日頃からまじめ一本やりの私ではございますが、

今日は終戦記念日、

さらにまじめなお話をしたいと思います。

とても私的な話で恐縮です。


中村真吾 ブログ


私の母方の祖父勝三は、

大富豪の家に生を受けました。

その父は、小高い丘の上に豪邸をかまえ、

町中の人を雇うほどの大きな絹織物工場を経営していました。

週末になると岡山の山中からタクシーを飛ばして、

祇園まで出かけて夜を徹して遊び呆けたと言われております。

それが昭和大恐慌で一転、

ボンボンであった祖父は結婚直後、

大貧民に転落しました。

その後苦労を重ね行商で二男五女を育て、

太平洋戦争へと招集されます。


祖父を乗せた船はフィリピン沖でアメリカ軍の爆撃を受け炎上沈没。

全員が死亡したと思われていましたが、

祖父はその残骸につかまって何日も漂流して、奇跡的に救助されました。

広島の呉の海軍病院に収容された時には意識がなく、

絶望視されておりましたが、

私の母たちが見守る中、再び奇跡を起こしました。


ただし戦後はショックで生活に少し支障がありました。


以上のことはすべて祖父以外の口から聞いたことです。

私にとってはいつも優しいおじいちゃんでした。

夏休みなどに遊びに行った時、

いつもお風呂に入れてくれます。

その背中には一面ケロイドの跡がありました。

子供として質問せずにはおれませんでした。

その時、おじいちゃんは何も答えてはくれませんでした。


お盆の花火大会。

近くで開催されるのに、

なぜか祖父は出かけようとはしないのです。

後で聞いたことには、

爆撃を思い出して家で布団をかぶって震えていたそうです。


これが私の間接的な「戦争」体験です。


そして最後に会った祖父は少し痴呆が進み、

私と一緒に初めて花火大会に出かけて行きました。

暗闇の中、花火の音とともに浮かび上がるその嬉しそうな表情を

今でもよく覚えています。


これが我が一族の「戦後」です。