【追記】2023年3月1日、新ブログで記事を更新しました。→ 『天国と地獄』公開60周年 黒澤明が追跡した地獄からの声 




今日(3月1日)は、黒澤明の映画『天国と地獄』(1963)が公開された日で、公開から50年目を迎えた。

誘拐事件を題材にしたサスペンス映画の大傑作。

私が『天国と地獄』を最初に見たのは、1990年5月26日の広島映像文化ライブラリーでの上映だった。

当時は、この映画を含む黒澤映画の殆どがソフト化されていなかったので、電車と新幹線に乗って広島まで見に行った。

開場前、暑い陽光の下、大勢の人達と一緒に並んだ。

そして、長い間見たかった『天国と地獄』は、期待以上の面白さだった。

神業的な構成の脚本、正確無比なシネスコ撮影、三船敏郎と仲代達矢の共演などなど。

フレームの隅から隅までが完璧な映画と対面できた興奮に震えた。

1コマも見逃すまいと2回続けて脇目も振らずに食い入るように見た。

23年経った今も色褪せない暑い広島での思い出だ。


『天国と地獄』が公開された日なので、久しぶりにBlu-rayで鑑賞。

クライテリオン盤Blu-rayは驚異的な高画質で、ジャケットのデザインも素晴らしい。

特典映像も、日本版DVDのドキュメンタリー「黒澤明・創ると云うことは素晴らしい」の再録や、誘拐犯を演じた山崎努の撮り下ろしインタビュー(2008年)の他に、三船敏郎が1981年に出演した「徹子の部屋」までが収録されているのには驚く。

レンタルビデオも出ていなかった時代を思うと隔世の感がある。



今回は、アメリカ人映画評論家スティーヴン・プリンスによるオーディオ・コメンタリー(音声解説)を聴きながら鑑賞する。

日本の映画や文化に造詣が深いプリンスによる映画と制作当時の日本についての解説は非常に具体的で明快、そして洞察力に富んでいる。(もっとも、そんな彼も『野良犬』をジョルジュ・シムノンの小説の映画化と言ったり、『影武者』の上杉謙信を朝倉義景と間違えたりするのだが…)

マルチカメラ撮影や望遠レンズなど黒澤明の映画技法を具体的に解説していく。

特に、東宝スコープの効果を最大限に活用した「ワイドスクリーン映画制作の史上最高の一例」として絶賛している。



プリンスは、エド・マクベインの原作と黒澤明の映画との違いも解説していく。

原作の主人公ダグラス・キングはアメリカ的な資本主義を疑うことは無く、最後には自ら誘拐犯人を殴り倒し、経済的な成功も手にする。

これに対して、『天国と地獄』では、主人公の権藤金吾(三船敏郎)も最初は非情に撤して弱肉強食の(西洋的)資本主義社会で勝とうとするものの、誘拐事件で難しい選択を迫られ悩む過程で経済的に敗北するが、最終的に人間性を取り戻す(日本的)美徳の人物だとプリンスは説く。



権藤邸の内装を例に、1960年代の経済成長期から日本が急速に西洋化していったことも語られている。

米の消費量が減少するのに反比例してパンと牛乳の消費量が増加して、住宅も西洋化していった。

経済成長期の日本では家電品も普及していったが、『天国と地獄』が公開された1960年代、エアコンはまだ非常に高価であり、権藤がエアコンを持つ富裕層であることが、誘拐犯の犯行の動機にもなった。


因みに、数年前、『天国と地獄』をリメイクしたテレビドラマが放送された。

私は未見だが、リメイク版のラストで、誘拐犯が「エアコンが買えない」という台詞を言うのを知ったときには呆れた。

安易に過去の作品をコピーするより、かつて黒澤がそうしたように、今の時代に合うよう換骨奪胎するべきだ。


いつも思うのだが、過去の名作映画を安易にリメイク(再映画化)するという愚行はもう止めて、リバイバル(再公開)こそしてほしい。

制作費が浮くし、過去の名作映画を若い世代にも伝えることが出来て一石二鳥だ。


閑話休題。



特急第2こだまの場面は何度見ても手に汗握る迫真の展開だ。

プリンスは、酒匂川の鉄橋の場面は、異なる角度から同時に一つの対象を見るという構成を、画家志望だった黒澤明らしい「キュビスト的視点」と指摘していた。



又、プリンスが指摘する侍とビジネスマンに対する黒澤明の(少なくとも映画の中での)姿勢の違いは興味深い。

戦国時代の下剋上に好意的な黒澤が現代社会のビジネスマンによる裏切りに否定的なのは何故か。

侍もビジネスマンも己の利益の為なら非情で裏切りも辞さないという点では共通しているが、『悪い奴ほどよく眠る』などで拝金主義を批判した黒澤明は、能楽などを嗜んだ織田信長や武田信玄のような侍の美意識と精神的美を讃えているとプリンスは指摘している。



もう一つ印象的な解説は、病院で刑事達が誘拐犯に気付く場面を、プリンスは、台詞無しで映像のみで見せる「経済的」で「完全に映画的」な表現と評価していた。

芸術を「経済的」と形容する感覚は、芸術表現さえも理論的に捉えようとする西洋人独特のものかもしれない。

そのことで連想したのは、狂言師の野村萬斎が著書『狂言サイボーグ』(日本経済新聞社)で語っていた体験談だ。

マルセル・マルソーが演劇ワークショップに参加したフランス人の演技を「不経済」と表現したことに萬斎は驚いたそうだ。



又、プリンスは、横浜の伊勢崎町で刑事達が誘拐犯を尾行する場面で、レコード店に展示されているリー・モーガンのレコードにも注目。

日本人女性と結婚したモーガンは麻薬問題も起こしていた。

これは黄金町での麻薬の場面を暗示していたのかもしれない。

プリンスが「ゾンビのようだ」と形容する麻薬中毒者で溢れかえる黄金町の場面には戦慄する。



そういえば、ジブリアニメ『コクリコ坂から』(2011)は、『天国と地獄』と同じ1963年(昭和38年)の横浜を舞台にしていた。

学生達の純粋な青春物語が展開していた同じ年の同じ街で、誘拐犯と警察の息詰まる追跡劇が展開していたと思うと、かなりシュールだ。



『コクリコ坂から』は、題名通り、坂道が印象的だったが
、『天国と地獄』も「天国」と「地獄」を隔てる象徴として効果的に描かれていた。

山崎努とプリンスは、土地の高低(正に『天国と地獄』の英語題名 High and Low だ)が多く、視覚的にもダイナミックな地形をしていることが、黒澤が横浜を映画の舞台に選んだ理由だろうとも語っていた。




ところで、『天国と地獄』は、「前途有望なインターンが犯罪を犯すのは不自然だ」と以前からよく批判されている。

だが、佐藤秀峰の『ブラックジャックによろしく』でも描かれたように、医学生の生活は今も苦しいし、富める者への嫉妬と憎悪が貧しい青年を犯行に駆り立てたとしても不自然ではない。

むしろ、この映画の唯一最大の問題点は他の所にある。



私が『天国と地獄』の唯一の問題点だと思うのは、やはり警察の描写だ。


映画に登場する刑事は正義感に満ちた者ばかりだが、現実の神奈川県警は、最近のPC遠隔操作事件の冤罪でも明らかのように、昔から現在に至るまで不祥事の温床だ。(日本の警察が過酷な取調による自白を偏重していることはプリンスも指摘している)


ただし、何人かの映画評論家が言っていたような「戸倉警部(仲代達矢)が、誘拐犯を死刑にするために、犯人を泳がせてワザと殺人を犯させる」という指摘は間違いだ。

警察の操作が犯人に及ぶ以前に、誘拐犯は既に共犯者を殺害していたのだから(死刑の是非はさて置き)殺人罪は適用される筈だ。

貧しい境遇の誘拐犯を『罪と罰』のラスコーリニコフに似たドストエフスキー的キャラとして同情する気持ちは黒澤明の中にも(『野良犬』の遊佐ほどではないにしろ)幾分あったかもしれない。

だが、犯人の惨めな境遇を考慮したとしても、何の罪も無い一般市民(それもまだ幼い子供)に危害を加える誘拐という犯罪が如何に許し難い悪質なものであるかは現実の犯罪の凶悪さを見れば自明だ。



映画公開当時は罰則が軽すぎた誘拐に対する黒澤明の憤りは正しいが、同時に現実の神奈川県警が映画のように正義感に満ちた刑事ばかりではないことも無視する訳にはいかない。

警察の非情な捜査には議論の余地がある。



いずれにしても、『天国と地獄』は、映画として完璧に近い大傑作なのは間違いない。

23年前に広島で初めて見たときと同じ興奮と感動が、今回の鑑賞でも全く色褪せていないことを実感した。