お泊まりデイサービス協会の設立総会に行ってきた。(2)前提条件2 | 最新福祉脳!?夢想転生

お泊まりデイサービス協会の設立総会に行ってきた。(2)前提条件2

8月28日、文京区西片で『お泊りデイサービス協会』設立総会があった。

昨日のブログでは、
宅老所
⇒小規模多機能型居宅介護
⇒宅老所
⇒お泊りデイサービス
という、サービス分化について書いた。

高齢者が抱えるニーズを解決するために、事業所は努力をしている。

サービス分化についてもう少し細かく分けると、
⇒小規模多機能型居宅介護A
⇒小規模多機能型居宅介護B
⇒小規模多機能型居宅介護C
⇒小規模多機能型居宅介護D
⇒宅老所A
⇒宅老所B
⇒お泊りデイサービスA
⇒お泊りデイサービスB

ということになろうか。

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小規模多機能型居宅介護は、これら3つの、素人にはよくわからない似たような(!?)サービスの中では、唯一、全ての時間帯を、介護保険法下で行う。

設備基準や人員配置基準などを、法的に満たしている。法治国家の中ではアタリマエなのだが、社会保険適用の要介護状態(社会保険的には保険事故によって要介護状態に陥った)になった方が対象である。要介護状態になり、提供されるべき状態になったときに、いついかなるときも、社会保障に資するサービスを受けられるというのは、国家として非常に豊かで、『社会保障が充実した』状態である。

介護保険法は、この『社会保障に資する』状態を、法律で担保するわけだ。設備基準しかり。人員配置基準しかり。設備等は、介護保険法のほかにも、消防法など、様々な法律で管理され、『安心・安全』の網の目を張り巡らせる。それによって、事故と事件の境目を作る。

こうすることによって、『なるべく事故が起こらないように国民を守る』ことと、『基準を満たさなければ責任は満たさなかった側にある事件である。』とする。法律でたくさんのことを判断することで、大きく、広く、国民の生活を守るのである。(法の最終的な目的は、国民を統治することではなく、国民を幸せにすることであり、最大幸福を目指す)最大幸福を実現するために、フリーではなく、リベラルが必要だ。ということ。なので、規制をすることで、全体の幸せに一直線(ニヒルに笑)である。

設備基準、人員配置基準という一定のルールの下、あとは、企業努力。設備にどれだけ投資できるか?よい人材をいかに発掘・教育できるか?ということ。遵法の中で、いかによいサービスを提供できるのか?というのは、競争原理で、なおかつ、専門職を抱える業界として必要なことである。

そんな一定のルールの中、『24時間365日、ある一定の質(法律で要求するところの)が担保されたサービスが必要な高齢者』を小規模多機能(在宅ケア)で支えるというのは、厚生労働省的には、悲願である。

そこには日本国の事情、いわゆる超高齢社会。多額の社会保障費。人権に関わる反省。(大人数の収容で、選択権が阻害されるなど)を踏まえ、それでも前に進もうと、24時間365日、日本を作ってきた高齢者としての先輩方を、少なくとも社会からこぼれないように、国として支えるという責任感から来るものであろう。

振り返って医療もそう。医学が提供されるためには、条件がある。少なくとも医療が必要な困窮者(おなか、痛い、とかね)は、国が担保した技術を享受できるように、社会保障を敷いている。24時間、365日。時間によっては医療従事者では無いものが、橋の下で、開腹手術を行うなど、国としては許さないのである。

つまり、小規模多機能型居宅介護は、24時間365日、いつ、いかなるときにも、その人にケアが必要になったときに、ケアの専門家がサービスを担保するという仕組みであり、その対象者は、『認知症高齢者』ならびに、『医療依存度が高い高齢者(この場合は、その小規模多機能は看護との複合型施設であるか、もしくは医療と密接な関係を持っていないと社会保障には資さない)』が主である。(ちなみに、後者は医療インフラが充実してる地域か、もしくは医療法人が行うサービスでないと法的な質の担保は成り立たないと考えるのが妥当だろう。)

『認知症高齢者』を対象にした小規模多機能型居宅介護を小規模多機能型居宅介護Aとする。『医療依存度が高い高齢者』を対象にした小規模多機能型居宅介護を小規模多機能型居宅介護Bとする。設備への法的な要求事項は介護保険法を見ればわかるとおり。人員配置についても、同様。なお、小規模多機能型居宅介護の管理者は、厚生労働省が要求する研修である、『認知症介護実践者研修』ならびに、『管理者研修』。開設者は『開設者研修』。計画作成担当者は『介護支援専門員』の研修を受講した上で(受講に伴い、その試験に合格している必要がある)『認知症介護実践者研修』ならびに、『計画作成担当者研修』を受講する義務が発生する。このことからも、『小規模多機能型居宅介護』は、今後さらに増えていくであろう在宅認知症高齢者の基本的人権を守るために国家が選択したサービス(というより、福祉だから、使命とでも呼んだ方がなじむかな?)である。

また、別類型で、公的介護保険サービスが整備されていない地域では(これにはいくつかの理由があるが、人口数や密度が少ないので、経済の原理が働かないため整備されていないような地域が多いように感じられますね)在宅の基本サービスである『通い』『宿泊』『訪問』を『地域の力』で一体的に提供する必要が生じるため、特に『認知症』『医療依存度』に関わらず、全てのサービスを提供するという類型が生じる。もっとも、こちらはいわゆる宅老所の生粋の進化型である。こちらを小規模多機能型居宅介護Cと呼ぶ。

A,B,Cのいずれも、その成り立ちや使命からはずれ、収益を目的として開設されるような事業所が増えだす。これを、小規模多機能型居宅介護Dと呼ぶ。

小規模多機能型居宅介護Dは、平成21年を機に、格段に増加する。
小規模多機能型居宅介護A~Cを目指していた事業所の運営がうまくいかなくなって、集客のために自らが宣言した事業地域から離れた地域から集客をする結果、『訪問のサービスは行いません』などと平気でのたまう事業所(足を踏み外した事業所)。住まいまでも用意して(サービス付き高齢者住宅等)そこから集客をかける事業所(これについては、ADL低下などを理由に、既存コミュニティが崩壊しつつある個人の集合を、そもそもあったコミュニティごと、ひとところに集めるなど、工夫をされている事業所もそれなりに見られるので完全に否定しうるものではないが、その理念なく、全くの他人を集めるようなやり方をするところについては、小規模多機能型居宅介護として大事な概念を飛ばしているので、個人的に、好きではありません。)

やはり、事業として考えると、長い時間をかけると効率化(経済の原理)が進み、大事な理念をすっ飛ばし、理念泣き遵法の姿勢を盾にしてサービスが劣化していくのは、否定できません。法は何のためにあるか?理念があり、それを守るためにあります。法律を守れば、よいというだけではありません。(もっとも、理念もない、遵法の姿勢も無いということであれば、最低ですね)

小規模多機能型居宅介護は、こういった4累計に分けることが出来ると考えています。

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さて、理念なき遵法の姿勢ってのは最悪だといいましたが、
今度は、宅老所について考えてみましょう。

宅老所は、『近所の高齢者が、山の中の施設に入ってしまうと、みんな悲しいよね。それって、本人だけじゃなくて、周りにいる人だって悲しいじゃない。少しくらい体が悪くなっても、一緒にいようよ』なんていう気持ちからはじめられた方が多いと聞きます。やり始める人は雑多で、『もともと、看護師だったけど、私なら本人達に何かあっても、ある程度適切な判断が出来るもの。』であったり、『近所のおせっかいなおばちゃんでも、出来るのよ!だってかわいそうじゃない。私も寂しいし。』であったり、『地元でお茶のみ場を提供していたんだけど、体がよぼよぼになる人に、どうしたらいいだろう?』なんて、発生は様々。でも、皆さん、気持ちは一緒。目の前の『知り合い』にもっとしてあげることは無いだろうか?

客観的に見ると、『既存コミュニティが存在していて、介護保険事業は後から付け加える』というもの。使命は『コミュニティの継続のための原資調達』です。はっきりいって、事業家ではないし、マイナスからのスタートです。でも、よっぽど介護施設よりもよい、なじみの関係性の中で様々な出来事が進んでいて、起業された方と、高齢者の方が一緒にいろいろな事を考えて進んできたことでしょう。その点では、共に生きて、共に成長するということを実践してきたわけですね。

このあたりを事業化してパッケージにしたのが、小規模多機能ですから、事業には『コミュニティの再構築』なんてバイアスがかかります。つまり、既存コミュニティを継続することや、コミュニティを広げることや、新設することが、小規模多機能の使命でもあります。

宅老所も最初は、福祉や医療の専門家から見たら、『トンデモナイ(社会保障として成立し得ない)』サービスだったでしょう。もちろん、今もいくつもの宅老所が『トンデモナイ(社会保障として成立し得ない)』サービスを提供している事でしょう。しかし、宅老所の人たちは、共に生活し、共に成長することで(真摯にサービスを提供している事業所は)、そのノウハウの蓄積により、少なくとも医療・福祉の専門性に近い状況に行き着いたり、時には新しいメソッドを提供したわけです。これを宅老所Aと呼びましょう。

既存コミュニティの中に、高齢者の生活を社会保障に資するように支える専門家は、保健師であったり、社会福祉士であったり、介護福祉士であったり、医師であったり、時には法律家なども必要かもしれません。また、その連携であるわけです。それらが地域の人的インフラとして参画してくれれば儲けものです。そうでない場合、責任をもって起業した人間が学んだり、他の人から必要な知識などを学ばなくてはなりませんね。法的な要求事項は低いわけですから、それを出来る人間で無いといけないんですけど、なかなか、理念がしっかりされていて四六時中、一生やり続ける気概がないと出来ませんね。その宅老所のトップが、自分を律してやらなくてはならない。きちんと出来ている宅老所の方のお話を伺っていると、等しく、そういった社会性が強く、魅力的に映ります。これは、宅老所を行うにあたり、必要な条件でしょう。

社会保障的には、
『理念ある違法(もしくは脱法)サービス』なわけです。
『理念ある遵法サービス』にするためには、どうしても、
社会的に能力が担保された状態の人がいるということを、
証明しなくてはならないわけです。

んで、そのような宅老所Aを見て、『いいね!』と思うわけです。アタリマエですね。既存コミュニティの中で、ゆっくりと利用者と進みながら数年。(おそらく、宅老所がよい宅老所になるためには、多様なケースが必要ですから、要介護状態の方が亡くなっていくまでの8年間くらいをひとつのサイクルとして、円熟味を増すまでに(きちんとした看取りまで行うことが出来るようになるまで)、15年ほど(2周ほど)かかるでしょうね。歴史は長いですけど、目に見えるものは今の現実です。素人からはじめた宅老所を素人が見て、『私にも、今の品質を提供することが出来る』なんて、勘違いしちゃうんですね。もちろん、宅老所の業界団体なんかは、15年ほどかけて獲得したノウハウを提供することで、15年の歳月を5年くらいに短縮するような努力をなされているのも知っています。しかし、やはり、事業所として高齢者の生活がサイクルするのは8年ほどだと思うんですね。現実に体感しないと、わからないものってたくさんあるじゃないですか。よく言う話しですけど、どんな専門家でも、ようやく専門家になったな。と思えるんって、並大抵の努力以上を続けて8年~10年で少し自分が納得するってね。

すると、なんとなく、よさそうな、中身のない宅老所と呼ばれるような、事業所が出来上がるわけです。これを宅老所Bと呼びます。もちろん、努力を続けて、宅老所Aになることはあるでしょう。でも、BからAになるための必要な条件は、先ほど申し上げたとおり、既存コミュニティの中で生活をしていて、そのコミュニティを継続させたいと思っていること。です。どうして、なかなか、宅老所をやろうとする若い人でその要件を満たすには、その人に地盤が必要ですね。よっぽどこのコミュニティの中で幼少期からなじんでいないと厳しいでしょうね。もしくは、一生、そこで暮らし続けるくらいの気概がないとなかなか難しいと思います。

閉鎖的な集落や、離島などで事業を行う場合も、『よそ者』と言われ、関係性をつかむまでに5年から10年くらいはかかるでしょう。共に生活をするためには、共に生活をし続けるという安心感ですかね。逃げないという信頼関係が必要かと思われます。

これらの要件を考えると、基本的には、『宅老所は事業展開をしない』というのが、前提条件になります。なぜなら、宅老所と呼ぶのは、既存コミュニティありきだから、別のコミュニティをどうにかするという使命をそもそも持たないからです。(逆に言うと、あまり広範囲で展開していて、ご自分で『宅老所』と言っているのは、詐欺みたいなものですね。これを宅老所Cとでも呼びましょうか。

他に、宅老所と言っている、ホスピスのような場所もあります。宗教法人なども、このあたりに手をつけているようですね。宗教法人なんかは、既存コミュニティを、地域ではなく、教会・寺などの拠点に持っていますから、そういった意味では展開しやすいと思います。『地域』だけにコミュニティがあるのではなく、『拠点』にもコミュニティは存在しますね。もちろん、現実的(直接支援(手を差し伸べる)が出来る)コミュニティの話しです。(最も私たちは、WEB上に精神的な支援をしてくれるコミュニティなどを、獲得したわけで、人類のコミュニティ発生学的には、非常に大きな進化を遂げていますから、WEBで精神的な支援をする宅老所などが出てくるかもしれませんね)

でも、脱法でもいいんですね。介護保険法は、日本全国の法律です。宅老所は地域のサービスです。地域の人たちの同意が圧倒的にあればいいんです。その代わり、『全国で統一の介護保険法では給付がなされない』ってだけです。なので、比較的制度設計としては緩やかな、『通所介護』だけを採用し、継続可能な資金状態に近づけるようにし、後は自費事業をするわけです。

厚生労働省がこれについて不問であるのは、『地域コミュニティの中で出来ているサービスで、なおかつ保険者である地方自治体や、その地域住人が納得している、地域住人が作り出したサービス』だからです。ここに、シビアな遵法の姿勢を取り入れることで、よいサービスを阻害してしまう可能性が高いので、『理念ある脱法』には目をつぶるという、『慈悲サービス』なわけです。したがって、何を勘違いしているのか、わかりませんが、『宅老所B』の方たちは、『自分達はアングラ介護である。』という旗印を掲げ、大宣伝をしているわけです。(そもそも、その活動自体が、よりいっそう、事態を複雑にするわけですから、社会的にはよくない選択だったと考えています。)

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んで、第3の矢である、
『お泊りデイサービス』

介護保険の構想があったいわゆるゴールドプランの時代。
まだまだ、日本は裕福で、高齢者人口比率もたいしたことがなかった。
裕福な状況が続くものだと仮定して、高齢者人口があがると考えたときに、
介護保険法はある程度効果を発揮したと思われます。
体の動きが悪くなりかけた
高齢者は、家で生活し、
労働人口に当たる旦那さんは働いて相応の収入を得て、
奥さんは高齢者の身の回りの世話などをしながら、
家庭を守る。

このロジックが成立するのは、
2~3世帯の継続。
等しく出生率が維持される。
女性の社会参加が緩やかである。
経済は成長を続ける。

だったはずです。

豊かになると、世帯分離が始まります。

そこにバブルの崩壊。
都市部では大打撃でした。

コンクリートを増やして経済をまわそうとしますが、
都会は高層マンションだらけ。
核家族化が進みます。

世帯収入を上げないと、だんなの給料だけでは生活できなくなるので、
女性は自立していきます。晩婚が進み、出生率は低下します。

それでも経済が成長の一途を遂げるってのは、なかなか難しいことです。

つまり、想像していた生活のあり方が、『想定外』となります。もちろん、この想定外というのは、皮肉を込めています。よっぽど優秀な人材が集まる霞ヶ関で、この事態を予測していたのは大多数の人たちでしょう。楽観主義なのか、主体性がないのか、大多数が考えていても、すばやい決断、実行がなされないまま、時代が進んでいきます。まあ、役人も、息継ぎの出来ないクロールをずっと続けているような、時代に追っかけれらるのを逃げながら奮闘していたと思われます。

そんな中、介護保険以降に産声を上げるのが、『お泊りデイサービス』です。介護保険以前から、民家を改修した場所に、介護保険の設備基準を満たさないで自費事業で『お泊り会』のような形で宿泊する形態は、前述のとおり『宅老所』が実践をしていましたから、『お泊りデイサービス』という形態は、オリジナルのものではありません。

何故、『お泊りデイサービス』が出来たのか。

バブルの崩壊から核家族化。
世帯収入の低下による、ダブルインカム。
少子高齢化問題が予測をはるかに上回った。

認知症高齢者の増加に伴う、要介護認定者が予測をはるかに上回った。
このような背景から、『従前であれば施設入所(もしくは社会的入院)をしていた要介護状態の重篤な方たち』は、居宅で生活を続ける(本人のニーズに拠らず、そうせざるを得ない社会的な背景)事となった。

おそらく、厚生労働省の予想よりも在宅介護は大変さを増し、介護が必要な世帯への負担も、先の状況から雪だるま式に増えていったのです。すると、在宅介護を行っているご家族は、『仕事に疲れ、介護に疲れ、生活における支出も多くなる。』という状況が生まれます。特別養護老人ホームも既に43万人が待機しており、ショートステイも満足に利用できない(東京では6ヶ月ほどショートステイを待つ状態)。富裕層は有料老人ホームに、バカ高いお金を支払って入所します。特に有料老人ホームバブル期は、トンデモナイ入所一時金を徴収していたわけです。足元を見ていたわけですね。そのトンデモナイ一時金を払わせるためには、それなりの品質のサービスを提供する必要がある。豪華絢爛、ホテルのようなサービスを提供するような有料老人ホームが出来上がります。もう既に、社会保障からぶっぱずれたサービスですね。完全に、自費サービスにすればいいのにとも思います。(そういった意味では、有料老人ホームに、ケアを改善するようなスペシャリストが発生しにくい環境にあると思っています。実際に、有料老人ホーム出身のケアのスペシャリストって聞いたことがないでしょ?つまり、ケアの濃度ってのが違うわけですね。『有する能力に応じて可能な限り自立した日常生活を営む』ってのと、相反する不相応なサービスが提供される可能性がありますからね。)

既存サービスである『宅老所』の仕組みが介護保険で認められるのであれば、その仕組みを使って、『デイサービス』に『自費事業のお泊り』を加え、在宅介護の大変さを緩和する(レスパイト)を中心にサービスを展開するという発想である。(この発想は、『通所介護』の目的である『機能訓練』と『レスパイト』にあたるので、『理念のある遵法+脱法』である。)施設待機者が43万人もいる状況の中で、コンクリートの箱物を作っていく事よりも、既存の建物を利用して社会問題を解決していくというアクションは、よっぽど既得権が発生する大型の介護保険施設や有料老人ホームをたくさん作るという発想よりもリーズナブルで、無駄を省いたなかなか見事な発想だと思う。

『宅老所A』が、目の前にいる利用者を、既存コミュニティの中で、支えるサービスということで使命を果たしているならば、『お泊りデイサービス』は、43万人もの施設入所待機者を抱える日本の介護家族のための『レスパイトの場』としての使命を持っている。これは第一義である。例え、事業者側が、『地域包括ケア』や『認知症ケア』を叫ぼうとも(もちろんそれは、宅老所同様に)である。

考えると、
『認知症高齢者等が地域で暮らし続けるため』に整備された、小規模多機能。
『近所の高齢者を近所の人が支えるため』に出来た宅老所。
『施設待機者を(虐待も含め)保護することで、家族の環境をよくするため』に出来たお泊りデイサービス。
そういった構図が見える。

どれも共通事項が多いため、相互に効果は重複するところがあるが、
少なくとも制度設計ならびに、サービスを作る側の出発点はそこである。

すると、結果、施設待機者を減らすことが出来る『お泊りデイサービス』には、社会的(もしくは創業者が狙った社会問題を解決する)価値があり、そうではない『お泊りデイサービス』には、社会的価値が少ないと考える。すなわち、『お泊りデイサービス』として、茶話本舗が行っている事業展開については、賛否両論あれども、『施設入所待機者の避難場所や、家族のレスパイト』に焦点を当てるならば、大きな価値があるということになる。これを、『お泊りデイサービスA』とする。

『お泊りデイサービス』自体は、自分の近所の高齢者を近所の人がみるといった、宅老所Aのような縛りはなく、また、小規模多機能型居宅介護のような、厚生労働省による法的な人材の縛りはない。したがって、ここは事業者の善意に任さざるを得ない状況である。非常に危険なことに、宅老所B同様に、レベルの低すぎる(社会保障に資さない)サービスについて、監視機能を持たないため、質の格差が非常に大きい。

いわゆる、隣組のような、地域で生きてきた人間がおかしなことをしないように監視を行うという自浄機能が発生しにくいがゆえに、宅老所Aのように、『おかしなケアをしない(何故ならその土地で生きていけなくなるから)』というバイアスはかかりにくい。したがって、おかしなケアを行う事業所が監視機能もないまま乱立する。これをお泊りデイサービスBと呼ぶ。

・・・もちろん、サービスの質の監視機能は、ケアマネジャーではない。ケアマネジャーは、ケアのマネジメントをするところである。

もちろん、デイサービス(通所介護)としての介護保険事業所申請はなされているのだから、通所介護事業所としての法遵守はしなくてはならない。これは、宅老所も同じである。監視機能は都道府県ならびに、保険者が担う。

法的には、宅老所も、お泊りデイサービスも、『24時間365日、安全で安心な生活を担保する』ということを定義されている事業ではない。

例えば、(わかった上で)建築基準に満たないビルに入居するようなもので、何か地震があったときに耐震基準を満たしていなくても文句は言えない。もちろん、わからない状態というのは、いわゆる『不実の告知』ということで、事業としては真摯ではない。

たくさんの問題がある中、
『お泊りデイサービス協会』は、茶話本舗の藤田会長ならびに、斉藤副社長の宣言から始まったのである。彼らが宣言するのは、設備基準、人員基準の標準化であり、原則、東京都、大阪府等が公布している、お泊りデイサービスの自主基準を満たすように、協会員は努力をするということ。ならびに、協会で自主基準を検討することであった。

国が国家として(もちろん、介護福祉士等国家資格というのがあるのだから、質の担保は、国家として必要な事業であるため)質を管理するために、
『宅老所』と『通所介護』と『お泊りデイサービス』
という3累計を作るには、
『宅老所』を定義しなければならないし、
『お泊りデイサービス』を定義しなければならない。

つまり、お泊りデイサービスの制度化は、間違いなく、
『宅老所A』と『宅老所B』を振り分け、
『お泊りデイサービスA』と『お泊りデイサービスB』を振り分けるのである。

お泊りデイサービス協会が今後進むもの。
質の担保への事業所同士の(健全な)戦いが進むと共に、
AとBの社会的な振り分けが始まるのである。

続きは、次回。

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※※私は、各事業者団体に喧嘩を売っているわけではなく、
事実を基に、自分の見解を示しているだけだということを、
先に書いておきます。
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