先日購入した樋口尚文氏の名著『グッドモーニング、ゴジラ 監督 本多猪四郎と撮影所の時代』の復刊版(国書刊行会)について、著者の「長いあとがき」を読んで思ったことを綴る。


副題にあるように、この本は、映画監督・本多猪四郎(ほんだ いしろう)の生涯と映画監督としての仕事を通して、東宝撮影所の歴史を辿る内容だ。

言うまでもなく、本多猪四郎監督は、『ゴジラ』(1954)、『空の大怪獣ラドン』(1956)、『モスラ』(1961)等の東宝特撮映画で知られている。だが、この本が貴重なのは、普段あまり語られることのない特撮以外の本多監督の業績にも丁寧に光を当てていることだ。


実は、今回の復刊版で一番気になっていたのは、巻末の「長いあとがき」だった。中でも、特に気になった点を二つ。

一つは、今年は本多監督の生誕100周年というめでたい年なのに、あまり関連イベントやゴジラ映画の復興が見えてこないことだ。予想はしていたが、「あとがき」によると、やはりゴジラというキャラクターの著作権を巡って法的にもめているらしい。

もう一つ(これが一番気になったのだが)は、「ゴジラと反核のテーマ」の是非だ。これは、評論家だけでなく、ゴジラ映画の熱心なファンの間でも議論の的になることが多い。

樋口氏は『グッドモーニング、ゴジラ』で、第一作『ゴジラ』(1954)には、世評で言われる程の「反核」のメッセージは無いと主張している。そして、「あとがき」にもあるように、当の本多監督も『ゴジラ』は反戦・反核のテーマではないと語ったそうだ。

では、『ゴジラ』が所謂「反核」から全く無縁かというと、それも正しくないと私は思う。

そもそも「水爆大怪獣映画」と銘打たれた『ゴジラ』には、ビキニ環礁での水爆実験に恐怖した当時の世相が色濃く反映されている。ゴジラ自身が水爆実験によって突然変異したジュラ期の恐竜であり、行く先々の土地や水を水爆の放射能(ストロンチウム90)で汚染していく。長崎の原爆から命拾いした女性が、ゴジラの脅威から「疎開」を話し合う場面もある。ゴジラによって焦土と化した東京に溢れる夥しい数の被災者の中、ゴジラの放射能に被曝した幼い少女にガイガーカウンターが反応する痛ましい場面。

たとえ本多監督が意図しなかったとはいえ、これらの場面を恐怖と悲しみで描写する映画に、「反核」とまでは言わなくても「核に対する恐怖」を感じない人がいるだろうか?

どのような要因や経緯であったにせよ、広島・長崎の惨禍から僅か9年後に制作された『ゴジラ』には、原水爆の脅威を身近に感じていた「時代の空気」を映さずにはいられない何かがあったのかもしれない。

平成ゴジラ映画の「反核」メッセージがどこか取って付けた様な空々しさを覚えるのに対して、第一作『ゴジラ』の原水爆や放射能に対する恐怖が今も生々しく感じられるのは、このように「時代の空気」を違和感なく映画的に表現していたからだと思う。

話が飛躍するが、黒澤明監督の映画『夢』(1990)と、『八月の狂詩曲』(1991)を思い出した。
この二本の映画は紛れも無く反核を訴えていたが、黒澤監督は「反核」がテーマと見られることを繰り返し拒んでいた。黒澤監督自身が核兵器や原発に強く反対する発言をしていたにも関わらずだ。

私の主観だが、この黒澤監督の姿勢と、本多監督の第一作『ゴジラ』に対する姿勢は、どこか似ているような気がする。

二人の監督にとって、「反核」はあまりにも自明なことであり、ことさら自分から話すまでもなかったのではないか。それよりも、映画を心から楽しみ純粋に感動する中で監督が伝えたかったことを感じてほしかったのかもしれない。

頭でこしらえた「テーマ」や「メッセージ」は表層的で忘れられやすい。それは、ただのプロパガンダに過ぎないからだ。

だが、映画から受けた興奮や恐怖、悲しみ、喜び、感動は、容易に消え去りはしない。そして、そこから自分で考えて行動していくことこそが長く続いていく。

目に見えるものを模倣するのではなく、目に見えないものを表現して、人々に考えさせ感動を与える。これは映画監督のみならず、全ての芸術家の役割だ。