しつこいようですが、久々に自戒の念を込めて再掲させていただきます。
このことに関して僕はどの媒体や人との会話などでも、見たり聞いたりすることが無いので敢えて書いてしまいます。(唯一見たのは引退したジャーナリストの山下浩さんのブログです)
僕がおんぎゃ~と生まれた時にはわが国の殺処分はこのように撲殺でした。
「そんなのどうだっていいよ」と思う方も少なくないのかな とも思いますが、無関心ではいてほしくないな~ と思います。
また、現在の日本の動物行政制度を作る、または変える立場の方々の決して少なくない割合はこのようなことが普通に行われていたころの世代だと思います。
ただし、かつてはターンスピットがいたりブルバイティングが盛んに行われていたイギリス(ジョン・ブラッドショー著の犬はあなたをこう見ている参照)が、かつては宅配便の小包を開けると生きたヤギが出てきたな~んてことが、そんな大昔ではなくちょっと前まであったドイツが現在のように変わったのと同様、日本も変われるのではないかと思います。
もうひとつは、前にも触れましたが犬猫の捕獲・収容・殺処分は、犬猫が好きだ嫌いだ興味が無いに関わらず、税金でまかなわれます。
関係ないは通用しないかと思います。
それでは2012年の10月にUPしたものの再掲です。
去年の夏、厳密には7月末から8月末までの間、5年に1度の『動物愛護および管理に関する法律』(動物愛護法)の改正を翌年に控えて、環境省からその改正についての意見を広く募る為にパブリックコメントの募集をしていました。
その際は僕もいくつかのサイトのブログにて何回かに渡り、『こういうものですよ』だとかの僕なりの考えを書きました。
ただし、この『動物愛護および管理に関する法律』(動物愛護法)というのはどのような経緯で施行されたのかを、ご存知でしょうか?
(当初は愛護のところが保護でした)
動物愛護に対しての意識の高まり?啓発?
答えは悲しいですし、恥ずべき事だと思うのですが『否』です。
それではどのような経緯かというと、1968年に日本においての犬などの扱いを取材するためにイギリスの大衆紙『ザ・ピープル』の記者が来日して取材したものが、翌年の1969年4月13日付の1面トップ記事になって報道されました。
記事には着物姿の男が棒で犬を殴りつけている衝撃的な写真が添えられていました。
そして、その報道をきっかけに『残酷な国、野蛮な国 日本』という声が高まり、日本製品不買運動のキャンペーンなどが起こりました。
慌てたのは日本政府でしょうね。
その頃の犬は一般には玄関先に繋いでおいて、泥棒除けになり、おまけに残飯を食べてくれて生ゴミを減らしてくれる、『都合のいい道具』という認識が多数を占め、イギリスで報道されたような、野犬処理は撲殺するのがごく普通という感じだったようです。
しかし、イギリスで不買運動が起こり、貿易で外貨を稼ぐのに必死になっていた日本政府は慌てたという事です。
そして『動管法』は1973年に初めて公布され、翌1974年に施行されました。
翌年のエリザベス女王の来日に間に合わせるように
という事は戦後の日本の動物愛護法の歴史は、僕より年月が浅いという事です。
しかも不名誉ですが『外圧』によって………
しかし、この国にはそれまで動物愛護という概念が無かったかというとそうではなく、江戸時代に徳川綱吉が『生類憐れみの令』を制定しましたね。
これは複数のお触れの総称ですが、その後動物愛護という考え方が陥りやすい、典型的なパターンにまで至りましたね。
それはどのような事かというと、『動物の命を!』 という気持ちが強くなりすぎて、視野が狭くなり『人より動物!』となってしまうんですね。
具体例でいくと、当時腕で血を吸っている蚊をペチンとした事で死罪になった人もいるそうです。
こうした落とし穴に嵌った経験を持っているんですから、本来は同じ轍を踏まないようにしなきゃダメだと思うのですが・・・
残念ながらこの国の動物愛護および愛護団体を見ていると、同じ過ちを繰り返しているように感じます。
具体例でいくと野良猫に対しての無節操なエサやり。
それで自分はいい事をしていると思い込んでいますね。
僕は5匹の猫にエサやりをするくらいなら1匹の猫に避妊・去勢を施すほうが意味があると思います。
現在、猫の殺処分数は犬の3倍に迫ろうとしています。
飢えてかわいそうという気持ちは分かるんですが、一番大事なのは殖やさないことだと思います。
公園で野良が痩せてガリガリで……
かわいそうだから、エサをやります。
元気になります。
繁殖します。
たまらず近所の人がセンターに通報します。
捕獲されます。
殺処分されます。
成猫は近所の人が外に出しているだけかもしれませんので、職員は手を出しませんが、目が開いていない幼猫は確実に野良ですから即捕獲、多くのセンターでは即日殺処分です。
↑が負のスパイラルです。(←僕が勝手に言っています)
エサをあげている人は自分はいい事をしているから、人にとやかく言われることはないと思っているんでしょうね。
これが対症療法のみで根治療法ではない典型例ですね。
視野が狭く、俯瞰で物事を見られないということです。
ただし、エサやりが絶対ダメとは思いません。
やるなら周囲の住民に迷惑にならないように時間帯を決めて、その後の掃除もするなどさすがに周囲の住民もガツンと頭ごなしにはならいと思います。(ただし他者に迷惑をかけないは現実的にキツイような)
それプラス去勢・不妊手術を施していくと周囲の目も変わっていくのではないでしょうか。
それでも忘れてはならないのは、地域猫・TNRは問題をはらんでいるのは間違いないと思います。
避妊・虚勢しているので増えるのはストップするでしょう。(全頭一斉が望ましいのでしょうが)
ただし、いくら餌場をつくり餌ををあげて、トイレを用意して「管理」といようが、結局は猫はそこいらを気ままに探検?放浪?縄張り巡回するでしょう。
そのときは一切排泄はしないのでしょうか?
ひとの敷地内にはいらないのでしょうか?
それで管理しているのでしょうか?
といった疑問が
なので僕は大手を振って大賛成!!!
はできないんですよね。
懐疑的になってしまうんですよね……
そこに愛護法で言う飼い主責任はあるのかな? と
あとよく耳にするのが「ペットショップに行ったら売れ残った犬がいて、かわいそうで・・・」というパターン。
これも一見いいことをしているように感じる人もいるかもしれませんし、もちろんその気持ちもわからないわけではないですが、これでは負のスパイラルを断ち切ることには繋がらないと思います。
かわいそうだからとその犬を買っても、結局はその購入資金はショップの新たな仕入れ資金になりますし、繁殖屋を潤す結果になってしまいます。
愛護団体でいくと去年の震災時に思ったことですが、人の安否が定かでない早期の時点でレスキューレスキューと騒いでいましたね。
物事には順序があると思います。
また「救う」「里親仲介」にウエイトがかかりすぎて、里親に引き取られて第二の幸せな人生を送るはずが、里親側の飼育経験の浅さなどで手余しをしてしまってほったらかしにされる、または必要な医療を施されないネグレクトの状態になる。
またはギブアップしてセンターに逆戻りさせて、結局はたらいまわしになる…… などですね。
とにかく収容キャパの都合で手を挙げた人に安易に渡してしまうなど……
もちろんこれがし全てではありませんが、けっして少なくないと思います。
僕の持論ですが「同種同属である人間を慈しめない人が、本当の意味で動物を慈しめない」と思います。
ではでは
↑写真は昭和44年4月24日付けの朝日新聞の夕刊です