Aloha アロハ の力 | 幸せの「いのちの光」輝やかせ☆彡

幸せの「いのちの光」輝やかせ☆彡

大宇宙・大自然が好き!いのちの光が輝くために・・・
すべての存在は 人も動植物も 鉱物でも
響き合って 生かし生かされているんだね!
自然の波動バランスが崩れつつある 今  大切にしよう!

Chihiro Sato-Schuh さまのFB投稿から転載しました

2024 03 13

 

【Aloha 

  緩んでゆだねるのが、

         最強の力】

 

フナの5つ目の原則はAloha アロハで、これはハワイ語で「愛」という意味なのだけれど、日常的に「こんにちは」とか「ハロー」という風に使うあいさつの言葉でもある。

 

しかしハワイでは、人に会うたびに「愛しています」と言っているわけではない。アロハとは、一緒にいて幸せだ、という意味なのだと、フナでは言っている。つまり、ハワイでは、人に会うたびに、「あなたに会えてうれしいですね」と言っているわけなのだ。アロハとは、そういう意味の愛だ。

 

愛というと、私たちは何かと難しく考えてしまいがちだ。愛するとは、自分を犠牲にして相手のために何かをしなければならないことのように思ったりする。「愛はよくわからない」と、まるでよほど精神修養を積んだ人でなければできないことのように言っていたりもする。

 

しかし、愛とは意志の力で「する」ようなものではなく、好きか嫌いかといったような、自然に湧いてくる感情にすぎない。うれしい、好きだ、という感情が湧いてきたとき、身体が緩んで、胸のあたりから暖かくなってきて、幸せな気分になる。アロハとは、そういう感情のことだ。そして、その感情にこそ、最強の力がある。

 

このことを体感してみるために、公開セミナーでは、まず誰かと一緒にいて、幸せだったときのことを思い出し、その時に戻って、その喜びを味わってみることにした。その人とずっと一緒にいたいわけじゃなくても、ただそのとき一緒にいて幸せを感じたという体験だ。そこに戻っていって、ただその幸せを感じてみた。

 

今は亡くなった父親と病院のカフェで話していたときのことを思い出したという人、過去のいろいろな場面を次々と思い出したという人、現実にあった場面ではないけれど、書き換えた過去で、2歳の自分が両親と手を繋いで野原を歩いている場面に戻ったという人、皆、しみじみと幸福感を感じ、身体が緩んで暖かくなり、愛に満たされた感覚になっていた。何よりも、目の光が優しくなって、とても繊細な、傷つきやすい感じの表情になっている。

 

これが、愛に満たされた状態、ハートが開いた状態なのだ。ハートが開くと、人は傷つきやすい感覚になる。それは、弱いことのように思えるけれど、まさにこの傷つきやすさこそが、最強の力なのだ。すべてに開かれているからこそ、傷つきやすい。守ろうとしていないからこそ、守られている。その状態こそは、すべてを可能にするゼロ磁場のようなものだ。

 

それから、自分が理屈なく好きなものが何なのか考えて、それをやっているときの幸福感を感じてみることにした。しかし、これは実際にやってみると、そう簡単ではないことがわかった。自分が好きだと思っているものが、実は何かの代償であったりすることがとても多いのだ。たとえば、お金をもらったらうれしいけれど、それはお金自体が好きなわけではなくて、それによって働かなくてもいいとか、旅行に行けるとかがあるからだ。だから、本当はお金が好きなのではなくて、働かなくてもいい時間が好きなのだ。

 

また、お酒とかタバコとか甘いものとかが好きだというのは、好きというよりも一種の依存状態で、本当に欲しいものが得られないから、代わりにそういうもので満たそうとしているだけだったりする。やっぱりそれ自体が好きで愛に満たされるわけではない。達成感とか人に勝ったという感覚とか、認めてもらえる喜びとかが欲しくてやっていることもある。一体、本当に自分の魂が求めていることは何なのか、それがなかなかわからない。これは、現代に生まれ育った私たちが、いかに条件づけで生きているかということを表している。

 

それで、それぞれインナーチャイルドに話しかけて、何が好きなのかを聞いてみることにした。そして、これからはそれをいくらでもやっていい、と言ってもらった。すると、多くの場合、インナーチャイルドはこれとはっきり言えるようなものを求めているわけではなかった。ただ自由に駆け回りたいとか、のんびりしたいとか、空を駆け巡りたいとか、そういうイメージで答えてくるだけだった。

 

私たちは、何をやりたいのか、何を望んでいるのかと思うとき、あることを成功させるとか、達成するとか、勝ち負けとか、そういう形のはっきりしたもので考えるように条件づけられているのだと思う。しかし、魂が求めているのは、そんなはっきりと決まったものではなく、ただ気持ちのよい方向に自由に進んでいくということだけなのだ。

 

しかし、この気持ちのよい方へ進んでいくということこそは、実のところハイヤーセルフの導きだ。高次元に導かれて生きる感覚を知っている人は、何かのときに、理屈で考えるよりも、身体を緩めて、行きたくなる方向へ身を任せて進んでいくように行動したりする。そうすると、まるで導かれるように、するすると事が運んでいき、いつのまにか望んでいたことが実現していたりするのを知っているからだ。

 

現代に生きる私たちは、まさにこうしたハイヤーセルフの導きを信じないようにされている。そして、魂が自然に向かっていこうとする心地よい方へ動く代わりに、達成感とか勝ち負けとか、成績とかお金とか、そういうもので動かされていることが多い。

それで次に、それぞれ自分のハイヤーセルフにアクセスしてみることにした。

 

これは、自分をいくらでも甘やかしてくれる宇宙のおじいちゃんみたいに想像すると、すんなり繋がることができる。高次の意識だとか神さまだとかいうと、ずっと遠くの高いところにある恐いような存在を想像するのだけれど、本当のハイヤーセルフは、そんなものではない。私たち人間の想像を遥かに超えたような、甘やかしまくりの意識なのだ。

 

福音書を注意深く読めば、ナザレのイエスが神さまをそのような存在として語っていたことがわかるし、ハイヤーセルフにアクセスしたことがある人も、同様なことを言っている。何でもわかってくれて、何でもしてくれようとして、無条件に受け入れて愛してくれる存在。それが神さまであり、自身の高次元意識であるハイヤーセルフだ。

 

だから、そういう宇宙のおじいちゃんみたいな存在がもしいたらどうだろう?と想像して、その感覚を味わってみたり、「そこにいますか?」と声をかけてみたりしてもらった。それでほとんどの人は、うまくアクセスできたようだった。はっきりしたイメージや答えが返ってこなかった人も、胸から上のチャクラが開いて、サードアイのあたりが明るく輝き出しているのがわかった。

 

甘やかし放題のおじいちゃんみたいな存在とアクセスしているのに、頭頂やサードアイが開くのだ。そして、いわゆる「宇宙と繋がっている」状態になる。

 

ふわふわした白いヒゲのおじいさんのイメージが出てきた人、赤ちゃんになったみたいに甘やかしてもらった人、いつもついているから、もっと好きにしていいんだよ、と言われて涙が出たと言った人。一方では、そのままでいい、自由に遊んでいていい、と言われても、何だか物足りなくて、「何をすべきなのか?」と聞き出そうとしていて、甘やかされる気分を味わわなかったと言っていた人も多かった。

 

私たちは、それぞれにこの地上ですることがあって生まれてきていて、つまるところ、それは自分自身の高次の意識によって導かれている。しかしそれは、私たちが顕在意識で「これを果たそう」と思って果たせるようなものでもない。それというのも、私たちの顕在意識は、私たちがすでに知っているようなものしか考え出すことができないからだ。しかし高次の意識は、私たちがまだ知らないような可能性をすべて知っていて、そこへ向かって私たちを導いていっている。

 

このことは、それぞれ自分のこれまでの人生を考えてみればわかると思う。このようになることを考えていて、それに向かって進んできたという人は、ほとんどいないのじゃないかと思う。そうではなくて、まさかこんなことがと思うようなことの連続で、導かれてきたということが多いのじゃないかと思う。

 

そして、もうどうにもならないというところまで来て、自分で努力するのをやめ、大きな力にまかせるつもりになったとき、不思議な力で運ばれていくように切り抜けていったという経験をしている人も、多いのじゃないかと思う。

 

まさにこの高次の意識との繋がりが、これまで封じ込められてきたのだ。神さまとか宇宙とか呼ばれてきた高次の意識は、本当はただ気持ちのいいように動いていればいいようにしてくれているのに、そうではなくて、私たちの行動をすべて監視していて、裁いたり罰したりする存在であるかのように言われてきた。それによって私たちは、自分の魂の声に従う代わりに、外の権威の命令に従うように条件づけられてきたのだ。そして、まさにこの状態が、戦いと支配とが絶えない世界を作り出してきた。

 

それで最後に、ハイヤーセルフとの繋がりのエネルギーを、光の玉に入れて、世界中のすべての人に送ることにした。繋がりを失って、戦いや支配欲に取り憑かれたようになっている人々にも、このエネルギーを送った。それは、これまで受けてきた傷が癒えるときの痛みを感じさせるプロセスでもあった。

 

地球の中心にマグマのように熱い大きな愛の力があり、それが地表のあたりにあるカチカチの殻のようなもので封じ込められていたようだ。光の玉を送ると、そのカチカチの地表に風穴がいくつも開いて、地中に封じ込められていた愛のエネルギーが地表に出ていき、地球全体を光で包んでいった。

 

自分自身がありのままに受け入れられ、愛される感覚に満たされていてこそ、人をありのままに受け入れ、愛することができるのだ。高次の意識と繋がったとき、私たちは、自分がまったくありのままに当たり前に受け入れられ、甘やかしまくられるくらいに愛されるという感覚を知る。何ができるから偉いとか、何ができないからダメだとかいうことが一切ない。何をすべきだとか、何をしてはいけないとかも、一切ない。ただ地上に生きている存在だから、当たり前に愛され、何もかも与えられるという感覚を知る。

 

そうなったとき、私たちは初めて、すべての人をありのままに受け入れて愛するということが、当たり前にできるようになるのだ。それは、何かをその人たちのためにしなくちゃいけないとかいうことではなくて、同じように高次の意識に愛されている存在として、敬意を払い合うようなことでしかない。ただ自分が甘やかされまくる感覚で緩んで、魂が求める気持ちのいい方向に動いていくように、ゆだねていれば、私たちは自ずと他人にも、条件をつけないでありのままに受け入れて、たがいに心地よい状態を作っていこうとする。

 

 

そしてそれこそは、多極的な調和と共生とを可能にするものだ。何百年、何千年もの間、その力が封じ込められてきたのだけれど、それが再び解放されて、その状態が当たり前になるときが、すでに来ているということなのだと思う。

 

***

画像は、チチカカ湖の湖上に出た日輪

 

 

月食の画像のようです