関東大震災によって関東を離れ、関西に移住した文化人の中には谷崎潤一郎もいます。
『春琴抄』や『細雪』など関西を舞台にした作品を著作として出しているので関西の出身のように思っている人もいるようなんですが、生まれは東京日本橋の蛎殻町。関東大震災の頃には横浜の山手に住んでいました。



関東大震災の翌月(1923年10月)には京都に移住。12月に兵庫の武庫に住み始めることになります。
ここで谷崎はカルチャーショックを受けるのです。
移住してから2年後の「文芸春秋」大正14年10月号に掲載された『阪神見聞録』には、

“大阪の人は電車の中で、平気で子供に小便をさせる人種である、――と、かう云つたらば東京人は驚くだらうが、此れは嘘でも何でもない。事實私はさう云ふ光景を二度も見てゐる。尤も市内電車ではなく、二度とも阪急電車であつたが、此の阪急が大阪附近の電車の中で一番客種がいいと云ふに至つては、更に吃驚せざるを得ない。”

とあり、その後も、平気で電車の中で谷崎の読んでいる新聞を拝借していったり、温泉に入っている谷崎に遠慮会釈なく「ホレ、此の方が谷崎さん」と指さす、大阪を中心とする関西の人びとへの驚きがつづられています。
1927年に谷崎は『細雪』のモデルとなる大阪船場の出身の森田松子と出会い、後に三度目の結婚を果たし、1956年に伊豆の熱海に転居するまでの約30年を関西で過ごします。

この谷崎が「宝塚」について書きながら、関西と関東の違いについて記したのが「中央公論」昭和7年2月~4月号に掲載された『私の見た大阪及び大阪人』という文章。
先に引用した『阪神見聞録』ともども『谷崎潤一郎全集』の第20巻に収録されています。

谷崎潤一郎全集〈第20巻〉 (1982年)/谷崎 潤一郎

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『私の見た大阪及び大阪人』を紹介していくのですが、原文は全て旧字体で書いてあり、パソコンで入力するにも短文なら旧字も使うのですがちょっと長いので、新字体で表記させていただきます。

“長年厄介になってゐる土地の人への老婆心であり、忠告であるから、特に関西の読者諸君はその積りで読んで頂きたい。”

と言い訳してから、

“どうも肌合ひの相違ばかりは理屈で説明のしやうもないが、大阪式のイヤ味を諒解するのには、あの宝塚少女歌劇の女優たちの芸名を見るのが一番早分りであると思ふ。
たとへばあの中のスタアの名前に、天津乙女、紅千鶴、草笛美子、などと云ふのがある。かう云ふ名前の附け方はいかにも大阪好みであつて、ここらが最も東京人から見て大阪人の感覚が一本抜けてゐるやうに思はれる所である。
兎に角東京の女優にはこんな垢抜けのしない、――源氏名のやうな、千代紙のやうな、有職模様のやうな、そして又一と昔前の新体詩のやうな、上ツ調子の芸名を持つてゐる者は一人もあるまい。仮にどんな名女優でも、東京でこんな名前を附けてゐたら、そのために人気の幾割かを損すること請け合ひである。
私は此方へ来た当座、宝塚ファンの中学生や青年どもが斯う云ふ名前を持て囃すのを見て、実に変な気がしたものだつた。あんな歯の浮くやうな名前を気恥かしくもなく、よくも口に上せたものだと思つた。”

宝塚歌劇団の芸名ってスゴイですよね。もともとは「小倉百人一首」から名前を採っていたそうですが、鳳蘭さんみたいな金襴緞子な芸名や、黒木瞳さんのような駄洒落(出身地が黒木町だそうですが)っぽい芸名とか、なかなか関東人の私にも馴染めない音です。

“私が今云つたことは芸名に就いての批難であつて、素よりその名の持ち主たつ女優諸嬢のよしあしを云ふのではないが、それにしてもあの少女歌劇には、ちやうどそれらの芸名が示すやうなイヤ味が付いて廻つてゐるのは事実である。
尤もそれも「モン・パリ」なぞを上演し出してから次第にアクが抜けて来たし、現に私なぞもレヴユウの変わり目毎に見に行く程のフアンになつてしまつたが、願はくは今一と息の洗練が欲しい。”


画像はWikipediaより

関東大震災前までは浅草オペラにハマっていた谷崎は、関西に移住してからは宝塚にハマっています。
モン・パリ』は1927年に発表された宝塚歌劇団のエポック・メイキングな作品ですね。「宝塚」をイメージした時に浮かぶ、セットの大階段やラインダンスはこの作品から舞台に導入されました。
ちゃんとこの舞台を見に谷崎は足を運び、これ以降は演目が変わるたびに宝塚に向かうファンとなっています。

“私は東京のは知らないけれども、大阪の松竹楽劇部に比べると、宝塚の方が美人が多く、粒もよく揃ひ、技芸もずつと上手であり、衣装や舞台装置などにも中々金が掛けてあつて絢爛眼を奪ふものがあるが、臭味と云ふ点になると、宝塚の方が余計に臭い。
元来此処では男の役まで女にやらせるのだから、そこに非常な無理がある。どうしても芸者のお浚ひじみ、三崎座じみる。
そこへ持つて来て関西の婦人は音声が甲高いから、セリフの多い芝居になると上ずつたキイキイ声ばかり耳について甚だ聞き辛い。
それが「モン・パリ」や「セニヨリタ」のやうなレヴユウになつても、三枚目なぞが出て来て活躍する時は、芸が達者であればある程騒々しく、おまけにそんな女優たちは「少女」とは云ひ条相当な年増であるから、いよいよ以つて三崎座じみることになる。
東京人だと、見てゐる方が冷汗を掻くやうな気がする場合があるけれども、大阪人はかう云ふ点に億面がないのである。”

松竹歌劇団については後でやるとして、「三崎座」とは明治の頃にあった女性による歌舞伎公演のこと。江戸時代には歌舞伎の舞台に女性が上がることは禁止されていました。では、彼女たちはどこで歌舞伎を演じていたかと言うと、武家の大奥です。男子禁制の武家の女性たちの居室で歌舞伎を演じていたのです。こうした女優たちは明治維新後に東京神田の三崎町で一般大衆向けの歌舞伎公演をするようになり、「三崎座」と呼ばれます。
前近代と近代の演劇史の狭間にあるあだ花のような存在でした。

“本場のものを知らない私には聞いた風なことも云へないが、レヴユウの起りは時勢を諷刺する劇の意味であるさうだから、いくらかピリリとした辛味があつていい筈である。揺籃時代の観音劇場や日本館のオペレツトは、非常に粗野であり、幼稚であり、貧弱であつたけれども、多少さう云ふ小気味のいい所もあつたし、有職模様や三崎座式の臭味など全くなかつた。
宝塚には岸田君の如き江戸つ児もゐることだから、勿論こんな欠点は私が指摘する迄もなく夙に気が附いてゐるであらう。
~(中略)~
何にしてもあのデレデレした、シヤナラシヤナラしたイヤ味だけは、我が愛する宝塚のために是非矯正して貰ひたいと思う。”

「我が愛する宝塚」とまで谷崎は言い切っていますが、宝塚の「イヤ味」「臭味」はどうにかして欲しいと要求しています。
レヴュー(Revue)はもともとフランスの演芸です。「レヴュー」という単語が「評論」を意味するように社会風刺を込めつつキャバレーなどの舞台を湧かせるための舞台でした。
谷崎は、そうした社会風刺も含めたレヴューを求めていて、浅草オペラには舞台芸術としては粗野で幼稚で貧弱だけどそれがあった、しかし、宝塚には無い、と言います。
けれど、それは、東京を中心とする関東の文化と、大阪を中心とする関西の文化の違いでもありますよね。
大阪人からすれば、宝塚などの舞台は、エンターテイメントに徹するべきで半端な社会風刺など入れるのは面白くないでしょう。そういうのは他でやれ、と。

宝塚歌劇団創立から百年経っても、そうした東京と大阪の文化的な差異は残っていると私は思うんです。
実際、関東で生まれ育った私にとって、大阪のテレビ局で制作された番組とか、見てて違和感のほうが大きいですから。
もちろん、それは文化的背景の違いであって、どちらかに優劣をつける問題ではないとも思います。・・・あくまでも「芸能」の分野においてのみですが。



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