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2017年10月06日(金)

私を殺さないで

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ラスベガスの銃乱射事件に寄せて思いつくことを書いておきます。無差別に銃を乱射して59名もの命を奪ったこの事件の発生後、アメリカでは銃規制論議がまた高まりを見せているとの報道もあり、また一方で新たに自衛のために銃を購入する人が増えているという報道もあり。おそらく多くの人が気づいている通りこれは「核武装」の問題と原理は同じです。

 

相手が脅威である。威嚇姿勢を見せている。自分を守る(自衛)のためには自分も武装するしかない。相手にも同じような姿勢を見せて自分に手を出せば相手も無事ではすまないことを理解してもらわねばならない。いわゆる「核抑止」と呼ばれるものも、自衛のための銃保持の正当化も原理は同じです。国としてそれをするか、個人としてそれをするかの違いはあっても、「私を殺さないで」というシンプルな欲求とメッセージによってつくられたスタンスに違いはありません。

 

今年7月の国連の核兵器禁止条約の可決にアメリカ、中国,といった主要核保有国は条約交渉の場にさえ参加しませんでした。世界で唯一の核被爆国であり、無差別に膨大な人命を奪われた日本も、アメリカの核の傘の庇護の元にあり、参加していません。「こんな条約を作ったって北朝鮮が従うわけがない。相手は何をするかわからない。相手が核兵器を持っている以上、自衛のために自分たちも持っていなくては。」 アメリカの言い分はそういうものでした。「やるんなら、やってみろ。こっちだってただじゃおかないぞ!」 まるで子どものケンカのようですが、ボタン一つでまた確実に無差別に大量に人が死にます。

1964年、今から50年以上も昔、私が生まれて間もない頃に、今は亡きスタンリー・キューブリック監督が「博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのをやめて水爆を愛するようになったか」という映画を作りました。映画をご覧になった方ならお分かりと思いますが、半世紀以上前と状況は全く変わっていません。世の中は一見平和なように見えて、実は常に紙一重で核の脅威にさらされ続けています。

 

自分を守るためには相手を殺傷していいのか。これも常に命題です。「スター ウォーズ」や「ロード オブ ザ リング」のように、正義を掲げて悪と戦う「聖戦」の世界では相手を殺すことは達成感を持って受け入れられますが、現実の生身の人間の世界ではそうはいきません。今年のギャラクシー大賞(放送批評懇談会主催)テレビ部門に輝いたのはNHKの「ある文民警察官の死~カンボジアPKO 23年目の告白~」という50分のドキュメンタリー番組でした。番組では1993年、カンボジアのPKOに参加した日本人警察官の当時の焦燥と恐怖、そして今も終わらない苦悩をあぶりだしていて最後の最後まで見るものを圧倒します。武器を持たずに戦場に送られるということがどういうことか、戦地の残虐な血生臭さとはかけ離れた政治の世界。戦うために行ったのではないのに殺されるという不条理。国際社会で日本という国が果たさなければならない役割とは何なのか。自分たちを守るためには相手を殺さざるを得ない状況になった時、それを国家が許すのか。安全保障や憲法改正の問題も、もっと私たち一人ひとりが突き詰めて考えておかねばなりません。亡くなった人の死を無駄にしないために。

さて、世間は今月中に投開票の行われる衆議院選挙の話題で持ちきりです。日に日に流動的になし崩しになっていく感のある今回の選挙情勢ですが、いつも言っていることですが、何を言おうと私たちは「同じ船に乗っている」のです。「どうせ誰に入れても変わらないから」と投票に行かなくても、投票に行った人の票数で出た結果を受け入れざるを得ません。「どう変えたいのか」、ぜひご自身のスタンスを決めて信頼できる人に1票を投じて頂きたいと思います。

今回の選挙の台風の目とも言うべき「希望の党」。私は「群れる」ことを嫌う政治的には極めて中途半端な人間なので、政党の看板で候補者を判断することもしません。が、小池氏の「今まで手をつけられなかったようなところまで根本から変えたい」というメッセージは確かに魅力的だと思います。小池氏であれ誰であれ、もし本当に政治が主導的に世界をそんなふうに変えていってくれるなら、核やISといった人の命を脅かすものの問題も解決に向かうかもしれないと、それこそ「希望」を持てるからです。

 

世界の軍需産業企業トップの過半数はアメリカにあり、日本を含む他の国々でも人殺しに有用なものが製造され続けています。戦闘機やミサイル、銃、弾薬、そういったもろもろの生産をやめれば世界中の紛争やテロで人の命が不条理に奪われる機会は格段に減るはずですが、誰もそうしようとは言わない。みんなわかっているのにやめられない。「私を殺さないで。私を殺すなら、あなたを殺す。」 誰かが「それはもうやめようよ。」と言わない限り、このスパイラルはあらゆるものを巻き込みながら世界の果てまでぐるぐるとまわって落ちてゆくのです。

 

 

 

 

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2017年07月30日(日)

銀河鉄道の夜

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梅雨が明けたらカラッとした夏本番がやってくるはずなのに、今年はいつまでもじめじめと湿度が高く、身体にこたえる猛暑が続いています。例年夏の間はおひさまクラブ(障害児のための学童保育)で日焼けをもろともせず動き回って、暑さには負けないほうだったのですが、今年のような湿度のある暑さは過重が大きく、これまで就寝時にクーラーをかけるのは(電気代もかさむし)身体に良くないとずっと思ってきましたが、この夏はクーラー無しでは眠ることもできません。いったんクーラーを使いだすと身体のほうはそちらに順応してしまい、はじめの頃こそ熟睡できないとか、内臓に負担がかかるんでは?とか言ってたものの、今では切実にクーラー無しでは眠れない身体になってしまいました。大戦中、遠い南洋で食糧も無く熱帯夜で蚊に悩まされながら野営していた兵隊さんたちのことを思うと、なんとばちあたりな人間になってしまったものかと思います。そして、もう10年以上も前から「地球温暖化による気候変動」ということが叫ばれながら、危機感も薄く、豪雨やたつまきなどの自然災害もわが身に被害が及ばない限りは他人事としてやりすごし、日々の生活は相変わらずの大量生産、大量輸送でエネルギーを使いまくり、大量消費でごみの山を築き、「暑い!」とクーラーのスイッチを押す。人間の築いてきた文明とは何なのか、わが身のことながら滑稽なことよ、と思います。 

 

ところで私のこういったもの言いは、ある一定の人たちには非常に高慢なものに映り、嫌悪感をもたらすものです。文章で書くと少し穏やかになりますが、言葉として口に出しているときは、もっとシニカルな表現になっていることも多く、私も言ったはしから「あ、今まずいこと言っちゃったな」とか、後になって「こういう言い方をすればよかった」と悔やみはしますが、所詮、口から出たものにやり直しは無いですね。私はそうやって自分の言うことが人に不快感を与えるということを知っています、ということをお伝えしておきたく、書いておきます。

 

さてタイトルの「銀河鉄道の夜」は、いわずと知れた宮沢賢治の名作ですが、私は高校2年生の夏にこの作品を題材に読書感想文を書きました。当時はまだぼんやりとしか掴めていませんでしたが、この作品は辛いとか嬉しいとか、そういった個人の感情を全て塵のように飲み込んで、死と永遠を銀河鉄道でゆききする壮大な宇宙です。その中で最後に「与えられた生」というものを深く心におし抱いて歩みだす主人公ジョバンニの姿に、人は光を見るのではないかと。

10代の頃の感性はもはや50代の自分には残っていませんが、この歳になって思うことは、このジョバンニのように歩んでゆけたら、それは「美しい」人生なんだろうなということです。精神的にマイノリティーである私は、人に同調することが苦手で、「怒り」や「笑い」の場面でも、みんなの輪から外れていることが多々あります。また、群れるのも極端に嫌いです。権力を目指して今の立場にあるのなら、こういう性格はマイナスでしかありません。が、政治が単なる椅子取りゲームにならないためにも、私のような変わり者がいてもいいのではないかと思っていますし、何かを「変えたい」という強い思いのある人(特に若い人)が、現れて欲しいなあと願っています。

 

「銀河鉄道の夜」の舞台もそうですが、夏の夜というのはおそらく「死」に一番近いところにあるのでしょう。そしてその対極にあるものもおのずと意識させられます。ジョバンニのその後は誰も知りません。

 

 

 

 

 

 

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2016年12月31日(土)

2016年総括

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 今年はついに書いたブログがたったの10本。毎日更新していた時期があったことが今では遠い遠い昔です。書かなくなった理由は色々考えられますが、ひとつには文章に書いて吐露しないと落ち着かないほどの感情の高まりが少なくなったこと(つまり鈍感になったということ)、そして以前は書くことと対照的に大の苦手だった人前で話すということがそれほど苦痛でなくなり書くより話す量がふえたこと。あとは何かと説教臭くなる自分の文章にいいかげん嫌気がさしてきたこと。(笑)

 

 今年1年を振り返ってみますと、10本書いたブログのうちの2本が自分が10代の頃から聴きなじんできた音楽家の死に際してということで、この2人に限らず、今年はもういったいなんなのよお・・・というぐらい多くの音楽家の方たちが去って逝ってしまわれました。あの人もこの人もと続く中、今年も残りが見えてきた頃になってグレッグ・レイク、そしていよいよ暮れも押し迫るクリスマスにはジョージ・マイケル(亡くなってわかった同い年)と、もう言葉もありません。天寿を全うしたとは言い難い彼らの死ですが、彼らの残していってくれた音楽はこれからも人の心を揺さぶり続けることでしょう。芸術とはそういうことかと。

 

 地球上ではこの1年のうちに歴史の教科書に載りそうな事象が次々と起こりました。色々な意味で世界がターニングポイントにあり混沌としていることを意識させられた年でした。SNSによって世界中の情報があっというまに拡散し、共感が共感を呼び、憎悪が憎悪を呼び、世界中のできごとが他方向から見るとどんなふうに見えているのか、そこまでが瞬時に伝わってくるようになりました。フィクションの世界でしか体感できなかったような醜い「悪」や、映画「トゥモロウ ワールド」のような閉塞感(例によってわかる人にはわかる表現ですみません。笑)がリアルに迫ってくる年でもありました。かねてより不透明感のあった中国やロシアといった大国の強引さに加えてアメリカもまた世界の調和をはずれて「わが道」をゆくことを由とする決断を自らが下しました。広島をオバマ大統領が訪れ、真珠湾を安倍首相が訪れ、ともに許し合い未来を向くことの大切さを説くお互いの傷を陶冶するスピーチを行ったかと思えば、その数日後に日本の稲田防衛大臣が靖国神社を訪問。もしも巷で言われているように保守系支持者を失うことを恐れて自らの姿勢をアピールして見せたのだとしたら「防衛大臣」という任には不向きだったと私は思います。隣の国ではいとも簡単に大統領が失脚。政治がかくももろいのは、まさに選んでいる民の姿でもあります。

 

 政治を行う者が民の代弁者だとしても、民の声をそのまま拡声器のように大きくするだけなら誰がなっても一緒です。政治家を選ぶときは「この人に大事なことを決めさせて大丈夫か?」ということを念頭に選ばなければいけません。まっとうな政治家を選ぶ判断力が民にあれば、選ばれた政治家はその民に合ったまっとうな決断をするはずです。どうせ何も変わらないからと投票に行かなかったり、何も知らない候補者に人から頼まれて一票を投じていたりする人は、世の中が変な方向に動いていっていたとしても文句を言っはいけません。あ、また説教くさくなってきた。(笑)

総括をしてすっきり新しい年へ移行したかったのですが、なかなかうまくいきません。自分の内なる世界もこの世界と同様混沌としているのです。ともあれもうすぐ新しい年がやってきます。時間は非情に過ぎてゆくのです。今年1年多くの人を見送ったように、来年も別れとそして新しい出会いがあることでしょう。生きている実感を掴み取ることのできる働きの日々を祈りつつ、新年の一日を黙して迎えたいと思います。

 



 

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2016年11月09日(水)

アメリカよ どこへゆく

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月曜日から今日までの3日間、市議会の会派(チーム創生)で、日立市、小美玉市、宇都宮市とまわる視察に出ていました。今日の午後、羽田から飛行機に乘る前に待合スペースに置かれたTV画面からアメリカの大統領選の開票状況が刻々と流れてきて、暗澹たる気持ちになっていましたが、山口宇部空港に到着していよいよトランプ氏が当確となったことを知り、正直言って今も気持ちをどう落ちつけたらいいのかわからずにいます。

 

こうなるかもしれないという伏線は既にイギリスのEU離脱投票のときにありました。つまり人々が理性ではなく感情で投票という行為に走るということをEU離脱の件は顕著に表していたと思えるからです。今回の大統領選も、トランプ氏に票を投じた人の大半は「クリントンは嫌い。トランプならなんとかしてくれそう」という「夢見る」状態で票を投じてしまったように私には思えます。「既存の政治家像を打ち破る新しい大統領」という見方も投票した人たちの中にはあるようですが、いくら新しいことやナンバーワンが大好きなアメリカだと言っても大統領までそんなシンプルな理由で選んでしまった「盟友」と日本は今後どうやってつきあっていったらいいのかと、またまたしんどい気持ちになります。

クリントン氏は嫌いだけど、トランプ氏が大統領になれるのであれば、他にももっとふさわしい人はいたはず、というのは当のアメリカ国民も痛感していると思います。でも最後までその「人」は現れなかった。それがアメリカの政治の現状だったということなのでしょう。クリントン氏の「私ならできる!」というこれまでの実績に裏打ちされた自信満々の態度とトランプ氏の思慮と品格とダブルでの無さ、今回の大統領選は「嫌われ者同志の戦い」と言われてきました。おそらくアメリカ国民の多くがもっと身近に「この二人じゃなくてあの人がやってくれたらいいのに」と思う人がいたのではないかと思います。でもその人は最後まで「大統領候補」として名乗りを挙げることはなかった。今朝のTVニュースで「どっちも嫌いだから白票を投じた」とインタビューに答えている有権者も見ましたが、選ぶ方も選ばれる方もこうなっては政治の空白地帯は広がってゆくばかりです。

アメリカのような大国では人種や宗教など複雑な要素がからみあって日本ほど単純ではありませんが、やって欲しい人ではなく、やりたい人が政治家になっている現状がある限り、政治の不毛性ははてしなく深刻になってゆきます。政治に期待する人は減少し、低い投票率の元でやりたい人だけが手を挙げて政治家に選ばれて「狭い」視野から政治を行えば、人々の暮らしがより良くなるはずもなく社会が安定して繁栄するはずもなく、一部の人たちだけが何らかの恩恵を被るようなそんないびつな社会ができあがってしまいます。そうなるとますます政治への嫌悪感が広がり、政治は別世界とみなされ、純粋に社会を変えようと政治家を目指す人は少なくなります。日本の今の社会で言えば「嫌なことはやりたくない」という人が増えれば増えるほど、単純に政治の世界は遠くなってゆきます。

アメリカがここまでひどい状態になっているとは私も考えていなかったので(甘かったということでしょう)、さしあたって今回の大統領選の結果が今後わが国にどんな影響を及ぼしてくるのか政策的なことはさておいて、これまでの彼の言動からして私としては単純にトランプ大統領が「偉い人」と思えないというのが悲しいところでしょうか。アメリカには星の数ほど著名な学者や芸術家たちがいますが、そういう人たちは大統領と会ったり、彼の前で何かするということが名誉なことだと思えるのだろうか、そんなおせっかいなことまで思いめぐらしてしまいます。「立場が人を造る」という言葉もあるので、大統領になった途端に見識高く思慮深い人になっちゃったりしちゃったりなんかして、というところまで期待してみたりしますが、今はため息しか出てこないというところです。



 

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2016年09月05日(月)

「シン・ゴジラ」に見る正しい権力の使い方

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宇部市が生んだ巨匠、庵野秀明監督の話題作「シン・ゴジラ」を観に行ってきました。既に公開から1々月以上がたち、マスメディアやネットでの感想や評論も出尽くした感がありますが、思いつくことを書きとめておきます。正直言って日本の実写映画でこれだけエンターテイメントとして高度に完成した作品は初めての経験で、できればまだまだもっと多くの人たちに観てもらいたいと思いますので、ネタばれになるようなことは控えたいと思いますが、さてどうかな。

配役の妙。
総勢328名の役者陣には「よくこの役にこの人もってきたなあ」という配役の妙がちりばめられています。セリフは一言だけとか、姿は写真のみとかのカメオ出演満載ですが、役どころは主に、政治家、官僚、自衛隊、「巨大不明生物特設災害対策本部」(通称・巨災対)に招集されたメンバーという大きなくくりに分類することができます。長谷川博己演じる主人公の矢口蘭堂は政務担当の内閣官房副長官、彼の情報収集力、判断力、突破力を軸に対ゴジラ戦は展開されてゆきます。ヒロインの石原さとみ演じるカヨコ・アン・パターソンは日本人の祖母を持つ米国大統領特使で父親は上院議員というサラブレッドの役どころ。長谷川さんはともかく、石原さとみさんはたぶんアン・ハサウェイみたいなのを期待されたんじゃないのかなと想像するわけですが、少々迫力不足というのが私感。国村準さんの統合幕僚長は見事にはまってました。こういう指揮官に部下は命がけでついていくわけで、高倉健さんが生きていたら演って欲しい役でもあったな。うんうん。政界の要人たちが大挙して途中で消えていってしまう中(!?)、終盤に日本のトップ(内閣総理大臣臨時代理)役となるのが平泉成さん。物語のオープニングでは「想定外」のゴジラの登場に政治の不毛性というか国家危機に対する政治家たちの臨場感の無さが露呈するわけですが、最後は「樅の木は残った」的な美学を見せてくれる役どころです。物語の中で最も庵野監督らしいというか、絵コンテが浮かんでくるようなシーンが続くのが、各省庁や大学からブレインが集う「巨災対」を描く部分なんですが、ここにはまた個性的な役どころと役者さんが揃っています。「野火」の塚本晋也監督がゴジラの謎に挑む大学教授の役を演じているんですが、塚本監督の存在自体が嘘なのか超リアルなのかもはや謎!(笑) 市川実日子さん演じる環境省職員、尾頭ヒロミのキャラの立ち加減は頭一つ抜けていて、たぶん映画を離れて独り歩きしてゆくパターンかと思われます。そして個人的には今作品一番のお気に入りはこのメンバーの一人、文部科学省職員を演じている高橋一生さんです。

時々遠目に見えるゴジラが静止してるのが気になったことを除けばCGも実写の映像もハリウッド映画となんらそん色ありません。映画の世界では日本には多くの才能がありながらそれを抱える市場がなかったのが実情かと思います。今回の「ゴジラ」の成功(興行収入は70億円に迫るそうです)をきっかけに、映画の世界を目指す若い人が増えて正常な市場原理が働くようになれば日本も真の意味で文化大国と言えるのではないでしょうか。完成度の高さはエンターテイメントでありながらそのメッセージ性の熱さにもあると思います。政治とは何か、国を守るとはどういうことか、(特に大きな思い入れが感じられたのが)核と向き合うとはどういうことか、言い切ってしまえば国のありかたを問うている映画なのです。だから一人でも多くの人に見て欲しいと思っています。その昔クリント・イーストウッド監督が「硫黄島からの手紙」を渡辺謙さんをはじめとする多くの日本人キャストを擁して作ったとき、私は「よく作ってくれた」と感謝するのと同時に「本来は日本人が自分たちの手で映画にすべきではなかったのか」と心に石を抱え込んだような気持になりました。今回「ゴジラ」という映画が日本人によって映画界に生み出されたことには本当に大きな意味があると思います。

ブログタイトルに「シン・ゴジラに見る権力の正しい使い方」とつけたのは映画を観てあることを痛感したからです。ネタバレになるので詳しくは書きませんが、権力は正しく使える人に持たせなければならないということです。そして最大の危機管理とは、権力を正しく使える人を選んで育てておくということであろうと。国を導いてゆく政治の世界が単なる椅子取りゲームであってはならないということをこの映画は暗に教えてくれます。この映画は現代の政治家をヒーローのように描いたおそらく初めての映画ではないかと思われ、実際の政治の世界はゴジラを相手に戦うわけではないのですが、困難にあって正しい舵取りができるか否か、民を導くことができるか否か、そういう世界に身をおいてみたいという若い人が映画をきっかけに増えてくれればそれもありかなと思います。

さて長々と書いてきましたが、今日9月5日は父の4回目の命日です。亡くなった日がその年の9月議会の初日だったので毎年9月議会の時期がやってくると「また1年たったな」と思います。今年もあさって7日から議会が始まります。今回は一般質問初日(9日)の2番目に登壇の予定です。
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