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2016年04月22日(金)

プリンスの死

テーマ:ブログ

熊本で大地震が起こり、多くの死者が出て、辛い避難生活を余儀なくされている方たちも多い中で、海の向こうの会ったことも無い外国人ミュージシャンが1人死んだからと言って何をそんなに重大に考える必要があるのかと、言いたい人には言ってもらっておくとして、、、プリンスのことを少し書いておこうと思います。というか私にとってはどうやら「書く」ということが自分の感情を昇華させる唯一の方法のようだからです。

その昔宇部市が官民協働で立ち上げた地域SNS「うべっちゃ」の中に、洋楽好きのメンバーが集まった「ロックの沼で泥んこ遊び」というコミュニティがありました。このコミュニティ内の企画で「あなたの選ぶベストアルバム」というスレッドが立ち上がったことがあって、自分の好きなアルバム(←この言い方が既に死語)をリストアップする機会がありました。そのリストの中の1枚として当時私が選んだのがプリンスの「Around the World in a day」です。理由は、「時々狂ったように聴きたくなる1枚」だから。彼の音楽の天賦の才は、アルバムごとに虹のように輝きを放っているので、人に依って好きな1枚はそれぞれだと思いますが、私はこのアルバムが醸し出す彼の音楽への姿勢がとても静謐で美しく、無限を感じさせて大好きなのです。プリンスというミュージシャンはありきたりに言ってしまえば「天才」。「天才肌」というのとは全く違ってほんものの天才でした。

突出した才能のうち誰もが驚異に思っていたものの一つはメロディメイカーとしての才能ではないでしょうか。プリンスの楽曲というのは同じ一人の人間が創り出したものとは思えないほど豊かなリズムと旋律に満ちていました。私は勝手に白のトッド・ラングレン、黒のプリンスと呼んであがめていましたが、ビートルズ以降これだけ多彩な楽曲を世に生み出し、また他のミュージシャンに提供した音楽家はいなかったのではないかと思います。アップテンポなものにも名曲は多いですが、私は特に彼の創るバラードが好きでした。シーナ・イーストンの歌った「Eternity」や前出のアルバムの中で本人が歌っている「Condition of the Heart」、シニード・オコナーが歌って大ヒットした「Nothing compares 2 U」など、どうやったらこんなにスリリングで美しいメロデイーが湧いてでるのか、正に驚異です。

もう一つ彼の突出した才能を挙げるとすれば、それはギタリストとしての才でしょう。彼はトッド・ラングレンと同じくどんな楽器でも自在に演奏できたそうなので、ギター以外にもソリストとして十分に評価されてしかるべき楽器があるのかもしれませんが、とにかく彼のギターワークは凄い。生で聴いたことはありませんが、Youtubeにアップされたライヴ映像などを視聴する限り本当に凄い。単に速弾きというのではなく、ギターというものが指を使って押さえたりはじいたりして音を出す楽器とは思えない、彼が弾くギターは音自体が生命を持っているかのような、ギターという楽器が全く別物の概念として存在しているかのようなそんなふうに思わせてしまうギタリストでした。

今年に入り、デヴィッド・ボウイから始まってグレン・フライ、モーリス・ホワイト、キース・エマーソン、ジョージ・マーティンなどロック界のビッグネームが次々と鬼籍に入りました。私にとって十代の頃から日々の中での長いつきあいである彼らの死はショックですが、ボウイの死からは「たとえこの世にはもう存在してくても彼は私の中で永遠である」ということを身を持って知りました。スターの死は消滅ではなく「星」となっていつまでも輝き続けることであると。今回また不意に逝ってしまったプリンスもしかり、「そして船は行く」のです。

 

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2016年04月12日(火)

ありあまる富

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「たぶんもうブログはやめちゃったんだよね。けっこう楽しみにしてたんだけど。。。」というみなさん、(いるのかほんとに?!)安心して下さい。まだ書いています。

春は出会いと別れの季節、桜もすっかり散り、そろそろ柔らかい新緑が目にまぶしい季節となってきました。市内の学校の入学式、会社の入社式も終了しました。私はというと、長女がこの春から社会人となったこともあり、ここ数日の春のはなやぎの中で、30年前に自分が東京で社会人生活をスタートさせた頃のことを懐かしく思い出したりしています。働き始めるとそれまでの生活が一変し、未熟ななりに新しい環境の中でいろいろなものが社会人として求められるようになるわけで、新人はよく「ひよっこ」という呼ばれ方をしますが、正に「ひよこ」のようにちょこまか動き回りながら、あたりをぐるぐる見渡し、見上げ、早く人の手と時間を取らずにすむように、トライしては失敗を繰り返す、そんな日々だったなあと記憶しています。

さて、そんな春の巷を賑わせている話題の中で、目下のところアメリカの大統領選と並んで私を捉えているのは「パナマ文書」というやつです。3年前にタックスヘイブンに関するパナマの法律事務所が保持する機密文書が存在するレポートを出した国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ)が、今月初旬になってその大量のデータを検証し、様々な記事を公開し始めたことによる世界を揺るがす一大スキャンダルです。ICIJは「パナマ・ペーパーズ」と名付けられた40年間にわたる1150点の文書について、各国の現職ないし歴代の首脳12人を含め、140人の政治家や官僚が保有するオフショア資産の存在を明らかにし、「文書は少なくとも33の個人と企業がいかにあちこちにお金を移し、隠したかを示している」
のだそうです。(英エコノミスト誌の記事を日経新聞が翻訳)

何故この話題が私を強く捉えているかというと、至極単純なのですが、人間の欲深さ、それも権力を持つ人間の強欲さがここまでシンプルにあらわになった事象は近年無かったのではないかと(暴かれていなかっただけで実際は40年以上も前からあったわけですが)、これに比べるとFIFA会長その他幹部陣の汚職などは、まだ底が浅いような気さえしてきます。聖書の昔から人間の栄華のはかなさ、むなしさが説かれているにもかかわらず、時の権力者たちは何故富を求め続けるのか。「富」が自己実現の指標だという人も確かに存在するのでしょうが、それがある水準を超え、非合法に手を染めてもまだ上に上に積み上げていかないと満足できないということ。そしてそういう人たちが世界を動かしている中枢に数多く存在しているということに、私たちはどう理解を示せばいいのか。

まちづくりのハード面においては「お金があったら」と思う事は多々あります。日々の生活でも買いたいものが躊躇無くすぐ買えるなら、それはある面では満足度の高い生活でしょう。でも使い切れないお金を貯めこむ人の心情は私には理解できません。パナマ文書については、ここまで内容が明らかになってきた以上、今後も世界情勢に波紋を寄せ続けるでしょう。当事者の一人ひとりが、自分の行ってきた事が白日のものとなったとき、どんな身の処し方をするのか、お金の使い方同様、そこにその人の人格が現れてくるかと思います。

さて、わが家にはあさって木曜日の夕方から日曜日の早朝まで宇部市の姉妹都市であるオーストラリア、ニューキャッスル市から男子が2名、ホームステイにやってきます。「日本の家ってこんなに汚いんだ」という間違った日本の印象を与えないために、明日は準備ともう少し部屋の片づけをがんばります。









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2016年03月15日(火)

誕生日に思うこと

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早朝の冷え込みはまだ厳しいものの、早くも県内から桜の便りが届き始めました。選挙前で緊張の日々を過ごしていた昨年の今時分のことがはるか遠い昔に感じられます。季節はめぐり、自然界にはまた春がやってきました。大いなるぬくもりに感謝です。

さて「ブログを書く」という行為がずっかり日常のローテーションから抜け落ちてしまって久しいですが、今日は思うところあって久々にパソコンからブログのページを開きました。実は今日は私の53回目の誕生日です。十代の頃も、二十代の頃も三十代の頃も、今のような立場にある自分を、私自身も全く想像していませんでしたが、東日本大震災の年に市議会議員という任を頂いて、昨年の再選を経て、今年で5年目になりました。今考えると震災のあった年にこういう任を頂いたというのも何かの巡り合わせだったのかもという気がしています。当時のブログを読み返してみると、当時から発信していたものから感じ取る自分自身の軸というのはその後ぶれてない気がするからです。もちろんその後の(人でも事象でも)様々な出会いによって自分の中で軌道修正したりした部分もあることにはありますが、基本的には自分の芯は震災のあった2011年ころには出来上がっていて、それがある強い思いから「一主婦」という立場から「一市議」へと大きく一歩踏み出した(踏み出さざるを得なかった)という感があります。

では、その「ある思い」とはいったい何だったのかというと「変わらなきゃ!」という思いに尽きるかと思います。東日本大震災という未曾有のできごとが起こり、日本全体が立ち止まって「変わらなきゃ」という思いに覆われたときに、自分のごく身近な周りにも市議会も含めて「何故?なんでこうなるの?」というシンプルに不条理に思われることがたくさん起こっていて、そういったものを納得がいくように変えるには自分がそういう立場に就くのが早いと考えたのが、自分が選挙に出ようとした発端です。私のことを古くから知る人は私の根っからの「政治(家)嫌い」を知る人も多く、当時は晴天の霹靂のような(大げさか。笑)受け取られ方もしましたが、「かわいそうにそんな性格で政治家できるのか。そうまでしてやらなければならないのか。」と心配してくれる人はあっても、「絶対やめなさい。」と止める人はいませんでした。(実のところ3人の子どもたちのうち当時高3と小6だった娘と息子は私が選挙に出ることは相当嫌だったようで2人で話し合って泣いたというのを後から聞きました。その後よく我慢してくれたものです。笑)

そういう「変わらなきゃ!」という思いから今の立場についている自分は、我ながらスタンダードとは言い難い思考回路で仕事をしていて、これで市民の代表と言えるのかといつも自分自身に自問自答する毎日なのですが、何か新しいことにチャレンジすることについては、その真意が公益として納得できるものである限り、たとえリスクがあったとしてもそれを応援して後押しするスタンスにあります。企業で働いたことのある人なら肌感覚としてあると思いますが、新しいことには常にリスクがあります。しかし挑戦しなければ何も生まれない。これは古くから多くの先人たちが言っていることです。もちろんやみくもに突き進めばいいということではありません。必ずリサーチと準備は必要です。しかしそれは前に進むためのものであって、足を引っ張ったりやらない理由付けのためのものであってはならないと思います。もし初めからそんなマイナス思考しかできない人たちが有力者であるようなまちだとしたら、若くてやる気のある人たちからは見放されてしまうのがオチです。仕事をするのは「人」であり、どんなにデータをはじいてもそれは未知の部分です。

私が県内の女子大を出て東京の商社で働き始めたとき、53歳で働いている女性は大きなビルの社内に両手の指で数えるほどしかいませんでした。しかし30年が経った今、そんなことはありません。数日後に大学を卒業して社会人となるわが家の長女も、もはや「寿退社」という言葉を知らない世代です。社会は変わり続けています。ダーウインの進化論にもあるように「自らを変えることができるものが生き残る」ことができます。地方創生という生き残りゲームの渦中にあって、まちの運命もまた同じです。市民のみなさんは選挙の度にしっかり自分の思いを託せる人を選んで下さい。久々のブログの最後は、やはりこのメッセージを残して終わりたいと思います。


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2016年02月01日(月)

2月は逃がさない

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今日からもうフェブラリー。(なんとなくすみれ色の感じがするこの単語が私は好きです。)昨年末にブログで書いた予言の通り今年もあっというまに時間が流れてゆきそうな雰囲気。昨年年が明けて1月2月が飛ぶように過ぎ去った頃、フェイスブックのお友達からいい言葉を教えてもらいました。いわく、「2月は『逃げる』ではなく、『逃がさない』。」 普段はとても「前向き」とは言い難い自分でも、この言葉を聴いたときは心構えとして胸に刻んでおかねば、と思ったものです。今年はオリンピックイヤーのうるう年で、2月も一日長いのですが、その一日の重みを感じられる時間の過ごし方をしてゆきたいものです。

目下私の頭の中を占めているのは数日後にせまってきた藤山校区の人権教育推進大会で何をお話ししようかということ。講演のタイトルは「壁を越えて支え合うまちへ~障害者差別解消法に向けて」というもので、昨年の12月議会の一般質問でも取り上げた障害者差別解消法(今年4月から施行)にからめたお話をさせて頂こうと思っています。時間はたっぷり1時間半ぐらい頂いており、いつも議会の一般質問の持ち時間(30分)を短いと嘆いている身としてはありがたい限りなのですが、はたして自分の意図がきちんと伝わる話ができるのか、まだコンテンツは固まっていません。

ブログでも何度も書きましたが、私は人前で話すのが大の苦手でした。(今回はあえて過去形です。笑)なんでそんな人間が今の仕事に就くことになったのか自分でも説明に苦しむところなのですが、そんな自分のコンプレックスを打破すべく、実はつい先日あるセミナーに参加してきました。宇部市の雇用創造協議会が主催するうべまるごと元気ネットワークセミナー、題して「

プレゼンターの魅力を高め、人を惹きつけるプレゼンテーション3つのポイント」というものです。講師は東京で芸能人のボイストレーナーや企業向けのプレゼン指導などをされている中西健太郎さん。長身でフラッパーヘアの、いかにもギョーカイの人っぽい(宇部では見かけないタイプ?!)の方でしたが、お話の内容はとっても骨太で、途中で10分ぐらい休憩がありましたが、3時間の講義時間があっと言う間に過ぎていきました。会場は宇部市文化会館の会議室。私が最初にフェイスブックでこのセミナーの情報を拾ったときは、定員が60名だったのですが、開催当日までにそれが150名に膨れ上がっていました。私みたいに人前でしゃべるのが苦手で何とかしたいという人は案外多いのかもしれません。

講義はプレゼンとは何か?という本質的な問いから入っていき、それではプレゼンを完遂するためにはプレゼンターは何を成すべきかというところまで、実に学びの多い時間でした。何よりも私にとって大きな収穫だったのは、中西さんのお話を聞いて、人前で話すということに対して肩の力が抜けたこと。失敗を恐れず、ある意味以前より強い覚悟を持って「話す」という姿勢ができたこと。これはすごく大きかったと思います。

それでははたして実際に今後私のプレゼンは聞く人にとってより満足できるものになりうるのか?それは相手のあることでもありなんとも未知数です。アナウンサーのように発声や発語の訓練を受けた経験もありませんし、言葉につまったり不用意な言葉を使ってしまったり、これからも失敗はあると思います。いくらコンテンツを準備しても結局伝わらなかったということも起こりうるでしょう。が、少なくとも以前のように話すことを極端に怖がる、嫌がる自分はもういません。

今週は藤山校区での講演の前に会派の市議会報告会もあります。(ご興味がおありの方はぜひHPのトップページをご覧になって下さい。)夕暮れ時が少しずつ遅くなり、梅の便りも聞こえてきました。関係する学校の卒業式のご案内を頂く時期にもなってきました。

歳歳年年人不同。

春は別れと出会いの季節でもありますね。

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2016年01月11日(月)

ボウイの死

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夕方ネットでデヴィッド・ボウイ死去のニュースが流れてきました。「まさか!」と思いフォローしている彼のフェイスブックを開けてみるとトップに淡々と彼の死を告げる英文が連なっていました。これは事実だということはわかりました。新年早々、こういうテーマでブログを書くことになるとは予想だにしていませんでしたが、これもやはり何かの巡り合わせなのでしょう。

ボウイの音楽と出会ったのは洋楽にのめりこみ始めた中学生の頃だと思いますが、当時はまだMTVの前の時代であり、現在のような洋楽でもなんでもYoutubeで探せば視聴し放題という自由な環境は夢のまた夢といった時代の話です。当時彼は既にビッグネームであり、デビュー以来の独特の世界観(ジギースターダスト等)がいったん終焉し、全く新しい次元へ踏み出した頃といったところでしょうか。当時の洋楽ファンはNHK・FMの渋谷陽一氏がDJを務める番組(ヤング・ジョッキー・・・こうやって書くだけで赤面しそうなネーミングですが・・・とか、その後のサウンドストリートとか)そういった番組で自分の気になるアーチストの新譜が紹介されると必死でそれをエアチェックし(・・・これももはや死語ですかね)カセットテープで繰り返し聴きながら、レコードが店頭に並ぶのを待つといった生活を送っていました。私はDJの渋谷陽一氏の信望者で、彼が編集長を務める「Rockin'On」という雑誌も、ちょうど不定期から隔月刊に移るころだったかと思いますが、市内の書店(今は無き鳳鳴館)で予約してむさぼり読んだものです。ちなみに当時自分の書いた文を投稿して2度ほど載せてもらったことがあり(これが私の人生最大のプチ自慢)、そのうちの一つの号の表紙がやはりボウイでした。

渋谷氏はボウイの音楽性や世界観を当時から高く評価して、特集番組を組んだりしていました。そんな中で出会った「Time」や「Five Years」といった名曲は私の血や肉となり、今に至っています。また、番組の中で「ロック講座」というものも開講されていて、のちに自作の「だいじょうぶ、マイフレンド」を映画化したときにボウイを役者として起用した小説家の村上龍氏やボウイの「ヒーローズ」のアルバムジャケットの写真を手掛けたカメラマンの鋤田正義氏らがゲストとして登場し、彼らの言葉もまだ十代だった私の中に深く刻み込まれています。同時代を過ごした方なら記憶されていると思うのですが、当時はFM番組の番組表がそのまま雑誌になっていて、私は「FMレコパル」だったか、読者プレゼントに応募してボウイの新譜「Low」を当てたこともあります。送られてきた「Low」は日本で売られているようなかっちり硬いジャケットではなくペラペラの紙ジャケットで「これって海賊版?!」(・・・これも死語かな)という印象でしたが、アルバムに収められた音楽そのものは目からうろこならぬ耳からうろこで、当時ちょうど自分自身もヒットチャート的な洋楽からプログレ(・・・わかる人にはわかる。笑)に移行し始めた時期だったので、常に時代の先を読んで音楽として昇華させるボウイのアーチストとしての凄さに感じ入ったものです。

私はアルバムとしては「アラディン セイン」あたりが好きで一番良く聴きましたが、もう少し月日が進んで20歳の頃(ちょうどMTV全盛の頃ですね)、忘れられない思い出があります。アメリカ、テキサスでの留学を終え、最後に日本に帰るフライトチケットがロサンゼルス発だったので学生寮の友人の車でテキサスから二泊三日の旅をしました。テキサスからニューメキシコ、アリゾナを抜けてカリフォルニア州へ入るのですが、このあたりの地域は見渡す限りの荒野で、道路は通っていますが町から町への間には人の気配は全くなく、車はまばらで道路わきに電燈もないので夜になると漆黒の闇です。アメリカは小さな町でもラジオ局があって色々な役目を果たしています。荒野をひたすら走るある意味過酷なドライヴの最中、ラジオから流れてくる音楽やDJの声が心の支えなのですが、カルフォルニアに入る前についにそのラジオの電波さえも入って来ない地域に入りました。道はあるけど、この道が自分たちが目的とする場所に繋がっているのかどうか、標識もしばらく見ないし景色は走っても走っても変わらない空と大地だけ。女学生3人の旅だったのですが、みんな無口になり、しばらく走り続けていると、ふいにラジオから当時リリースされたばかりのボウイの「Let's dance!」のイントロが流れて来たのです。その時の車内の歓喜といったら。みんな泣きそうなほど嬉しくて踊り出したいほどでした。

ボウイの魅力は音楽だけでなくその容姿も、群を抜いていました。MTVの時代になってミック・ジャガーと共演した「Dancing in the street」などのpvも有名ですが、金髪に鋭い眼光(片方の目は義眼)、彫刻のように整った容姿で、数々の映画にも出演しました。役柄的にはまっていたのはカトリーヌ・ドヌーヴと共演した「ハンガー」あたりでしょうか。私が好きだったのはスコセッシ監督の「最後の誘惑」でキリストの処刑を命じるピラト役。姿を見せる前に声だけで彼とわかる役者でした。ロックシンガーらしく、彼は生涯「太る」ということがありませんでした。あまりにも美形だったので、性を超越していた印象もありました。美形な上に大英帝国のエスプリとシニカルさ。細身のスーツがなんと似合っていたことか。髪を肩ぐらいまで伸ばしていた頃にライヴで「Heroes」をスーツ姿で歌っているボウイは私の中でYoutubeの五指に入るお気に入りでした。フレディ・マーキュリーの追悼コンサートの時のアニー・レノックスとのデュエットも圧巻でした。クリスマス時季には(時代はさかのぼりますが)ビング・クロスビーと共演した「Little drummer boy」の動画も繰り返し見ました。この曲は数あるクリスマスソングの中でも彼の精神性に最も馴染むものではなかったかと思います。

いろいろと書いてきましたが、ボウイの死をまだ受け止められずにいます。あまりにも若い頃から自分の人生と重なり合ってきたので、自分の一部をもぎ取られたような気がしているのです。私の一番お気に入りのロックアーチストはボウイではなくピーター・ガブリエルというやはり英国人ですが、ボウイというのは、なんだかそういう「好き」とかいう嗜好を越えたところにある、自分にとってはなんだか違う次元にある人だったなあという気がしています。神々しいのに少年のように初々しくて、美しく生きた人だったと思います。悲しみはたぶん後からくるのでしょう。
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