十界とは・・、人の心は移ろいやすいものです。


人の心は時と場所により、対象により、気分により、様々にかわります。
人は日々の生活の中で、喜んだり落ち込んだり怒ったり、泣いたり、
とさまざまな感情をもって暮らしています。

 

こうした瞬間に変化していく生命の現象を十種類に分けて明らかにしたのが、

仏法で説く十界論です。

その十界とは、

地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界、
の十の生命世界のことです。

 

このうち、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天をまとめて六道(ろくどう)といい、
声聞・縁覚・菩薩・仏をまとめて四聖(ししょう)といいます。

 

法華経以前の経典では、十界はまったく別々にある十種類の世界としてとらえていました。

法華経では、一つの命に十界がすべて備わっていて、


その十界は固定的ではなく、常に移り変わる瞬間の命の境涯であると説きます。

境涯とは境地、心持ちであり、自分がしてきた結果として各自が受ける境遇です。

境涯としての地獄界や仏界は、どこか自分と別のところにあるのではなく、
自分の胸の中、命の中にあります。

 

たとえ今の自分自身が、地獄の苦しみの生命状態であっても、

行い次第で仏界の大歓喜の生命へとかえていくことができます。

仏教では、数千年前から今の心理学よりはるかに深くわかり易く、心の在りようを境涯論として説かれています。

 

そして、戒壇のご本尊を拝し、南無妙法蓮華経を唱えるとき、私たちの命は別の「界」にいてもそのときは仏界に留まります。

 

けれども、またそこから離れ、世間の様々なものに触れていると、境界はルーレットのように変わっていくでしょう。

それを、「仏界」につねに定着させるためには、日々の勤行・唱題・折伏。

そして、さまざまな修行が必要だと思われます。

 

・地獄界
地獄は、欲望・嫉妬・不満・妄想で悩み苦しみ続けることです。
地獄は、文字通り地下の牢獄です。地は最低、獄は拘束されたり、縛られたような不自由さです。

経典には、八熱地獄、八寒地獄など多くの地獄が説かれています。
今風に言えば、サラ金地獄などです。

仏法では、いかるは地獄、といいます。
いかり、とはやり場のない恨みの心です。

 

苦の世界に囚われて、どうすることも出来ない生命のうめき声、それがいかりです。

生きてることが苦しい。何を見ても不幸に感じる。人生はすべて灰色だ。
そういう思いに満ちた境涯が地獄界です。
どうとでもなれ、と破壊衝動にかられて自他共に壊していくのも、地獄界の働きです。

人間の三毒と闘争心がきわまって怒る戦争は、まさに地獄の苦しみの生命そのものです。


・餓鬼界
餓鬼とは、もともと悪業の報いとして餓鬼界に落ちて苦しむ亡者を言います。

常に飢えて、食物を欲しがるように、限りのない欲望のとりこになって、常に満たされずに、苦しむ境涯のことです。

とどまるところを知らない激しい欲望の火に、身も心も焼かれ続ける苦しみは、例えようもありません。
仏法では、むさぼるは餓鬼、といいます。

 

貪りとは、好きなようにしたいという心ですが、これは誰にでもあります。
この心があらわれると、自分さえよければいい、という心になりがちです。

そうすると欲望に振り回されて縛られて、満たされないで苦しむ境涯になります。

次第に自分も不幸になり、他人をも傷つけていきます。

 

十分に持っている上に、まだ欲しがる命・・、
食べても、食べても、尚、満足感がない・・・、
まさに日本全体が、餓鬼界になりつつあります。

餓の文字は、我を食らう、と書きますが、最後は文字通り自分をくいつぶすような、破滅的な生き方になります。
このように、欲望を前向きで建設的な方向に使えず、欲望の奴隷となって苦しむ境涯です。

 

・畜生界
畜生界は自分本位で自分中心の行き方をする人の境涯です。
仏法では、おろかは畜生、といいます。

おろかさ、とは目先の利害に囚われ、理性の聞かない畜生界の特質です。

正邪・善悪の判断がつかず、本能のままに行動してしまう境涯です。

 

また、理性や良心を忘れ、自分が生きるためには他者をも害していく・・、弱肉強食の生存競争に終始します。
その境涯は、強気にへつらい、弱気をあなずる、生き方になります。

 

単に自分が生きることしか考えられないから、目先のことしか見えず、未来もありません。

さらに他をかえりみることが出来ないおろかさから、結局は自分を破滅させて苦しむのです。

畜生とは、文字とおり鳥や獣などの動物のことですから、

人間の境涯に当てはめては言いにくいものです。

しかし、仏法では説く衆生には、生きとし生けるものすべての動植物を含みます。


動物も育て方によって境涯が変わります。

ペットは人の心を癒します。盲導犬は、人を助けることを喜びとし、使命として生きます。 
これは畜生界の中の菩薩界です。

また人間でも悪い因縁が重なり場合によっては、動物よりも残酷で愚かにもなります。

畜生界とは、厳しい言い方ですが、人間として生を受けながらも、人間らしい心が働かない境涯を指しているのです。

地獄界、餓鬼界、畜生界の三つは苦悩の境涯なので三悪道といいます。

 

・修羅界
修羅界とは、常に人との勝敗を意識して、競い合い、勝とうとする心が強い境涯です。
このライバル意識は善悪両面ありますが、
自分と他者を比較し、常に勝とうとする「勝他しょうたの念」を持っているのが特徴です。

修羅とは、もともと阿修羅といい、争い好きのインドの神です。


仏法では「諂曲てんごくなるは修羅」といいます。

「諂曲てんごく」とは、「へつらい」「曲がった」心のことです。
「諂」も「曲」も「心が曲がっている」ことです。
「へつらい」とは自分の本心は見せないで従順をよそおう、ことです。

自分がいかにも優れていると見せるために、表面は人格者や善人をよそおい、
謙虚なそぶりをしますが、内面では自分より優れたものへの嫉みと悔しさに満ちています。

このように、心に裏表があるのも修羅界の特徴です。

さらに、何かにつけて不始末があれば、人のせいにしがちです。

強気で人に責任を押し付ければ楽なようですが、自他共に救いはありません。しかも実は内心とても苦しいのです。


やみくもに人を憎み、批判する人は、結局自分の首を絞める事になります。

「人を憎めば、自分の欠点も見えなくなって道を失う」とあるのは、このことです。

以上の四つの命・生命の現象は、必ず苦しみを伴う不幸な境涯なので、
三悪童に修羅界を加えて四悪趣(しあくしゅ)といいます。

このような三悪・四悪の境涯では、恩を知る事もなく、報いることもできません。

 

人に対しては何事も、恩着せがましい心になり、
人知れず徳を積むという「陰徳陽報(いんとくようほう)」の生き方はできません。

またヒステリーを起こしやすく、上の者の悪口は言う、
下の者は馬鹿にするという言動が多く、

自分の失敗をなかなか認めず、すぐに責任転嫁しがちです。


怨み辛みの心が強い分だけ、人とのトラブルや、

お互いがいがみ合うという十四誹謗(じゅうしひぼう)を、
起こしやすくなります。


思うようにならない身の回りの事は、
すべて自分の心と業から出たものであると気付くことが、仏法の入口です。

つづく。