『雁の寺』 の直木賞作家「水上勉」逝く。 | 不動王のブログ・名古屋分譲住宅

『雁の寺』 の直木賞作家「水上勉」逝く。

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2004年(平成16年)9月8日


水上勉 、肺炎の為、長野県東御市で死去。
享年85歳。

水上勉といえば、1961年の『雁の寺』。
これにより直木賞受賞。
一躍、流行作家となる。

『飢餓海峡』(1963年)『くるま椅子の歌』(1967年)などを続々と発表。

『越前竹人形』、『はなれ瞽女おりん』、『五番町夕霧楼』、『櫻守』。

さらに、伝記文学『良寛』、『一休』、

また、童話『ブンナよ、木からおりてこい』、
そして数々のエッセイなどを旺盛に書き続けた。

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水上勉は、福井県大飯郡本郷村(現:おおい町)の宮大工の家に生まれる。

井戸もなく水貰い風呂で、電気も止められた少年期、口べらしのため京都の寺に小僧として送られる。

9歳(一説には10歳)の時、京都の臨済宗寺院相国寺塔頭、瑞春院に小僧として修行に出されるが、あまりの厳しさに出奔。

しかしその後、連れ戻されて等持院に移る。

その経験がのちに『雁の寺』、『金閣炎上』の執筆に生かされた。

10代で禅寺を出たのち様々な職業を遍歴しながら小説を書くが、なかなか認められず、また経営していた会社の倒産、数回にわたる結婚と離婚、最初の結婚でできた長男(窪島誠一郎)との別離など、家庭的にも恵まれないことが多かった。

1946年頃、作家の宇野浩二を知り、文学の師と仰ぐようになる。

1947年に刊行された処女作『フライパンの歌』がベストセラーとなるが、その後しばらくは生活に追われ、また体調も思わしくなく、文筆活動からは遠ざかった。

1959年、服の行商のかたわら書き上げた、『霧と影』で執筆を再開。この作品は、友人川上宗薫 の紹介で、4回の書き直しを経て、出版へとこぎつけた。

だがその後、川上宗薫が売れっ子作家となった水上に傲慢な振る舞いを、1961年、『新潮』6月号に短篇小説『作家の喧嘩』を発表。

これは、文壇的成功で水上に先を越された自らの心情を戯画化した作品だったが、この作品のモデルにされた水上勉は名誉毀損で訴えようとした。

川上は、文壇仲間に調停を依頼したが失敗。

このため複数の新聞社の文化部記者に
「小説に書かれたことを事実と思わないでくれ」と懇願した。

川上は『朝日新聞』の匿名コラムで
「世の中には変わった作家もいるものだ。自作を宣伝するためにこんなことを言って歩いている」
「作家にあるまじき卑劣な根性」と批判された。

一方、水上の側でも川上夫妻のモデルに小説『好色』を書いた。

このとき、川上の妻と思しき女性の陰部に関する事実めかした描写によって川上夫妻は大きく傷つけられ、特に川上夫人は自殺まで考えたという。

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水上勉の小説では自分の若き日の体験が多く活かされている。

観音のようなのかとおもうほどに、あまりに純粋で哀しい女。
コンプレックスの塊のような男。

この男と女の宿命がぶつかって、哀しい物語が展開する。

それは、哀しいばかりではなく、あまりにも暗く重く、そして妖艶な濡れ場も出てくる。
だからよけいに哀しい。

同じ金閣寺炎上を取り上げた、水上の『金閣炎上』と
三島の『金閣寺』を読み比べるの趣しろい。

また、『一休』や『良寛』のファンも多い。

後年、次女が脊椎破裂症という病気であったことなどから身体障害者の問題に関心を持ち、前述の『くるま椅子の歌』の他に、『拝啓池田総理大臣殿』等、社会福祉の遅れを告発する発言や文筆活動もしばしば行った。

2004年9月8日肺炎の為、長野県東御市で死去。享年85。

没日は直木賞受賞作『雁の寺』に因んで帰雁忌と呼ばれる。

Wikipediaより
<松岡正剛の千夜千冊>
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0674.html



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