黄檗宗には宗祖隠元禅師がのこされた「真空華光大師遺誡 (しんくうかこうだいしゆいかい)」というものがあります。
隠元禅師は大正天皇より「真空大師」、昭和天皇より「華光大師」という2つの称号をれぞれ拝受しました。
そのため、真空華光大師と称しています。
遺誡というのは最期に弟子たちに遺す訓戒。
つまり私たちへの遺言にあたる言葉です。
私は修行時代、僧堂でこの御遺誡をよくお唱えしておりました。
何度も詠んで空で憶えるほどでしたが、言葉の意味はさっぱり理解しておりませんでした。
お経は詠めるけど意味は知らない。
情けない話ですが、お経に関してはむしろよくあることです。
そんな状態でおったところ
先日、資料を整理しておりましたら、「宗祖真空華光大師御遺誡解説」という薄っぺらな小冊子が出てきました。
黄檗宗の第60代管長 仙石泰山(せんごくたいざん)老師が、奈良県郡山市の永慶寺で行われた禅会で解説されたものを、同お寺が小冊子にまとめたものでした。
改めて読みますと、そこには心に響く宝石のような言葉が溢れていました。
恥ずかしい話ですが、今になってやっと、御遺誡の意味を知り、心からお唱えできるのです。
禅師が後世の私たちに何を託されたのか。
これから少しずつ、この解説を基に私なりの考えも交えながら御遺誡をいっしょに紐解いていきたいと思います。
いっしょに私のお勉強にお付き合いいただければ幸いです。
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「夫れ衲子となって、
(それのっすとなって)
生死大事のために
(しょうじだいじのために)
さてどうだろう。衣を着て僧侶となって、仏法を学び何をするのか。
それは「生死大事」
つまり自分が何のためにこの世に生を受けたのか、人生の目的はなんなのかを明らかにすることである。
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「まずは志を持つこと」
と禅師はおっしゃいます。
近頃、「さとり世代」という言葉があります。
「車やブランド品に興味がない」
「欲がなく、ほどほどで満足する」
といった現代の若者気質を表す言葉です。
年代的には1980年代半ば生まれということなので、私もこの世代に片足を突っ込んでいることになるのですが・・・。
現代の日本は物が豊かです。たいていの人は特に苦労をしなくても、なんとなく仕事して、なんとなくご飯を食べて、なんとなく日々を暮らすことができてしまいます。
病気になっても病院に行けないとか、飢えて死んでしまうとかいうことはあまり考えられません。
しかし、だからといってぼんやりと生きてはいけない。
人生の目的はなんなのか、自分はどこへ向かって行きたいのか
自身に問い続けなければいけないと、隠元禅師はおっしゃっています。
自分は今、どんな志を胸に持っているでしょうか。
春から新しい学校で勉強できるように。
自分の子供が元気に育つように。
いい人に巡り合えるように。
まずは人生の目的とまで大きくは言えなくても、
日ごろの小さな夢や志を積み重ねて
一日一日をしっかりと過ごしていきたいものです。