歴史認識
歴史観というのは何だろう。
正しい歴史観などというのはあるのだろうか。国の数・民族の数・人間の数ほど多くの歴史に関する考えがあるのではないか。
戦前日本には皇国史観というものがあった。水戸光圀が始めた「大日本史」の編纂が原点だ。(水戸光圀の時代から始まって明治39年に完成した)大日本史を編纂するために水戸藩は疲弊したそうだ。この歴史書が出来上がったのは明治になってからである。
大日本史で主張された、皇室を中心とする尊王思想は江戸幕府の統制下の社会に大きな影響を及ぼしている。明治維新の原動力は尊王思想は水戸学である。
それよりもだいぶ遅れて出てきたのが、共産党宣言(1848年)資本論による労働価値説などの強固な思想それを裏付ける論理としての弁証法的唯物論・唯物史観などの共産主義の理論である。それに対する明快な理論はない様だ。しかし実は、あるのだが誰も知らないのが問題である。(勝共理論・授受作用法則・摂理史観)
唯物共産主義に対抗できるのは神主義のみだろう。(心情主義)
聖書・コーランの考えでは、宇宙は神が創造して経綸しようとしたがその中心に置いた神の似姿であるはずの人間アダム・エバの不信(堕落)によって神の当初の目的は達成されず、いずれの日か救済者・審判者を送るという神の摂理歴史観である。審判の後、善人は救われ悪人は地獄へ落ちるというのである。
仏教でも多くの寺院に極楽・地獄の絵図がある。地獄の恐ろしさと極楽の楽しさを民衆に教える絵図だ。それは正しく生きよという教訓である。
これに対してもう一つは、人間は自然発生してアメーバ―からサルに進化し猿人から高等動物となり、人間に進化して様々な生活・生産活動をするようになった。その間生産手段を支配するものが支配者となり君臨してきた。という考えである。
人類歴史に関する考察が試みられており、多様な歴史観が存在する。
列挙してみると、
循環史観(運命史観)ギリシャ時代
摂理史観 キリスト教=神の摂理による人間の究極的救済だ
進歩史観 近代文明の中で人間は変化し行く。
革命史観 唯物共産主義を推進=生産手段を所有する資本家が労働者を搾取して利潤を蓄えるという論理。
生の哲学史観 人間性の生き方から始まった思想、人間はいろいろだ生き方もいろいろだそれでいいのだという考えだろう。
文化史観 人間の文化が生み出す時代の変化の背景は宗教の変遷による宗教と文化歴史は密接なかかわりがある。
皇国史観 水戸学
中華史観 中国が世界の中心
昔のことを考えよう。日本には皇国史観もあった皇国日本が世界の中心となって八紘一宇の平和世界を実現するというものであった。
中国には古来易姓革命史観がある。皇帝としてふさわしくない者が現れると新しい姓の皇帝が立つという考え方だ
数限りない歴史観があるのだがどれが本当なのだろうか。
では、どれが本物なのか