40日間の断食を終えて、サタンに試されるとき、父なる神の御言葉を用いて、サタンに打ち勝つことができました。そして、主イエスが群衆に捕まえられて十字架にかかる前の夜、父なる神にお祈りをするときに、ご自分の願いよりも、父なる神様の御心を求めて、『父よ。みこころならば、この杯をわたしから取り除いてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のとおりにしてください。』

と言われました。すなわち、神様の言葉はポジティブに、幸せにさせる力があります。しかし、人間の口から出る言葉は逆の場合が多いのです。なので、神の御言葉によって、すべてに感謝し、ポジティブな言葉を使いましょうというのが本日のポイントです。

主題:「御霊(プニュマー)、試み(ペイラゾー)、悪魔(ディアボロス)」

マタイ4:1「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。」 本日は説教というより、聖書勉強に近いですので、ご理解ください。

私訳:ギリシア語原文とおりに訳しますと、「そこで、イエスは御霊によって荒野の中に連れていかれた。悪魔によって試されるためであった。」

では、御霊に導かれて、とありますが、御霊とは?何なのかを少し掘り下げていきたいと思います。

1.  「Hupo tou Punumatos」Hupoは~によって、Touその、Punumatosは霊。すなわち、「イエスは御霊によって」を「その霊によって」と訳すことができます。

「Punumatos」は、「Pneo」から来ています。新約聖書の原文では、人間の霊と神の霊を3つに分けています。[Psyche] [ZoE] [Pnuma]

 

①    人間の霊を「Psyche」と言いますが、これは息、呼吸、いのち、生命、心、魂を意味します。すなわち、肉体の限りあるいのちを意味します

例えば、マルコ10:45「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

イエス様は神様でありながら、神の御姿を捨てて、私たちと同じ肉体をもってこの世に来られました。この肉体のいのちを私たちの罪の為に十字架上でささげられたのです。

アーメン

さて、私たちは、肉体のいのちを維持する為に、仕事をして頑張ります。これはPsycheのためです。しかし、永遠のいのちである「ZoE」は違います。

 

②    「ZoE」(創世記2:7-根拠:創世記3:22)は、聖霊を通して、主イエスを信じる信仰によってのみ、与えられる永遠のいのちのことです。天国に入るカギとも言えます。

ヨハネの福音書3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子主イエスを信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

ヨハネの福音書7:37-38『さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「誰でも乾いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書(エゼキエル47:9)が言っている通りに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」』ここでの聖書というのは旧約聖書エゼキエル書47章のことです。エゼキエル書47章1節と9節を私がお読みいたします。

願わくは、主イエスのいのちの水が川となり、この教会からも四方に流れて行きますようにお祈りいたします。   *例話

このように、主イエスがこの世に来られたのは、肉なるいのちであるPsycheから永遠のいのちであるZoEを、すなわち、信じる者たちに与えるために、主イエスはこの世に来られ、33歳で十字架にかけられ、死から復活されたのです。

③    「御霊」と訳されている「Pneo」「Pnuma」についてみていきたいと思います。「Pnuma」とは、空気の流れ、風、息、聖霊を意味します。特に福音書においては、Pnuma」を「風」と表しています。

  例えば、ヨハネの福音書3:8「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」

  黙示録7:1「この後、私は見た。四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く抑え、地にも海にもどんな木にも、吹き付けないようにしていた。」主の終わりの日には、なんと風の動きが止まります。即ち、聖霊の働きはストップされるのです。

  それでは、マタイ4:1に戻りまして、「主イエスは悪魔の試みを受けるために」の試みについて分かち合わせていただきたいと思います。

「試みを受ける」とはギリシア語で、

2.【PEI RASENAI】 to be tempted「PEI RASENAI」は [PEI RAZO]から来ていまして、 意味:to Test, Examine試験, Prove証明などの意味です。[PEI RAZO]は教育用語で、語源は、「完全にとる、学ぶ、修行する」という語源を持っています。すなわち、解釈の違いかもしれませんが、悪い意味としての「試す」とか「試みる」の意味ではありません。なぜなら、ここから、Disciple弟子という関連語が生まれたからです。

もっと具体的に申しますと、悪魔は悪気を持って父なる神の御子であられる主イエスに近づいていたのですが、父なる神は御子なる主イエスを完全な御子として証明し、訓練するために荒野に連れて行かれたのです。アーメン

私たちにも会社や家庭、社会という霊的な荒野に派遣されています。そしてその荒野に連れて行かれた時には悪魔サタンによって試され、試みられます。しかし、それらのtemptation、即ち誘惑を通して、私たちは教育され,訓練されて、いよいよ主イエスの弟子discipleとされるのです。ですから、皆様がその荒野で勝利することをお祈りします。

新約聖書のヤコブの手紙1:2-4

「私の兄弟たち。様々な試練に会う時には、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じることを、あなた方は知っているからです。

その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなた方は、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」

日本では「修行する」とか「鍛錬する」とかを聞きますと、どうしても仏教用語のように捉えがちですが、キリストの弟子になるにあたって、discipline訓練とは、修行する、忍耐を完全に働かせて、キリストの弟子とされることを意味します。ですから、それがたとえ悪魔の誘惑や試みであっても、主イエスに見習って、御言葉により、勝利して行くことが重要なポイントです。

3.悪魔・サタンについて:皆様の頭にインプットされている今までの概念を横に置いといて、原文を通して、考えていきたいと思います。

まず、新聖書大辞典を見ますと、「サタン」は、ヘブライ語で「敵対する者、訴える者」を意味します。 マタイ4:1にあります「悪魔」もギリシア語原文には「Diaboros」で表しています。日本のゲームでもこの言葉が使われていまして、クリスチャンではない高校生に聞きましたら、この単語を知っていると言っていました。

この「サタン」とか「Diaboros」の話ですが、例えば、旧約聖書の第一歴代誌21:1「ここに、サタンがイスラエルに逆らって立ち、ダビデを誘い込んで、イスラエルの人口を数えさせた。」第一歴代誌21:8『そこで、ダビデは神に言った。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。今、あなたのしもべの咎を見逃してください。私はほんとうに愚かなことをしました。」』

そもそも罪というのは、皆さまもご存じのように悪魔の誘惑に落ちいて、正しい道から踏み外されることを意味します。しっかり悔い改めなければいけません。そして、それに相当する罰も受けなければいけません。ゼカリヤ書3:1「主は私に、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右手に立っているサタンとを見せられた。」

民数記22章を見ますと、バラクとバラムの話とバラムがロバと会話をする場面、そして32節には、主の使いとバラムが話をする場面があります。

32節:『主の使いが彼に言った。「なぜ、あなたは、あなたのろばを三度打ったのか。敵対して出て来たのはわたしだったのだ。あなたの道がわたしとは反対に向いていたからだ。」』ここで「敵対して」は、英語「against」で、ヘブライ語原文には「サタン」と書いてあります。即ち、サタンとは、堕落した天使を「サタン」とよばれるのではなく、この特定の場合に道を妨げる者として「サタン」として書かれていることがわかります。  マタイ16:21‐23読む

23節『しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」』

主イエスはペテロを、神の御心をなすことへの反対する者として怒ったのであって、堕天使の頭として、ペテロに怒ったわけではありません。

説教者である私もかつてはサタンでした。すなわち、神様の働きを邪魔する敵対者でした。しかし、神様の導きとあわれみによって救われ、今はこのように講談に立たせていただいているのです。

結論です。ではどうすれば、神様の御心に反することなく、誘惑に陥らずにいられるでしょうか。それは、ハギオス・プニュマーである聖霊に満たされることです。聖霊に満たされるときに、悪魔からの誘惑を察知でき、聖書の御言葉を思い起こされて、主イエス様のように、御言葉によって勝利することができるのです。アーメン

マルコ1:9-10

「不可能なことを可能にしてくださる神様」

 

この前、マルコ福音書1章の最初のところを一緒に見ましたが、少し伝えそびれたことがありました。それを先に分かち合って、本文に入らせていただきます。

 

洗礼者ヨハネと主イエスの似ている特徴として、本来あり得ない不可能な状況から生まれたことです。

ルカ福音書1:5-11

「ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリザベツといった。

二入とも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落ち度なく踏みおこなっていた。

エリザベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、二人とももう年をとっていた。

さて、ザカリヤは、自分の組が当番で、神の御前に祭司の務めをしていたが、祭司職の習慣によって、くじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになった。彼が香をたく間、大勢の民はみな、外で祈っていた。ところが、主の使いが彼に現れて、香壇の右に立った。」

*もし、皆さんのうちに誰かが教会の掃除の当番になって、一人で黙々と教会の掃除をするときに、主のみ使いであるガブリエルが現れて、声をかけられたら、どんな気持ちになるでしょうか。

*引き続きルカ1:13-20を読む。

 

18節『そこで、ザカリヤは御使いに言った。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」御使いは答えて言った。「私は神の御前に立つガブリエル(*神は私の力)です。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです。私の言葉は、その時が来れば実現します。」』

 

*祭司ザカリヤの前に現れた天使ガブリエルの意味は、「神は私の力」です。

皆様にも家の中でもいいし、公園でもいいし、神様に一人静かに祈ったりしているときに、み使いが現れて励ましてくださることをお祈りします。アーメン

さて、ルか福音書1:18 からも確認できますように、洗礼者ヨハネの父親は祭司の務めをしていまして、年寄りであったことがわかります。母親も年をとっていてしかも不妊の女性であったことがわかります。ところで、祭司ザカリヤにとっては、子供が欲しいと心の中で願っていたことがルカ福音書1章13節を通してわかります。

『御使いは彼に言った。「怖がることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリザベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。」

しかしながら、ザカリヤは自分が願っていたことすら忘れて、天使ガブリエルの話を信じないわけです。

しかし、神様は、もうすでに老人になっているザカリヤとエリザベツを通して不可能なことを可能にしてくださり、洗礼者ヨハネが生まれさせ、神ご自身の御心を成就するのです。

*(私の証を入れる)

 

さて、マルコ福音書に戻りまして、1:4「バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。」とあります。洗礼者ヨハネは、エルサレムの大きな街に出て行かずに、旧約聖書のイザヤの預言通りに荒野で叫んでいました。

つまり、洗礼者ヨハネは人が集まる場所には行きませんでした。ある意味、彼は母親の胎内にいた時から聖霊に満たされていて、他人を気にしない自由人な男であったに違いありません。

 ルか福音書3章12-14節には、荒野で悔い改めを求めている洗礼者ヨハネのところに、わざわざ取税人や兵士たちが来て、私たちはどうすればよいのでしょうかと尋ねてきます。そして、当時の民衆は救い主を待ち望んでいました。そこで、みな心の中で、もしかすると、この洗礼者ヨハネがキリストではあるまいかと考えていたのです。

  ところで、洗礼者ヨハネが「悔い改め」を求めた理由は、先週の野田牧師からのメッセージでもありましたように、当時のイスラエル人たちは、モーセの十戒の一番にあります、「わたしのほかになにものをも神としてはならない」という戒めに、言葉においても行動においても的外れしていたことが考えられます。

そして、洗礼者ヨハネによる、2千年前の「悔い改めなさい」という叫びは、神様から遠ざかっている今の私たちにも現在進行形として当てはまるのです。

 

さて、マルコ1:9です。「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。」

共通の観点から書かれたマルコ、マタイ、ルカの福音書には主イエスの洗礼の様子をそれぞれの観点から記録されています。

それがマタイ3:13、ルカ3:21からも同じ内容の文章が確認できます。

マルコ福音書1章10節に、「主イエスが、水の中から上がられると、すぐにそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのをご覧になった。」とあります。その時、主イエスはガリラヤのナザレという田舎町から来られていました。当時30歳であったとルカ福音書3:23で確認できます。

 

ルカ福音書3:21-22を見てみますと、

さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

 

マルコ福音書には省略されていますが、マルコ1:9と10の間に、洗礼者ヨハネと主イエスとの間に話し合っている場面が「マタイ福音書」から確認できます。

マタイ3:14-15

しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか」。

ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」。そこでヨハネは承知したとあります。

 

マルコ1:10

「そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上にに下られるのを、ご覧になった。」さきほども触れましたが、*ルカ3:21に比べて、時間の差がないことがわかります。

ルカ福音書3:21-22をもう一度確認したいと思います。

さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。

*マルコ福音書の1章の特徴は、なぜか緊急性を表しています。

「~するとすぐ」英語では「immediately」、「直ちに、速やかに」の意味を表しています。

 

1:9, 1:12, 1:18, 1:21 1:23, 1:29, 1:30, 1:42 これらの緊急性はマルコ福音書1章だけで、「~するとすぐ」を8回以上も示しています。これは救い主である主イエスの登場とともに間もなく起こる現象を表しています。

 

マルコ1:10 そして、水の中から上がると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。

皆さんもご存じのようにギリシア語原文で「天」を意味する「ウラノス」という名詞は単数形ではなく、複数形になっています。そして、「天が裂けて」を原文から確認しますと、天がしばらく裂かれて開いている状態としての現在分詞になっていることがわかります。

ということは、主イエスが洗礼を受けられて、水の中から上がって祈っておられるうちに、天から聖霊がしばらく下られ続けていたことがわかります。

*このような不思議な現象を洗礼者ヨハネも、集まった人たちも一緒に見ていたに違いありません。もし、私たちがその場にいたとすれば、どのような気持ちになったのでしょうか。

「うあ、イエス様が洗礼を受けておられる」と感心していたのでしょうか。あるいは、「イエス様が洗礼を受けられてヨルダン川の水の中から上がられ、祈っておられるうちに、聖霊が鳩のように下り続けていたよ」と、主イエスのレゼーンド物語として終わっていたのでしょうか。

ある人は言います。私たちもイエス様の時代にエルサレムに生まれていたらどんなに素晴らしいだろうかと。 しかし、生まれる前から母親のお腹の中ですでに聖霊に満たされていた洗礼者ヨハネでさえもイエス様が目の前に現れたときには、この方こそ「キリストだ。」という確信はありませんでした。

ましてや、私たちの一般人には気づくわけがありません。

本日は不可能なことを可能にしてくださる神様について一緒に分かち合わせていただきました。では、お祈り致します。

 

マルコ福音書1:1-11

『主イエスの遜りと洗礼者ヨハネ、そして韓国における悔い改め運動と聖霊の働き』

 

新約聖書の頭に書かれています四つの福音書、即ち、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書の中で、私がマルコの福音書を選んだ理由は、四つの福音書の中でも最も古いとされているからです。

皆様もご存じかと思いますが、マルコによる福音書が書かれる時代は、主イエスが死と復活をされてから既に40年後の紀元70年と考えられています。日本の歴史で言いますと、弥生時代の大陸からの渡来人による稲作が日本列島に広がる時期でした。

さて、使徒の働き12章25節から13章13節によれば、マルコはパウロやバルナバとともに異邦人伝道に従事していたことがわかります。そして、第一ペテロ5章13節には、マルコをペテロの弟子としていることがわかります。

マルコはぺテロとパウロに同行しながら、ユダヤ人ではない異邦人の救いのためにつとめていました。そして最初にマルコの福音書が書かれ、これを参考にしながらマタイの福音書とルカの福音書が書かれていると一般的に考えられています。

では、そもそも福音とは何でしょうか。もうご存じの方もいらっしゃると思いますが、おさらいする気持ちで再度考えてみたいと思います。

福音とは良き知らせ、ギリシア語原文ではユーアンゲリオン、新しい教えという意味を持っていますし、英語ではGood News或いはGospelとも言われます。

即ち、福音とはズバリ、主イエス・キリストのことです。主イエスは旧約聖書における預言者たちによる救い主メシアの到来を実現させた神の子であり、神ご自身であります。本来、人間の目に見えない神がクリスマスの日に、おとめマリアの体を通して、この世にお生まれになりました。これを神学用語でインカネーションとも言えます。もっと分かりやすく言いますと、神が肉体をもってこの世にお生まれになり、私たちの罪を背負って十字架にかかってくださり、死から三日目に復活されて、それを信じる私たちに永遠の命を与えて下さったのです。今はキリストの霊である聖霊が私たちを助け、導いてくださっています。

マルコは、旧約聖書のマラキ書やイザヤ書を引用して1章2節に、「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と知らせています。

その旧約聖書の預言の通りにバプテスマ洗礼者のヨハネが荒野に現れて、メタノイア、a change of mind,Repentance,悔い改め、もう少し具体的に言いますと、過去の罪悪などに対する良心の呵責を持ちなさいと、洗礼者ヨハネは「悔い改め」を集まってきた群衆に宣べ伝えていました。

そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民がヨハネのところに行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けていました。

ヨハネは洗礼を受ける彼らに対してこのように言いました。1章7節です。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方の靴の紐を解く値打ちもありません。」

洗礼者ヨハネは主イエスのために道を備えていました。そして、彼は主イエスのことを、かがんでその方の靴の紐を解く値打ちもないと言っています。当時、靴の紐を解く仕事は奴隷の仕事でした。

洗礼者ヨハネがここまでいうのなら、では、私は主イエスの靴の紐を解く値打ちはあるのだろうか。何故、自分は救われて、ここまで生きているのだろうかと色々考えこんでしまいました。

それから8節です。「私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、即ち、主イエスは、あなた方に聖霊のバプテストをお授けになります。」

洗礼者ヨハネが悔い改めのバプテスマを宣べ伝え、住民たちに洗礼を授けていますと、なんと主イエスもヨルダン川に来られて、ヨハネから洗礼を受けられました。それは9節です。「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。」主イエスの謙虚さを知ることができます。

冒頭でも触れました通り、主イエスは神の子であり、神ご自身です。しかしながら、洗礼者ヨハネからわざわざヨルダン川まで、足を運ばれて洗礼を受けられたのです。

10-11節です。そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのをご覧になった。そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

ここで、一緒に考えたいことは、主イエスが水の中から上がられるとすぐそのとき、御霊、即ち聖霊が主イエスの上に下られたのです。聖霊は父なる神からの霊でもあります。この聖霊によって、私たちは主イエスを信じる信仰が与えられ、「悔い改め」と神の子とされた者として聖くされるという「聖化」に導かれるのです。

そして洗礼は死と復活の印でもあります。ですから、私たちキリスト者は信仰告白とともに洗礼を受けることをお勧めしているのです。

もう少し、具体的に10節を見ていきたいと思います。「そして、水の中から上がられると、」とありますが、ヘブライ語の意味で「水」は死を意味します。例えば、ノアの箱舟の大洪水、モーセのイスラエル人を引率して裂かれた海を渡ったことなどは、今の洗礼を意味しますし、死からの復活の象徴でもあります。

ですから、罪の悔い改めと洗礼はただのキリスト教の儀式ではないことがわかります。

それでは、

韓国における悔い改め運動と聖霊の働きについて分かち合って、終わりにしたいと思います。

 

韓国における悔い改め運動は、主に1907年の平壌で起きた、リバイバル・ムーブメントがあげられます。今から115年前のことです。これをさかのぼって、4年前の1903年に、元山で二人の女性の外国人宣教師(McCully& White)による悔い改め運動がスタートでした。元々中国の宣教師だった二人は、中国政府の迫害から逃れて韓国に避難していました。二人は韓国人たちにもリバイバルが起きますように祈っていました。この祈り会に他の外国人宣教師たちも合流し、医療宣教師であったHardieを講師として招いて、韓国人の救いのために効果的な祈り方を教えてほしいと頼むわけです。

Hardieはカナダの名門大を卒業し、医師となり、イギリス人としての誇りをもっていまして、当時韓国・朝鮮に対する偏見と差別意識が心の中に根付いていました。しかし、彼は祈り会の講師として招かれて聖書の御言葉を準備しているうちに、驚くべき神の恵みを体験することになります。それは、先ほど申しました韓国・朝鮮に対する偏見と差別を彼自身が根強く持っていることに神の霊である聖霊を通して気づかされるのです。

医療宣教師であったHardieは、祈り会を導く間に、ほかの宣教師たちの前で涙ながらに悔い改めの告白をしました。そして、彼の悔い改めと同時に聖霊様の強い働きの中で、仲間の外国人宣教師たちも悔い改めに導かれました。

その後、1906年8月末に平壌で大規模な大きな集会が開かれまして、講師として

再び医療宣教師Hardieが招かれました。彼の聖書の第一ヨハネを解き明かすメッセージはそこに出席していた多くの宣教師たちとその子供たちに大きなチャレンジーを与えたそうです。

Hardieは神の恵みを受ける前は、自分がどんなに高慢であったのか、どのようにして聖霊様が自分を変えて下さったのかを集まった会衆に証しました。

彼は次のように集まった会衆に向けて叫びました。

「人が自分の力と努力で成功したいと思うのは、高慢であり、信仰のなさからであります。どんなに高い夢も霊的な力なしには成し遂げることはできません。覚えてください。このような霊的力は、祈り続けることから得られるのです。私たちの身体が毎日食事をとることで体力が維持されるように、私たちの霊的な健康も日々祈ることを通して維持されるのです。この時はじめて、私たち人間の目的は、人の栄光から神の栄光へと焦点が移されるのです。」

Hardie宣教師のこのようなメッセージが引き金となり、多くの宣教師たちの子供たちが宣教師として献身をし、その場に出席した人たちが聖霊の体験をして祈り始めました。そして、この聖霊の働きは韓国の南の地方である木浦まで広まって行きました。そして1907年1月2日から15日まで再び平壌で1,000人が集まった集会が開かれました。

1907年1月14日正午に皆が集まって神の前で切実に祈っていました。聖書の御言葉が解き明かされてから、最後まで残っていた600人は夜中2時まで叫び祈りました。まさに、使徒の働きの聖霊の降臨が、罪の悔い改めと共に600人に強く望まれたのです。そして朝鮮戦争が起こる1950年まで、北朝鮮における教会の数は今の韓国の教会に匹敵するくらいだったそうです。

私を日本に派遣してくれたソウルにあります西大門長老教会も、実は北朝鮮の人たちが1949年に北朝鮮の共産主義の迫害から逃れて今の教会を建てました。そして、115年前の韓国・北朝鮮での聖霊の働きは、ソウルにあります私の母教会を通して、そして私はその教会で救われて、私を日本にまで宣教師として送られるようになったのです。

これぞ、洗礼者ヨハネがマルコ1章8節で言いました、「私はあなたがたに水でバプテスマを授けますが、その方、主イエスは、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」という御言葉に当てはまる歴史的お証になったのです。

 

本日は、マルコの福音書1:1-11を通して、「主イエスの遜りと洗礼者ヨハネの働き、そして韓国における悔い改め運動と聖霊の働き」について分かち合わせて頂きました。

では、お祈りをささげたいと思います。