今年もよろしくお願いいたします。

 

毎年恒例となっております、父による干支の書。

ここのところゴールドの入った色紙を使っています。

お花は面倒なのでお花屋さんでアレンジメントを買うのが恒例となりました。

 

 

 

さて。コメントもいただき、ほかにも心配してくださった方もいらっしゃるかもしれません。今回の「令和6年能登半島地震」についてです。

地震や津波に関してトラウマのある方はここから先、読むのを控えられるのをお勧めします。そしてとっても長文です。(約3000字、自分でもびっくり)

 

 

いつもこのブログを読んでくださっている方にはお馴染みかと思いますが、私と夫は二人とも富山県の出身です。昨年末に帰省し、昨年内のうちに神奈川に戻ってきました。まさかその翌々日にあのような大災害が起ころうとは。

 

私の実家は富山県黒部市というところで、海も近く山も近い、、、いや富山ってもともとそういう所なんですが。中でも私の実家は海岸線から400mほどの距離にあり、少し大きな道路を渡りますが歩いて5分ほどで海に出ます。

 

仕事が休みの時は海岸に沿って防波堤を歩いて運動(?)していました。ここまで行って帰ればちょうど1時間、というポイントがあって。さすがに冬は寒いし雪が降るし強風が吹き荒れる日本海なので春〜秋限定です。

 

 

1月1日午後4時過ぎ、最初の地震(能登で震度5強)があった時に「うわ、けっこう大きいな」と思いつつテレビを見ていたら4分後に震度7。そしてこの時は私がいる横浜市でも揺れを感じました。ハンガーがカタカタ揺れていました。

富山市で震度5強、黒部市では震度5弱だったようです。

 

東日本大震災の時は富山にいましたが、富山でも揺れを感じました(震度3くらい?)。震源地が東北と聞いて「こんなに離れているのに?」と信じられなかったのを覚えています。この時の記憶から、「この揺れは石川のやつだ」と確信。

緊急地震速報も出ていましたが、どっちが先だったかもう記憶が曖昧です。

というかこの後、何度も緊急地震速報が出ましたね。

 

そして津波警報波。もともと富山は地震の少ないところで、過去には石川、新潟、長野と近県で大きな地震があったものの、大きな影響は受けていなかった地域でした。なので地震など災害に対する備えは?というと希薄と言ってもいいかもしれません。

 

そうこうしているうちに能登は大津波警報に切り替わり、これはただ事ではないと思いました。

まさか、実家のそばまで津波がやってくるとは考えたくないですが、東日本大震災の時のことを考えるととても油断はできません。加えて実家のすぐ横には川(というか用水路というか)があります。これも東日本大震災の時の、川を逆流してきた津波を思い出し、すぐに実家で両親と住む妹にLINE。せめて2階にいてくれと思ったのですが、なかなか既読にならずドキドキしました。

 

その後「避難してる」とだけ入り、どこに向かっているんだろう?と気になりました。実家近くの高台というと最近国道バイパスに格上げされた陸橋くらいです。海岸から離れた街なかのショッピングセンターでもいいんじゃないかと思いましたが、海沿いに住む人は皆、山の方にある運動公園を目指したことがあとで分かるのです。当然、大渋滞だったようです。

 

避難中に、この運動公園近くに住む母の兄家族から「うちに来なさい」と連絡があったそうで、親戚宅に避難したと連絡があった時は本当にホッとして力が抜ける思いでした。

 

あとで母に聞いた話では、地震の後に「津波警報が出ました。高台に逃げてください」という放送が繰り返し流れていたこともあって避難を決めたとのこと。自治体の呼びかけは大事ですね。

 

結果的に、実家近辺どころか富山でも新潟に近いエリアでは津波は来なかったので津波の被害もなく、家も大丈夫だったようです。

やはりすぐには現地の情報が分からないので、避難して無事と分かるまでは生きた心地がしませんでした。映像で見た東日本大震災の津波が何度も頭をよぎり、最悪、一度に実家の家族を失うかもしれないとも思いました。

 

そうならずに済んで良かったのですが、日々伝えられる能登の悲惨な状況に言葉を失うばかりです。私は能登方面には行ったことがないのですが、学生時代は石川県金沢市に住んでいたので馴染みのあるところです。

石川出身の同級生も多かったのですが、能登出身の人は1人を除き全員地元に戻らないで就職しました。過疎化が進むわけです

 

石川県内に残った人も大丈夫なのかどうか気になっていますが、ほとんどが年賀状のやりとりだけの関係になってしまっており、無闇に安否を確認するのは控えようと思い、連絡していません。どうか無事でいて。

仲が良かった人にはもう少ししてから連絡してみようかな、と思いつつ携帯の番号が変わっていたらアウトですね滝汗

 

 

ちょっと息抜き。

最後にもう一つナンダカナと思ったことがあったので、それを記して終わりにします。

 

 

先日帰省した際に、富山の自宅(と言うとすごく感じますが、実際には夫の実家の離れです。結婚当初住んでいた場所で、帰省時はそこに寝泊まりしています)から持ち帰ってきた額ひとつ。

 

私のファーストネームでショップ屋号の由来でもある「縁」。

これは書家をしている父が初めて個展を開いた時に書いたもので、個展が終わった後にいただきました。私だけでなく、家族全員の名前を一字ずつ書いたんです。

自分がこの時の父の年齢に近づいていてびっくりですびっくり

 

昨夏もらってきた「健康第一だ」と並べて。ほかにも置いてきた額があるのですが、並べて飾ってもいいかもしれない?

 

 

 

 

 

 
で、最後にひとつ愚痴らせてください。
今回の地震の後、1/3になってからですが、関東在住の学生時代の同級生からLINEが届きました。そもそもLINE自体、8年ぶりに届いたんですよ。年賀状は毎年だけれども。
 
学生時代の同級生ということは彼女も石川で過ごしたことがあるいわば同士です。
その人から届いたのは「実家は大丈夫だった?」という内容でした。
ちょうどお昼時でしたが、心配してくれたことに御礼を伝えるとともに、実家は津波警報のエリアだったので家族は一時避難したけど無事だったと、なるべく簡潔に伝えました。
 
ところが、ずっと既読にならないのです。
忙しい時だったのか、家族で出かけているのか、等々思いましたが「いや急いで返信した私はなに?」って思ってしまいまして。
もう返信したことも忘れかけた7時間半後。ようやく何か届いたのです、ピコン(通知音)って。
 
でもプレビューに違和感があったので何だろ、と思いLINEを開いてみたら。
「がんばって」
というスタンプ1個です。正直「えっ???」と思って固まりました。
 
いやいや実家は何も被害なかったって言ってるやん。
私は今、神奈川にいるって知ってるよね?
何をどう頑張るん?
 
こんな感じのことが頭をぐるぐる。

学生時代はこんな人ではなかったと思うんだけどな、そういえば10年ほど前にもちょっと違和感ある対応されたことあったな、とすごくすごく残念な気持ちになりましたショボーン

 

最後の最後に愚痴ってすみません。

 

能登半島で起きた地震と言えば2007年の3月にも2007年(平成19年) 能登半島地震というのがありました。被害の詳細についてはリンク先にありますので、関心のある方はご覧ください。

 

この時と比べても被害の規模が違いすぎます。

今回被害に遭われた方々が一日も早く日常を取り戻せるように、困難な状況から脱することができるように祈るばかりです。

 

自分の備忘録としても書いておきます。

長文お読みいただき、ありがとうございました。