朗らかに胸張る人間の大地


美しき

心の旅路の

此(こ)の世かな


世界は美しい。それぞれに美しい。

地球上に、一つとして同じ街はありません。その街ならではの歴史があり、文化がある。愛すべき人間が暮らし、学ぶべき営みがあります。

わが街の隣人たちと仲良く手を携(たずさ)えていくとともに、遠く離れた街々の人々とも心を通わせ、励まし合いながら、共々に前進する。この人間の絆の広がりにこそ、人類が願ってきた「平和」の一つの実像があるといってもよいでしょう。


私の少年期は、残酷な戦争によって、人間の絆がずたずたに引き裂かれた時代でした。

真実を語る正義の人は「非国民」と罵(ののし)られ、文化の恩義があるアジアの人々を見下し、ひとたび敵国となった米英の人々のことは「鬼畜」とまで憎むように仕向けられていたのです。

戦後まもなく、19歳の私は、軍国主義と戦って2年間の投獄をも耐え抜いた信念の指導者・戸田城聖先生とお会いし、師と仰ぐことができました。私たち青年に、いち早く「地球民族主義」という平和と共生の壮大な理念を示してくださったのも、この師です。


ひときわ忘れ得ぬ師との旅があります。1954年の8月。恩師の故郷(ふるさと)である北海道・厚田村(現・石狩市厚田区)へ連れて行ってくださいました。

白い波が寄せる岸辺に立って、日本海の海原(うなばら)を見つめながら、師は語られました。

「大作、この海の向こうには、大陸が広がっている。世界は広い。そこには苦悩にあえぐ民衆がいる。いまだ戦火に怯(おび)える子どもたちもいる。東洋に、そして、世界に、平和の灯(ひ)をともしていくんだ。この私に代わって――」

師の心を我が心とする、私の対話の旅は、日本全国、さらに五大陸に広がりました。今、世界192ヵ国・地域に、同じ人間主義の心で、平和と文化と教育に貢献してくれる世界市民の良き仲間がいます。

多事多難な時代にあって、いざ、ある国、ある地域で災害が起これば、即座に安否を気づかい、無事を祈り、救援や復興の手を差し伸べる善意と人道のスクラムもでき上がりました。

いずこの国にも、素晴らしい人間が光っています。なかんずく、わが地域を明るく照らす女性たちの「太陽の心」が必ず輝いています。

そうした懐かしい、あの街、あの国、あの天地へ、今再び、読者の皆様方を御案内するような思いで、この連載の “心の旅” に出発したいと思うのです。

最初の舞台は、私にとって世界への平和旅の原点となった、わが「永遠の故郷」北海道から――。


偉大なる

歴史に輝く

北海道

皆に幸(さち)あれ

皆が長者と


今年の冬は、各地で記録的な大雪が続きました。一日に何回となく、来る日も来る日も、雪かきに追われる御苦労は、どれほどでしょうか。

先日も、妻がよく知る岩見沢(いわみざわ)市の婦人は、早朝、新聞配達の途次(とじ)、大雪にすっぽり埋もれてしまった家に気づきました。地域の知人夫妻に連絡すると、すぐにスコップ片手に駆けつけてくれ、無事に独り暮らしのお年寄りを助け出すことができたといいます。

岩見沢を中心とする空知(そらち)では、観測史上、最大の豪雪となりました。それでも、ある友が語っていたそうです。「大雪のおかげで、すっかり有名になり、全国の方々から思いもよらぬ多くのエールをいただき、本当に勇気づけられました」と。あまりにけなげな心に、涙を禁じ得ませんでした。

赤平(あかびら)市の96歳、芦別(あしべつ)市の94歳の旧知のおばあさん方が、「吹雪になんか負けていられませんよ」と元気いっぱい近隣の友に励ましを贈っておられるとの嬉しい報告もいただきました。


決めた道

風波(ふうは)も楽しや

今朝の旅


私の北海道への旅は50回を超えます。小樽、札幌、そして夕張は、わが愛する友と新たな民衆運動を開拓してきた天地です。また、旭川、函館、釧路、苫小牧(とまこまい)、室蘭、帯広、稚内(わっかない)、別海(べっかい)、千歳(ちとせ)、江別(えべつ)、伊達(だて)など、広大な北海天地の至る所で、金の思い出を刻んできました。滝川(たきかわ)、美幌(びほろ)、長万部(おしゃまんべ)等で、車や列車での移動の合間に出会った方のことも、奥尻や利尻、礼文(れぶん)、天売(てうり)、焼尻(やぎしり)といった離島の同志のことも、全道の各地から駆けつけてくれた友のことも、私の胸から離れることはありません。

青春時代から交友を重ねてきた北海道の友は、実に朗らかで、快活に助け合う仲間たちです。大変であればあるほど、たとえば――

「雪かきもゆるくないっしょ?」

「いや、なんも、なんも! そっちこそ、ゆるくないべさ」といったやりとりが交わされます。

厳しい労作業も、あえて「きつい」とか「つらい」とか言わず、「ゆるくない」という柔らかな言葉をかけ合い、互いを気づかうのです。

「なんも、なんも」も、私の好きな北海道の言葉です。友の苦労をねぎらい、親切に対して感謝すると「なんも、なんも」と返ってきます。そこには、相手に余計な気をつかわすまいとする思いやりの温(ぬく)もりがあります。さらに、難儀なことにも、「たいしたことないさ」と自分自身を鼓舞する大らかな響きがあるのです。

仏典には、障害を前にした時、「賢者はよろこび愚者は退く」と説かれます。どんな困難があろうとも、喜び勇んで新たな開拓に挑む人生に、行き詰まりはありません。希望の活路は断じて開かれるのです。

アイヌの言葉で、北海道は「アイヌ・モシリ」――「人間の大地」という誇らかな意義があります。

その大地を踏みしめ、その大気を吸い込み、その大空を見上げれば、無限の活力が漲(みなぎ)ります。

真に偉大な人間を育て、作り、鍛えゆく大地こそ北海道なりと、私は思ってきました。

思えば、創価教育の創始者・牧口常三郎先生も、直弟子(じきでし)である戸田先生も、北海道で青春を過ごし、北海道で小学校の教員となり、若き命を慈愛を込めて薫陶されました。

その歴史をふまえ、私は札幌に創価幼稚園を創立しました。一緒に歌を歌ったり、スクールバスに乗って送ったりした、可憐(かれん)な王子王女たちも、皆、立派に育って活躍してくれています。

わが園児たちよ、何があっても負けずに、強く正しく伸び伸びと、幸福の博士に、人生の勝利者に育ちゆけと、祈らぬ日はありません。


幸福の

天地は ここにと

北海道

乙女よ 立ちゆけ

断固と生き抜け


「日本農業の父」とも讃えられる北海道の佐藤昌介(さとう しょうすけ)先生は、「郷土愛は人間の中心より出(い)づる美(うる)わしき人情の発露である」(※1)と強調されました。

私と妻は、愛する北海道のためにと、青春の大情熱を燃え上がらせた一人の乙女を忘れることはできません。初めて出会ったのは小樽でのこと。はるばる留萌(るもい)から訪ねてきてくれました。

幼き日に父親が戦死し、4人きょうだいの長女として母を支えてきた芯の強い女性です。仕事をしながら、自分が苦労してきた分、悩める友に尽くしたいと、すずやかな瞳を輝かせて奔走(ほんそう)しました。自ら結核と戦いつつ、後輩には「私が守るから、安心して頑張って!」と励ますリーダーでした。私は、その健康をひたぶるに祈り、「太陽の如く明るく強く 月光の如く美しくあれ」と贈ったことがあります。

ある時は、親友とともに、北海道の地図に、マッチ棒で作った旗を一本一本、立てながら、あの街にも、この街にも、青年の希望のスクラムをと、夢を広げたといいます。

残念ながら、彼女は26歳の若さで逝去しました。しかし、友の幸福を祈り、語り、働いて、一日また一日、積み上げた「心の財(たから)」は、絶対に消えることがありません。今、その志は、無数の乙女たち、青年たちに受け継がれています。

今年も2月、3月の厳寒のさなか、全道の200を超える各市町村で、伝統の青年主張大会が開催されました。わが郷土の繁栄を目指す青年の力の結集に、多くの共感が広がっています。


人生の

博士となりて

幸福の

生活楽しく

君よ 勝ちゆけ


北海道は、日本の命を支えてくれる食の宝庫です。その陰にある心血を注ぐ奮闘に、私は、いつも合掌する思いです。

日本最北の稲作地帯である遠別(えんべつ)町の一人の母は、都会から農家に嫁(とつ)ぎ、ようやく農作業にも慣れた矢先に、夫に先立たれました。けれども、二人の子を抱えながら毅然(きぜん)と立ち上がったのです。北限の地でのもち米作りに挑み、水の管理や肥料に工夫を重ね、「白鳥(はくちょう)もち」という白く美しく、おいしいお米を見事に生産していきました。母の背を見て育った息子も立派に後継者となり、一家で地域に信頼を広げています。

「冬は必ず春となる」とは、この母が抱きしめてきた希望の金言です。

冬が厳しいからこそ、春の喜びも大きい。

私の恩師は、母上が深い祈りを込めて縫ってくれた手作りのアツシ(※2)の半纏(はんてん)を生涯の宝とし、どんな試練にあっても「このアツシさえあれば大丈夫」と微笑まれました。

人生は、けなげな母たちの「太陽の心」を携えて、吹雪に胸を張り、勝利の春へ前進しゆく旅とはいえないでしょうか。


君 立たば

北海天地は

春の曲


※1 『北大の父 佐藤昌介 北の大地に魅せられた男』 藤井茂著(岩手日日新聞社)。

※2 アイヌの言葉で、樹木のオヒョウのこと。そこから、オヒョウなどの樹皮からとった繊維で作った織物をさす。


-「パンプキン」20124月号より-