八月九日には、第二発目の原爆が長崎に投下された。この日の投下目標は小倉と長崎であった。彼らとしてはどちらでもよかったのだ。長崎が選ばれたのは、天候の条件が、長崎の方が、投下により適していたという理由にすぎない。
 この日、ソ連は日本に対して宣戦を布告し、ソ連軍は雪崩をうって満州と北朝鮮に突入してきた。
 それまで一億玉砕を叫び続けてきた軍部も、遂に剣を折り、十四日の午前会議でポツダム宣言を受諾することを決め、それを連合国に通告し、翌十五日正午、玉音放送によって終戦の詔勅が、一億の国民に告げられた。
 私はその日、山工場で玉音放送を拝聴したが、雑音が入り、詔勅のご主旨を、正直なところ、明確に理解することができなかった。
 海軍工作兵の一等兵曹は、敵の謀略に乗るなと言って、詔勅を頭から信用しようとはしなかった。しかし無条件降伏ということが、次第にわかってきた。
 私の心には、深い悲しみが湧いたが、涙は出なかった。大きな悲しみの時は、涙は出ないものかと思った。
 どうせ勝てない戦なら、もっと早く降参しておればよかったのにと、捨て鉢のように言う者もいた。なぜ六日以前に降伏しなかったのだろうかと、私はそれが悔しかった。あんなに空き腹を抱えて、懸命に働いたことが、何にもならなかった。
 壊れた社宅の家に、終戦の日の夜がきた。私は長女の芳子と二人きりの、淋しい夕餉についた。
 久美子は、九月十日の日付で「原子爆弾により死亡したるものと推定される」ということで、私の戸籍から抹消された。しかし私の心からは、私が死ぬまであの子は抹消されることはないだろう。
 終戦の夜、私はあの娘の死の意味を考えた。悔しさと空しさがこみあげてきて、裏庭の暗がりで涙を流した。
 しかし悲しかったけれども、おそまきながら、降伏したことはやはりよかった。敵はあんな恐ろしい兵器を造るほど、科学も技術も発達しているのに、油も鉄もアルミもセメントもない日本が、空き腹を抱えて、竹槍や手榴弾で立ち向かっても、所詮は蟷螂(とうろう)の斧で万に一つも勝ち目はない。このまま戦争を継続すれば、結局文字通り一億玉砕して、日本民族は滅亡するほかなかったのだ。
 今夜から灯火管制はしなくてもよい。明るい電灯の下で食事ができることを喜んだとしても、非国民と言って誰が責めることができようか。
この戦争(いくさ)敗けられじとてひたむきに励みし思へば涙ぐましも

 終戦後、会社からだったか町内からだったか、酒の配給があった。うちひしがれた人々を慰めようとの親心からであろう。
 辛いのは自分たちばかりではない。一億の日本人がみんな辛いのだ。しっかりせねばと思いながら、芯棒が抜けたようで、何をするにも張り合いがない。雲を踏むようでたよりない。これを虚脱状態というのであろう。
 折角もらった配給の酒も、少しもうまくない。飲んでも酔いもしないし、一向に心が弾まない。

大き穴一つ空きたりわが胸に原爆の炎(ほ)に子を逝かしめて

「山河慟哭」満田廣志書 より