移転後にファンとなった方だと思うが、ファイターズのことを「『(東京ホーム時代は)万年Bクラス』『(東京ホーム時代は)パ・リーグのお荷物』と呼ばれていた」と大きく誤解されている方が多い。


また、「(東京ホーム時代は)観客動員が伸びず、ずっとガラガラだった」と語っている方も多い。


私の知りうる限りであるが、移転前にそのようなことをファイターズが呼ばれたことは一度もない。


北海道日本ハムファイターズ 年度別成績 (1946-2008)
http://bis.npb.or.jp/teams/yearly_f.html


日拓ホーム株式会社から日本ハム株式会社へ売却され、フライヤーズからファイターズへクラブ名称が変更された1974年以降、単純な年度成績を確認しただけで、5年以上連続でBクラスだったことはない。


ここ30年間における10年単位の低迷期があったマリーンズ(オリオンズ)・ホークス・ブルウェーブ(バファローズ)から考えても、最低でも4年に1度はAクラスを経験していることになり、Bクラスとなった1986年はゴールデンウィークまでは首位を独走し、1997年は夏場までは優勝争いを繰り広げていた。


私がファンとなったのは1977年辺りであるが、少なくとも知るうる限りでは「万年Bクラス」「パ・リーグのお荷物」と呼ばれたことはない。


球団別入場者数
http://www.d7.dion.ne.jp/~xmot/kankyaku.htm


営業面でもファイターズは少年ファイターズ会という当時は画期的な組織を作り上げており、低価格の会費からは想像もつかない豪華な特典で1977年には観客動員数100万人をパ・リーグで初めて超えており、ライオンズが西武グループに売却されるまでの間であるが、リーグトップを守り続けた。


云わば黒い霧事件や1リーグ化構想で斜陽産業と化したパ・リーグをリードしたのがファイターズであったのだ。

元々後楽園球場は収容人数が少なかったこともあるが、年に数回の少年ファイターズ会を対象とした親子招待日の混雑は相当であり、アルプススタンドにファンクラブの特典であったお揃いの帽子とジャンパーを付けた子供たちでスタンドは溢れかえっていた。


1988年東京ドームでは現在も破られていない245万人という観客動員を記録している。


当時は現在と異なり、実数発表ではないが、東京ドームの年間シートはジャイアンツを補う形で販売され、週末の試合では外野席のチケットが売り切れることがあった。
また、修学旅行生も連日に訪れており、賑わいを魅せていたことは確かなのである。


「(東京ホーム時代は)観客動員が伸びず、ずっとガラガラだった」と呼ばれていたこともなく、数値上でも有り得ないことである。


何故、このような誤解をされる方が多くいるのだろうか?


単純にファイターズの歴史・文化を球団が何も教えていないである。
それに追随して地元メディアも何も真実を伝えていないのだろう。


「南京大虐殺で中国人は何十万人も殺された」「アンネの日記は贋作である」等と歴史修正主義者が語ることと同じように歴史を修正しないと困る方々がファイターズの周囲を取り込んでいることなのだろう。


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