「えぇ、式典も長くなって参りましたが、次は教育評論家としてご高名なL先生のお話です。」


ここは、とある町で開催されている大事な式典の会場である。その式典は既に五時間にも及んでいる。

壇上には机があり、その上にマイクと水とグラスが置かれていた。


聴衆が拍手をする。


名前を呼ばれたL先生が壇上に立った。

「みなさん、お疲れですか?もう、しばらくの辛抱ですからね、最後まで一緒に頑張りましょう。ところで、今『トイレに行きたい』と言う人は居ますか?」

会場からは軽い笑い声が漏れた。

「すいませんけど、トイレに行きたいと言う人は手を上げてもらえますか?」

会場は静まり返り、手を上げる人は居なかった。

「正直に手を上げて良いんですよ。」L先生はにこやかな笑顔を見せた。

会場は静まり返っている。

「では、手を上げるまで、終わりませんよ。」L先生はいたずらっ子の様なちゃめっ気のある表情を見せた。

会場が愛想笑いにあふれた。

「では、もう一度聞きましょう。今、トイレに行きたい人は居ませんか?」

チラホラと手を上げる人が出てきた。

「他にもっと居ませんか?」

徐々に手を上げる人の数が増えていく。

L先生は満足そうにうなずく。「ありがとう。手を下ろしてください。」

手を上げていた人達は一斉に手を下ろした。

「では、トイレに行きたい人も多いようなので、こう言う大事な式典の最中に『トイレに行く』と言うことについて話をしたいと思います。本当はもっとしっかりとした話を準備してきたのですが、他の先生方のお話を伺っていて、ちょっとみなさんには話が難し過ぎるかなと思い、急遽、内容を変更いたしました。ですから、ところどころ話がうまく行かない部分があるかと思いますが、その点はご勘弁を。」

L先生は軽くおじぎをした。

「では、本題に入ります。えーと、何でしたっけ?そうそう、大事な式典の最中に『トイレに行く』と言うことについてのお話です。えー、そもそも、時代の変化のスピードは激しく。世代間の認識の違いと言うものが見受けられるケースがあります。これを難しい言葉ではジェネレーション・ギャップなどと言いますが、みなさんはそれを感じたことはありますでしょうか?」

L先生は会場を見渡した。

「最近、私はそのジェネレーション・ギャップを感じるケースを多く見掛けます。なんでしょうかね、教育制度の変遷か、それとも現代っ子気質と言うものでしょうかね。人に対する気使いのできない若い人が増えている。『どうして日本人はこんなにダメになってしまったのかな?』と、日本の将来を不安に思ったりもします。昔はこうじゃなかったはずなんだけど。みんな、人に気使いができていた。一体、何がここまで日本をダメにしてしまったのだろう?私は考えました。そして、ある結論に至りました。そうだ、我々がしっかりと子供達を教育してこなかったから、こんなにダメになってしまったんだ。私はそのことに気付いたんです。今まで私たちも悪かった。」

L先生は机の横に歩いていき、「申し訳ありませんでした!」と大声を張り上げて、聴衆に向かって深々と頭を下げた。


しばらくして、ゆっくりと頭を上げるとマイクの前に戻っていった。

「さて、我々も改めます。ですから、みなさんも改めて頂きたい。大事な式典の最中に『トイレに行く』と言うことがどういう意味を持つのか、真剣に考えて頂きたいのです。みなさん、もしかして『トイレに行く』と言うことを軽く考えていませんか?『トイレに行く』たったそれだけの行動でも人に対する気使いと言う深い意味があるのです。気付いた人は居るでしょうか?」

L先生は聴衆をじっと見渡して、小さく「よろしい」とつぶやいた。

「では、改めてみなさんに問い質してみましょう。『トイレに行く』、たったこれだけの行動の中に人に対する気使いの意味を読みとれた人は、手を上げてもらえますか?」

誰も手を上げなかった。

L先生は聴衆をざっと見渡して、満足そうにうなずきながら「分かりました」と言った。

「この中で誰一人として『トイレに行く』と言うことの中に気使いの意味を読みとることができなかった。こんなに沢山の人が居るのにですよ、誰も……」

L先生は「誰も」の部分を「だーれも」と伸ばして、聴衆に念を押した。

「……だーれも、『トイレに行く』と言うことの中に気使いの意味を読みとれなかった。今から、私が『トイレに行く』と言うことの中に隠れている気使いの意味を教えるので、今からみなさんはその深い意味を知ることになります。みなさんは今日、この式典に参加してラッキーなのです。普通に過ごしていたら、なかなか気付かなかった『トイレに行く』と言うことの中の気使いの意味をついに知ることができるのですから。これで、みなさんは気使いのできる人間に一歩近付きます。素晴らしいですね。私もみなさんがその様な素晴らしい人間に近付く手助けができて誇りに思います。その気使いの深い意味を知って『あ、先生、そういうことでしたか』、『先生のおかげで目が覚めました』、『これからも気使いのできる様な素晴らしい人間になっていきます』、そう言う言葉を聞くと、私も教育を専門にしてきて良かったなと思います。教育は苦労も多いのですが、そう言う言葉を聞くと報われたなと思うのです。まだまだ、日本も捨てたもんじゃないな。みなさんにはそんな素晴らしい人間になってもらいたい。」

L先生は一つ咳ばらいをして、壇上に用意されている水を一口飲んだ。


聴衆はまだ『トイレに行く』と言う行動の中に隠された気使いの深い意味を知らない。


「では、みなさんに『トイレに行く』と言うことの中に隠れる気使いの深い意味を教えましょう。良いですか、大事なところですから耳を澄ませてしっかりと聞いてくださいよ。一言も聞き逃さないように。二度と言いませんから。」

L先生は大きく咳ばらいをして、ゆっくりと口をマイクに近付けた。

「式典の最中に尿意をもよおしたのか、トイレに行く時に黙って行こうとする人が居ます。それは失礼な行為ではありませんか?」

L先生はじっと聴衆を見渡した。

「良いですか、もう一度言います。式典で黙ってトイレに行く、それは失礼な行為ではありませんか?」

L先生は呼吸を整えてから滑るように話し出す。

「だって、そうでしょ。こちらは大事な話をしている。もちろん、『トイレに行くな』とは言いません。トイレに行くのは生理現象ですから止めることはできない。逆にトイレに行きたい人をこちらが押しとどめた場合には、『監禁だ!』などと言われてしまう。私が言いたいのはそう言うことではない。『人の話の最中にトイレに行くと言うことが失礼な行為ではありませんか?』とみなさんの良心に問い掛けているのです。大事な話の最中にトイレに行ったら、その人は私の大事な話を聞けなくなってしまう。それは、すごくもったいないことなんです。」

L先生は自分の言葉に深くうなずいた。

「では、大事な話の最中にトイレに行きたくなったらどうすれば良いのか?そう言うときには、是非『先生!』と手を上げてください。そうすれば、私も『おっ、何だ?』と思って事情を聞きます。『トイレに行かせてください』と言えば、私も話の分からない人間じゃない。『おお、行きたまえ』と許可をしてあげます。もちろん、その間、その人がトイレから戻って来るまでは話を中断して、待っていてあげます。これで、トイレにも行けるし、大事な話も聞けるし、一石二鳥ではないですか。」

L先生は一息ついて、水を飲む。

「ただ、この後も問題です。」

再び、おもむろに話し始める。

「例えば過去にこんなことがありました。トイレに行って帰ってきた後、何も言わずに着席した人が居たのです。私はその彼に言いました、『おい、君。トイレに行ってきて、そのまま着席するとはどう言うことだ?』と。最初、彼はきょとんとしてました。態度も悪く『はぁ?』と言う顔をしていました。『トイレに行ったことで何か言うことがあるだろう』、私がそう言うと、彼は『何っすか?』と言ってきました。『君がトイレに行くことによって、話が中断したんだ。それで、みんな待っていたんだ。何か一言あるだろう。そんなことじゃ会社に就職しても通用しないぞ。』と言ったら『すいませんでした。』と謝ってきました。私は言いました、『いやいや、私に謝るんじゃない。話を聞けなくて損したのは誰だ、私か?ここにいるみんなか?』、その後、彼は他のみんなに向かって『すいませんでした。』とあやまりました。素晴らしい。私はこう言う光景を見たかった。えーと……」

L先生は少し空中へと視線を移した。

「……えーと、つまり……」

視線を聴衆へと戻す。

「……、つまり、みなさんはたかが『トイレに行く』だけと軽く思っているかも知れない。けれど、そのたかがの中に沢山の礼儀と言うものが詰まっている。トイレに行くときにも礼儀正しく、自分が他人に迷惑を掛けていないかを考えて欲しいのです。そして、トイレに行ったら、迷惑を掛けた人に謝る、そのことを忘れないで欲しい。」

L先生は、一息ついた。

「以上をもちまして、簡単ではありましたが、私から皆さんへのお祝いの言葉にしたいと思います。」


司会者が言う。「L先生の大変ありがたいお話でした。」

会場からは拍手が上がった。

「では、本日、講演を引き受けて下さった先生方のお話もこれで最後になります。S先生、お願いします。」


S先生が壇上に上がった。

「えーと、トイレに行きたい人は我慢しないで静かに行って良いですよ。以上、終わります。」



読んでいただき、ありがとうございます。



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『魔術の夜明け第 1巻/金狐の密猟』


『魔術の夜明け第 2巻/プレヘーンサの惨劇』


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