今夜は、たまに散歩ネタでもと思います。
笹子隧道を見学した後、再び峠道に入り山を下り始めました。
前方に見えるのは茶臼山あたりでしょうか?
昔、甘酒を売っていたんでしょうね。
峠を登って来て、冷え切った体にさぞかし甘酒が美味しかったでしょう。
雪は相変わらず深く歩くのも大変でした。
笹子側から非常に良く見かけたのは石積みの砂防ダムです。
コンクリートの砂防ダムは良く見かけますが石積みはなかなか見かけません。
笹子側は、殆ど石積みの砂防ダムでした。
それもかなりの数見かけました。
水抜きも綺麗に仕上がってます。
今度は、桃の木茶屋跡がありました。
ここも、お茶屋さんで旅の人がひと休みする場所だったのでしょうね。
もう少しで旧大和村です。
集落に入ると集落排水 ?のマンホールの蓋が道路に見えて来ました。
歩鉄の達人さんもこのマンホールの写真はキープしているかな?なんて思いながら歩き続けました。
大和村は現在、甲州市となっているので蓋の交換を行ったらデザインも変わるでしょうね。
日影の集落あたりだったと思います。
脇本陣跡がありました。
※脇本陣(わきほんじん)とは、本陣の予備的施設で、大な藩で本陣だけで泊まりきれない場合や、宿場で藩同士が鉢合わせになった場合の格式の低いほうの藩の宿として利用されるなど、本陣に差し支えが生じた場合に利用されたすです。
それ以外の時は一般旅客の宿泊にも供し、規模は本陣よりも小さいが、諸式はすべて本陣に準じ、上段の間などもあり、本陣と同じく宿場の有力者が勤めたとの事。
さらにこの周辺は駒飼宿と言い日本橋から数えて34番目の宿場です。
山あいの小さな集落ですが、背後に甲州街道有数の難所・笹子峠を控えていました。
馬の放牧が多いことからこの宿場名がついたと言われています。
時代を感じさせる建物が所々に残っていました。
藁葺き屋根は現在はトタン屋根に姿を変えています。
中央道を走っている時に笹子トンネルを抜けていつもほっとする地点に今日は徒歩で訪れてます。
小仏、談合坂、笹子トンネルと抜け甲府盆地が目に飛び込んで来る地点ですね。
国道20号に出る手前で鶴瀬関所跡を発見。
甲州12関のひとつ、この関は「鶴瀬の口留番所」と言われ、主に物資の流通の警戒と、「入鉄砲に出女」を取り締まったところです。
国道20号に出て勝沼方面に歩いているととんでも無いものを発見。
長垣の吊り橋です。
今は通行不可で出入り口は閉ざされていた。ぶどう畑の上を日川をこえ横吹と長垣を結ぶこの橋は、重要な通行路として長い間使われたらしいが、現在はごらんのとおりです。
渡ろうとするものならば腐った板を踏み抜いて数十メートルしたの日川に真っ逆さまに落ちて行くでしょう。
下を見ただけでむずむずしました。
長垣橋からブドウ畑の中にある小道を歩く事にしました。
ぶどうの実をつけているときはいい香りがするんでしょうね。
途中、ブドウ畑の横に一里塚跡を発見。
一里塚(いちりづか)とは、大きな道路の側に1里毎に旅行者の目印として設置した塚(土盛り)です。
一里塚の築造は、慶長九(1604)年将軍秀忠が一里塚の制を定め、大久保長安が監督してはじめられました。塚は五間四方(9メートル四方)の大きさで築かれ、その上に一本ないし数本のエノキ、ケヤキ、松、モミなどの木が植えられていました。木は目印としてだけでなく休憩所としてもよい役目を果たしました。この塚に植えられていた木はモミかカヤだったようです。
そして、一つの目的地であった勝沼堰堤に到着しました。
勝沼堰堤については後日、記事にしたいと思います。
勝沼堰のすぐ近くには東京電力柏尾変電所があります。
再び、国道20号に出てひたすら勝沼ぶどうの郷駅を目指します。
やがて、ぶどう寺大善寺が右手に見えました。
ここの本堂薬師堂は国宝に指定されていますが、もう立ち寄る気力も無くいずれ機会があればと思い通り過ごしました。
少し残念でした。
大善寺をすぎて柏尾交差点を右に山梨県道38号塩山勝沼線を進みます。
前方左手に見えるのが勝沼バイパスです。
すぐ近くには中央道勝沼IC出口もあります。
ここからぶどう園やシャトー勝沼やワインショップなどが山の斜面に点在するのを見ながら駅までてくてくと歩きやがて勝沼ぶどうの郷駅に到着しました。
ここまでの道程の長かったこと・・・・・。
2日目の今日も疲れから来る微熱が出ています。
無理は禁物ですね。
勝沼ぶどうの郷駅です。
ここでは、大日影トンネルや菱山道路隧道、旧ホーム跡・EF6418などを見学しました。
これも後日に、記事にしたいと思います。
かなり長い記事になりました。
かなり記憶が曖昧になってますが。
間違っている所があればご勘弁を^^;