今日は、美術館へいくんだ!なんて、
昨日の夜から張り切っていたのに、

朝、ベッドの横の時計をみると、
9時過ぎ、否、10時近く。

あぁ、やっちゃった、

いつも時間には割合、
寛大なんだけれど、
今日はしでかした気分。

こういう、ずるずるを引き連れる日は、
濃いめの化粧で気合いを入れて、
身につけるのは、派手な服。
(今日はちなみに、全身ヒョウ柄コートで参戦)

向かう先は、六本木。

ずっとずっと行きたかった、
森美術館で開催されている、「医学と芸術展」。

音声ガイドを片耳に、じっくりゆっくり、

「レオナルド・ダ・ヴィンチの解剖図」、
(本当に走り書きのメモが鏡文字で驚き)

「アーユルヴェーダ的理解による人間解剖図」
(ネパールの人間解剖図は、思想がメインのような気が)

デミアン・ハーストの「外科手術(マイア)」
(ターナー展での印象を覆されました。
  油彩なのに写真かと見紛うほど)

全ての作品が、とても感慨深くて、
少しおどろおどろしい器具だったり、
現代アートのような作品もあったけれど、
わたしは、1つの作品から動く事が出来なかった。

ヴァルター・シェルスの「ライフ・ビフォア・デス」

大判写真が2枚1組で並んでいて、
左側の写真は目を開けて、普通に撮られた写真。
右側の写真は眠っているような、写真。

実は、眠っているのではなくって、
被写体が無くなった直後に撮影した写真。

その作品が5点程、展示されてあって、
その被写体やその家族達の想いが綴られた文章も
一緒に読みながら鑑賞できる作品。

この作品は凄かった。

被写体は言う、
「死ぬのは怖いと思うわ、でも、この世を超える、
この世の中では考えもつかない場所へ行ける、なんて思えば
それは全く嫌な事じゃないわ」

「死ぬ過程は感じた事が無いから、怖いと思うけれど、
死んでしまうという事への怖さはないわ。
ただ、砂漠の砂の一粒になる事でしょう?」

「みんな、励ましてくれるんだ。
でも、2人きりになるのを嫌がっているのがわかるんだ。
『早く、良くなって復帰してね』だとか、『元の生活に戻ろうね』だとか。
言葉は嬉しいんだけど、誰もこうは聞いてくれない、
『君の今の心境はどういうものなのかい?』
僕は、そればかり毎日、考えているっていうのに」

なんだか、涙が溢れた。
死ぬのが怖いというか、そんなんではなくって、
これだけ崇高な思想や、純粋な想いが
左の写真には表れているのに、右の写真にはそれがない。

眠っているようなとても良い写真なのだけれど、
もう、その人達はここには居ないんだ、当たり前だけど、
そう思うと、涙が出てきた。
哀しいとかじゃなく、ただ、溢れ出てきた。

他にも紹介しきれない程、沢山の良い作品達が
「何か」を刺激してくれる事、請け合い。

生と死なんて壮大なテーマで、
自分の悩みの小ささを再確認、

そうして、最近、悩みから拒食気味だったけれど、
(面白い程に、食欲がなくなるので驚いた)
あまりの自分のちっぽけさに、パスタ完食。

最近の私を知っている人には、
凄い事って思ってもらえるかしら。

久々に普通に食事を摂ったので、
私の胃はもの凄く活発、盛んに栄養を吸収しようと、
人目もはばからず、ぎゅぅぎゅぅきゅるきゅる、
そんなに、欲していたのね、なんて人ごと。

自分のお腹が愛おしく思えた。

私の場合、「食欲」が刺激されたけれど、
みんなはそんな事は無いはず、もっと、
もっと「何か」を刺激してくれるはず。

「食欲=生」ということで、
美術展のテーマからはぶれてはいないよなぁ、
なんて、むりやりな自己弁護。