『牛首村』の予想記事をあげたのに、答え合わせ記事を書いていなかった。
とはいうものの、実際見たら判るので詳細をここで語る必要はない気もするので、ざっくりと「私的にはちょっとかすったかな、やったね、でもモルフォチョウちゃうんかい」という気分である。
今回語りたいのは、この映画に出てきた奇子についてだ。タイトルにも書いたとおり、ネタバレありの記事になるので、まだ映画を見ていない方はご鑑賞後に読む事をオススメする。
この映画の核となるのが奇子だ。
ざっくり奇子のストーリーを振り返る。
7歳の時、双子の姉妹妙子が「牛の子」とされ口減らしの対象となった。しかしそれを知らない奇子は妙子の首に被せられた牛の首を自分でかぶってしまい、妙子の代わりに穴蔵に落とされてしまう。
奇子はそれでも生きていた。そして他の牛の子の死体を食べて生き続けた。何年後かに村の男たちに生きている事を知られ、そのとき降りてきた梯子に必死にしがみつく。だが怯えた男たちによって棒で打たれ再び穴に落とされ、一緒に落ちた灯りから引火した火に焼かれ、絶命する。
奇子視点だと穴蔵から脱出するストーリーだ。
口減らしが7歳でされるのは「7つまでは神のうち」ということわざと、さらに牛首村の守り神が牛の首をした神様だとされていることにより、「牛の子」とされて返されるということらしい。妙子も牛の首を被せられる日の祭りで御輿に乗せられていた。神様扱いである。
しかし実際に牛の子にされたのは奇子であり、さらに奇子は7歳を超えてから他界した。祀られもせず、神の元にも返されず、魂はずっとあの穴蔵に居たのだろう。
奇子が最初に目を付けたのが奏音だった。そのきっかけとなったのが奏音、詩音の捕まえた蝶が死んでしまったエピソードだ。
2人は同時に蝶を捕まえたが、片方が死に、それを見て自分の捕まえた蝶も殺して埋めてしまうのだ。子どもの残酷さにぞっとさせられる最初のシーンだ。
「ころしちゃったの?」
「だって、ひとりぼっちじゃ可哀そう・・・・・・」
これを双子のどっちが、どっちの台詞を言っているのか判らないが、奇子は「可哀そう」と言った方を連れていったのではないだろうか。これは霊感のある人に聞いたのだが、幽霊は優しい人に取り憑くらしい。と言うわけで、奇子は「可哀そう」と言った奏音を連れていった。
奏音は詩音によって見つけ出され助かった。
奇子はその時どんな気持ちだったんだろう。また一人になった事を悲しんだだろうか。それとも双子の片割れが救い出した事をうらやましく思っただろうか。
双子の妙子は奇子が穴蔵で生きている事に気づいていただろう。しかし奇子を出したら今度は間違いなく自分が牛の子として殺される。罪悪感にさいなまれ、駆け落ちをして村を出る。村との因果を断ち切ったかに思えたが、奏音と詩音を見て罪から葉逃れられない事を悟ったのかもしれない。寝たきりの妙子の部屋にはこけしや牛頭明神の札などが置かれ、罪悪感にさいなまれている事がうかがえる。
逆に奇子には妙子が迎えに来ない事も気づいていただろう。奏音と詩音が双子で生まれてきたのはやはり何かの因果なのかもしれない。奇子は詩音に取り憑き、あの時のように奏音に救い出させたのだ。
奇子の生に対する執着や、牛首村の風習に対する怒りの念はすさまじい。これは生まれ持っての気性かもしれないが、後から穴蔵に落ちてきて生きる糧になった牛の子たちの執念も合わさっているのだろう。奇子は一つの人格ではあるが、幽霊としては牛の子たちの怨念の寄せ集めなのかもしれない。
私はこの映画の魅力はこの奇子にぎゅっと詰まっていると考えている。なんなら奇子がヒロインと言えるのではないだろうか。
最後に、蛇足かもしれないけど一つ私の考察を聞いて欲しい。
「牛首村」で印象的なシーンはいくつかあるが、双子が次々に現れるのもそのひとつだろう。あれはもう一つの牛首村だ。牛首村は二つある。
現実にあり双子を引き裂く牛首村と、あの世とこの世の狭間にある、双子が再開する牛首村だ。
神として穴蔵に落とされた子どもは、片割れが他界したときにこのもう一つの牛首村で再会するのではないか。そして果たせなかった二人の時間を取り戻すのではないか。
しかし奇子と妙子はその牛首村で再会する事は出来ない。奇子は7歳までに死ななかった。そして詩音の体を借りて外に出た。映画の最後のシーンで亡くなっていた妙子の魂はどうなっただろう? 7歳で神様の元に返されるはずが生き延び、あちらで迎えてくれる片割れはいない。妙子が奇子を見捨てた報いを受けるのはここからなのかもしれない。
終わり