――10月16日。

私にとって、忘れられない日付だ。



そこは傾斜のかかった丘の上にあった。

長い長い階段を、頂上目指してゆっくりと上がっていく。

手にはいくばくかの花と、水の入った桶。

一段上るごとに花が揺れ、水が跳ねて時折足元を濡らした。



(…あの日の君もこうだったのかい)

1年前の今日、友人は死んだ。

死因は、5階からの転落死、だった。要するに飛び降り自殺だ。

決行の時、エレベーターを使ったのか、階段で行ったのかは定かではないが

もし階段で行ったとしたら、きっと死刑執行台に上るのと同じような気持ちだったろう。

階段を一段一段踏みしめながら、何となくそう思った。



そもそも、友人と呼んでいい存在なのかはわからない。

ただ、ともに同じような挫折を味わった、ただそれだけだ。

会話も数回あったかすら、怪しいところだった。



…それでも、どうしても忘れられなかった。

現場に残された血の痕と、救急車の音に気づいた時に何気なく見た、時計の針が指していた時間を。

だから隠されていた情報にもかかわらず、お墓の場所を聞き出し、今こうしてその場所へ向かっている。



(…図々しいと思うかい?)



虚空に向かって問いかけても、返る言葉はない。




目的のお墓は、上段のちょうど中央にあった。

振り返ると、町全体を見下ろすことが出来る、なかなかの絶景スポットだった。

壇の上を見ると、既に新鮮な花が生けられている。

そりゃそうか、命日だもんな。何もない方が寂しい。

さすがに生けられたばかりの花を捨てる訳にも行かないので、壇の上に小さな花束をそっと置いた。



墓石の前にかがみ、何をするわけでもなくぼんやりと墓石を眺めた。

日の光を受けて、きらきらと光っている。これなら、桶も持ってくる必要がなかったかもしれない。



(何だよ、ちゃんと愛されてたんじゃないか)

死んだ人を悪く言いたくはないが、どうしてもそう思ってしまう。

こんな道を選ぶほどの状況じゃなかったのではないか、と。

だが一方で、自分と同じような状況に陥った彼の苦しみを理解する自分がいた。

その苦しみに耐え切れず身を投げた友人を、責めることなんて出来ない。



…それでも、願わずにはいられなかった。

『出来るなら、これから一緒に頑張っていきたかった』



ろくに話したこともないのに何言ってるんだろうな、と思ったところで、

初めて自分が泣いていることに気づいた。

顎から雫が垂れそうになり、慌てて拭い取った。



誤魔化すように立ち上がって、もってきた水を墓石や植えられている植物達に満遍なくかけていった。

墓石が輝きを増したが、既に綺麗にされた後だったため、逆に汚れをかけてないだろうかと不安になる。



それから、線香を取り出した。すっかり忘れていた。

風にあおられてなかなか火がつかなかったが、一度つくと一気に燃え上がり、消火に苦労した。

大量の煙が上がっている。それを慎重に台の下において、手を合わせた。線香の香りが強くなる。



しばらくそうしてから、そろそろ帰ろうか、と腰を上げた。長居をしても仕方がない。

煙を眺めながら、ゆっくりと立ち上がった。



その時、煙の向こうに誰か見えた気がした。

輪郭ははっきりしない。鼻から上は姿すら見えない。

その口元が――ほんの少しだけ、笑ったような気がした。



「あ――」



その瞬間、風が一陣吹き抜けた。咄嗟に目を覆う。

恐る恐る目を上げた時には煙は散り散りになって、影のようなものは何一つ残っていなかった。



それが幻だったのか本当であったのか、そんなことはどうでも良かった。

ただ一言、墓前を見据えてこう言った。



「…じゃ、また」



そして、踵を返した。線香の匂いが遠ざかっていく。



――1年後の今日、また必ずここに来ると誓って。