まずは、今回取り上げるmit氏の動画について。
現在は”アイドルマスター”タグがついていますが、投稿後しばらくの間タグがついておらず、みてれぅチャンネルにも捕捉されていませんでした。チェックしておられない方もいらっしゃるかも知れませんので、そうした方々はまずは動画をご覧になってから記事を読んでいただくことをおすすめします。当ブログの記事は紹介と言うより分析的側面が強く、動画本編を見ずに読んでも何だか分からない、といういつも通りのことなのですが、今回は未チェックの方も多い懼れがあるので、あえて注記させていただきました。よしなに。





さて動画本編についてですが、双海亜美・真美のキャラクターに関するテーマを孕んでいることは一目瞭然です。動画本編もそうですが、投稿コメントに引用されている真美の台詞がL4U真美コミュから来ていることもそれを裏付けます。



デザインの対称性、そして「入れ替わりにステージに立つアイドル」「ステージ上では”双海亜美”を名乗る」という設定から、彼女たちのありようをテーマとした動画は多く作られています。いちいち挙げるのは煩雑にすぎますので省略しますが、この動画もその系譜にあるものと考えられます。
動画の途中で髪留めの位置が反転することから、亜美と真美のどちらかわからない不確定さ、というのが表現されていることは明らかです。
では、はたして彼女は亜美なのか、真美なのか?

まずこの答えを探す手がかりは、アイドルの映像そのものです。
影の付き方、そしてマフラーや制服の合わせ、といった手がかりから、前半部は実は反転映像であることが分かります。向かって左に髪の結び目があることから、一見すれば亜美に見える彼女は、実は真美の反転映像、ということになります。鏡文字の表示も、映像の反転性を示していますね。これが後半では元に戻り、真美の映像であることが判明するわけです。
後半の映像はディスプレイ風のドットと走査線が現れ、それが撮影された映像であることが強調されます。そしてそこには正しい文字で書かれた歌詞があるわけです。このことから、たとえば前半を心象風景、後半を表示された映像と読み取るなど、様々な解釈ができるでしょう。後半に出現する真美と覚しきシルエットは、自分であることを認めてもらえない彼女の屈託、とか。

しかし、そこからさらに歩を進めましょう。
映像がディスプレイ性を帯びてくるのは3:18あたりから、真美シルエットの出現は3:22。そして、3:18から3:55までの間に映し出されているのは、”亜美”です。先に書いた判別法で確認してください。
この、つなぎめいた中間的な映像の存在が、この動画を一気に複雑にします。

そもそも、ステージとして選ばれているのは、背景にオーロラビジョンを持つ武道館です。オーロラビジョンには彼女たちのステージ映像がスポット的に映し出され、編集次第では、その映像がまるでアイドルのステージそのものであるかのように錯覚する瞬間があります。
たとえばClubJamora氏の”とてもすばらしい、美しい響き”や、怪盗紳士Pの”君の場所”といった動画で、これは実に独特な演出効果を生んでいます。こちらはドームですが、アイドルを多重に映し出す映像の機能としては同一の意味合いと考えて良いと思います。





このように、前景と後景の不確かさ、という意味合いを底流とした上で、ディスプレイ様の画面の前にシルエットが出現し、しかも、ディスプレイに映されているアイドルが途中で切り替わるというさりげない効果のおまけ付きです。こんな環境下で、亜美である、真美である、といった区別はどこまで有効なのか、という問いも生まれてくるでしょう。
すなわちそれは、そこにある映像がはたして、どこまで真実(本質・イデア・物自体、そんな類の用語で置き換えてもいいかもしれませんが、詳しくはないので深入りはしません)に迫っているのか、真実を映し出しているのか、という問いかけです。

シルエットの真美は、まさにその問いを具現化したような存在です。シルエットでありながら、その姿は、後景にあるアイドルの映像よりもずっと現実的で真に迫る瞬間があります。
彼女が踊る、寒気がするほどに美しい「私はアイドル」のノーカットダンス。後景に映し出された、カットとアピールの連打で寸断された映像より、それは生々しい。しかし彼女はあくまで、心象らしきものを託され、ゼンマイをまかれ、ご丁寧にもワルキューレ衣装という彼女がもっとも偶像性を発揮する衣装を着せられた、かりそめの存在です。
その目に見えない境界の向こう側にいる亜美もしくは真美に、私たちはすこしでも近づけているのでしょうか。


さて、さりげなくひとつ重大な点に言及しました。「アピール」です。
アケマスの頃からPVの要素に含まれ、ニコマスにおいてもPBの昔からダンス映像のアクセントとして役割を果たしてきたアピールですが、ダンスとカットによる映像の構成上、これはとんでもない異物です。
アピールが入った瞬間にモーションは断絶し、カット・カメラはPの手を離れ、エフェクトが挿入される。その時に存在するのは、ただアイドルを魅力的に映すという衝動だけ。
そんな、きわめて扱いづらい凶暴な映像としてのアピール。
しかしこの動画において、アピールはきわめて効果的に存在しています。アイドルをかわいらしく映すことがすなわち、アイドルの側からの働きかけ、という意味合いを含んできているからです。


この動画でのアピールの利用法は2種類に分けられます。アピール音とおぼしき音(ゲームのアピール音ではなく原曲にある音です)に合わせたものと、そうでないもの。前者がまるで、ゲーム上のアピールを音ごと移植したような効果をもたらしているため、後者は逆説的により曲に馴染んだモーションとしての意味合いが強くなっています。
音のあるアピールは前半、亜美のパートに多く含まれます。1:06、1:11、2:46、2:51あたりです。(2:02には音のないアピールもあります)これらのアピールは、音と合わさることで、視聴者側への高い訴求性を持ってきます。それゆえ、この前半部の映像の方がよほど、視聴者に近く感じられてきます。
そして一方、後半の真美パートにおいては音のあるアピールは4:06、4:11といったあたりに生じますが、4:55以降で複数回発せられるアピールは音のないものになっていきます。それは、画面が”ホワイトアウト”していくのと軌を一にするかのようです。
そして、この対称性の狭間に置かれた、例の中間パート。3:16から3:56のたった40秒間に、実に6回の無音アピールが用いられています。そこに現れる”亜美”の姿がキュートであればあるほど、聞こえない音は痛々しく、シルエットにいっそ阻まれるかのような彼女の内心の悲鳴が、幻聴のように伝わってきます。
3:55、この最後の一瞬のアピールは、もはや動作として体をなすことを許されない断絶にあって、恐ろしく鮮烈な印象を残していきます。
ここにおいて、アピールは彼女の意志、彼女の叫びを訴える主張であると同時に、映像の流れと拮抗し、その勢いの中にむなしく消えていく泡沫のようでもあります。

後半の”真美”パートにおいて、音のあるアピールの存在する時間帯は、スパイク状の波形がオーバーレイされている時間帯と重なります。前半部において挿入的に用いられたこの波形は、後半部においてはアイドルの映像と重なり、消えていきます。ノイズが消失するようなその演出が、しかし、有音アピールというアイドルの主張を掻き消す演出と同期していくことは、何とも示唆的です。
そもそも構成に立ち戻れば、この動画は最初から最後まで、歪んだものを正すという方向性を持っています。最初の30秒、まるで破綻したように歪みやフレーム抜けを持った映像が、アピールによって鮮明さを持ち始める。反転した文字やタイムコードは正しい向きに戻り、波形は消え、そしてアイドルの姿は白く消失する。
すべてがフラットになったその純白で無音の世界は、熱的死を迎えた宇宙のように安定していますが、そこに、アイドルの姿はなく、そもそもアイドルが存在したかどうかすら曖昧なままです。映像としての安定を取り戻す行いは、映像というひとつの自律構造を保つために、そこにいるアイドルの内心さえも塗りつぶし、かつて存在した証さえ消し去ると言いたげに。

そして、それさえも”私たち”から見た解釈です。私たちがディスプレイの向こうにアイドルを見るのと同じように、私たちもアイドルからディスプレイ越しに見えているかも知れない。
ほんの数分の映像の中にはかなく現出した彼女たちを見出しては閉じていく私たちの営為を思えば、”死に行く訪問者”ははたしてどちらなのか。答えのない問いの中に、この動画は、私たちを置き去りにしていきます。