【川崎F】市民クラブへの道 | がんばれ少年・少女サッカー!

【川崎F】市民クラブへの道

武田信平、株式会社川崎フロンターレの代表取締役社長である。


彼は2000年J1から降格し前社長(松本育夫氏)と強化部長(小浜氏)の確執がメディアに取り沙汰され、フロントを一新しJ1再昇格を目指す2001年に富士通スポーツマネージメント(現株式会社川崎フロンターレ)に運営母体である富士通(株)から出向して来た。
強化部長には武田氏サッカー部時代の後輩である福家三男氏を同じく富士通(株)から招いた。
彼らはJSL(日本サッカーリーグ)に所属していた富士通サッカー部でプレーし引退後は社業に専念しJリーグとは無縁の生活を送っていた。
特に強化部長の福家三男は同期のエリート社員に追いつく為に日夜仕事に励み生活の中から意識的にサッカーを遠ざける生活をしていたらしい。


前任者の色々な経緯でチームを任された彼らが一番最初に出たのは川崎市の街であった。
運営担当と同行し市内の商店街、商工会議所青年部に所属するサポーターなどに今後の川崎フロンターレのあり方を素直に聞いて回った。
そして市内で行われるイベント(区民祭、商店街祭り)には主力選手を参加させ、表に出ない場所でその様子を見守っていた。

時には小学生と父兄しか集まっていない小さなイベントで頭を下げスタジアム来場をお願いする姿を良く見かけた。
アウェーの試合もチームとは別に電車やバスを乗り継ぎ会場に来場し応援に駆けつけたサポーターに感謝の声を掛ける武田信平の姿もあった。


そして武田信平は自分で街を歩いて感じた物をまとめ、富士通(株)役員会で発表する。


まずチーム法人から富士通の名前を消し、将来的にユニホームスポンサーを降りてもらう。
チーム株主も現状の富士通グループ100%出資を引き下げ他の株主を増やして行く。


この内容には富士通役員会から大反発を招き、武田信平の将来(富士通での立場)を揺るがす物であったが一歩も引くこと無く役員の説得に当たった。


それは、日頃から彼や運営が街で感じた人々の反応が大きな理由となっている。
今までは先輩であるヴェルディ川崎に追いつけ追い越せで頑張っていた部分、そして先人が辿った道が参考となった運営であった。
しかし、ヴェルディが東京移転を発表した後も川崎フロンターレは見えないライバルと戦っていた。
それは川崎市内に本社、工場、物流センターが多く点在する富士通のライバル会社の精密機械メーカーだった。
東芝、NEC、沖電気、IBMに勤務、関連企業に勤務する市民が多い川崎市内ではフロンターレ=富士通のイメージが強く『うちの主人は東芝だから』『息子がNECに就職したから』との理由から招待券すら受け取ってもらえず、商店街でも『うちは東芝さんの社員が良く来るから』と試合告知のポスターすら貼らせて貰えない状態であった。
この事により社長武田信平が脱富士通、市民クラブの道へ大きく舵を取ることになる。
そして、各地の商店街や市民に対してはサポーターの協力を得て個人の人脈による開拓が始まった。


大反対だった富士通役員会に対し武田信平は、これまでのチームに対する富士通のバックアップに対し感謝の意を述べ『富士通はJリーグの理念に賛同して川崎フロンターレを発足したんですよね?』『そのJリーグの理念に賛同したのであれば富士通の広告塔では無い市民クラブ運営を認めて下さい』と説き伏せた。


そして川崎フロンターレの将来に対してユニホームの胸、背中、袖、パンツに東芝、NEC、OKI、IBMなどの富士通のライバル会社が出資してくれるようなチームにしたいと語った。


時にはサポーターから『クラブはサポーターに頼り過ぎる』と不満が出る時もあるが、それだけサポーター、市民がクラブと密接してきた証拠であり、富士通のサッカー部から市民クラブに移行している証である。


私が初めて観戦した97年の試合での観客数は2821人だった。
9年が経ち最終節G大阪戦では23113人(今期最高24332人)が応援する市民クラブに変貌を遂げた。
地元に根付いた活動のお陰で、観客が増えたが逆にクラブとサポーターの関係は密接になった。
これは武田信平を始めとする自転車で市内商店街に顔出しを続ける運営グループの努力の証である。


2003年勝点1で昇格を逃し涙をこらえるGゾーンサポーター(応援ゾーン)より前に号泣し、言葉にならない声でサポーターに謝罪する一面、マッチデーカードを選手と共に自分のカードを制作し嬉しそうに眺める姿、駄洒落好きで新潟戦、大宮戦前にオレンジジュースを飲んで加糖(勝とう)と言ってスタッフを盛り上げて見たりと、端から見ると決して社長らしくない武田信平ではあるが残した功績は本当の社長だと自信を持って言える。


そして彼の将来の富士通マンキャリアを投げ打っての改革に対し、私は惜しみない協力でお返しをしたい。
そして等々力競技場には、そんな気持ちのサポーターが多数いると私は確信する。