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読書セラピー(幸せのページ)

木に吹いた風が緑色になるように
花に吹いた風が芳香を運ぶように
風に言葉を託して届けます。

五木寛之さんのお話です。

・・・・・・・

私はよく、人生を山登りに
たとえることがあります。

50歳までの前半生が
「登山」なら
後の後半生は
「下山」の過程であると。

―「下山」というと
  マイナスのイメージが。

ただ、登った以上
下山しないと
山行(さんこう)は
完結しません。

―確かに。

それに「下りる」途中
いいことも
たくさんあります。

例えば、必死で
登っていたときには
足元ばかり見ていたのに
下山のときは
下界を眺める
余裕が生まれるでしょう。

―はい。

向こうの山腹には
貯水池が浮かび
遥か彼方に町が見える。
遠くに青い海を
望んだときの感動。

また、足元の高山植物に感動し
ひょっこり姿を現す
小動物に心癒される。

―ああ、本当に
 登っているときには
 気づかなかった
 光景ばかり。

時には振り返り
「あんな険しい道を
登ってきたのか」
と自分を褒めて
やりたくなることも
あるでしょう。

あるいは、みずからの
来し方行く末を
考えながら
一歩一歩安全に歩を進め
ふもとを目指す。

それはとても充実した
優雅な時間だと思うのです。

登山を成長と捉えるなら
下山は成熟。
そもそも、この世に
無限の成長などありません。

成長が止まったときから
成熟が始まるのです。

―じゃあ、悪いことではない?

もちろんです。
成長から成熟へー。

成熟の時期をどう豊かに
生きるか。
それが、今私たちに
問われているのでは
ないでしょうか。

まったく予測はつきませんが
未知の世界を
切り拓いていくのだと考え
楽しみながら
後半生に入りたいと
あらためて思うのです。

出典:『人生100年時代の歩き方』(五木寛之、NHK出版、pp.5-6)

人生の長さに関わらず
自分らしく
生きた時間だけが
本当の寿命だとしたら・・・・

・・・・・・

失恋や死別
アイデンティティともいえる
職を失うとか
ある日突然、一瞬にして
自分の一部を
もぎとられるようにして
愛する何かを失うケース。

これらは、原因も時期も
はっきりしていて
自覚的に一瞬で
何かを失うケース。

しかし、「失う」には
日々まったく気づかぬうち
一滴ずつ血を
抜かれるようにして
「ある日気づいてみたら
自分に穴が
あいているじゃないか? 
いつの間に、どうやって
なぜ、何を失ったんだろう?」
という無自覚なまま
失う「喪失」もあると思う。

なんとなく自己表現が
怖くて一歩引いてしまった。

みんなに付いていき
自己表現を控え
一歩引き、二歩引き
引いていることにさえ
無自覚にきてしまった人が
ある日気づいたら
日々失っていということも。

一見、同じように
日々を過ごしているようで
実は日々、自分を
満たすような
行動をしていく人と
損なうという自覚なしに
むしろ、失いたくない
多く守りたいと思いながら
自分を損なう
行動をしている人。

人に付いていくから
いつまで経っても
自分のものにならない。

何となく周りの
何となくメディアの
言うことに逆らわず
これといって
自己主張しないことで
知らずに、人生旅行の下駄を
他人に預けてしまっている。

「自分で考えて決める」
決めたら、言葉にして
行動として「出す」。
周囲とぶつかってみる。

失敗を引き受ける。
それだけが、自分の時間を
取り戻す道だと思う。

出典:『「働きたくない」というあなたへ』(山田ズーニー、河出書房新社、pp.82-83、p93-94)

「よく聞く血液
『ドロドロ』と
『サラサラ』って
何なんでしょう?」

「基本的に血液が
『ドロドロ』していることは
ありません」

「えっ? でも・・・・」

「なぜなら、消化管や
食べ物の通り道を除き
体内は無菌状態だからです」

「じゃあ、『ドロドロ』って
(イメージ)ですか」

「はい。

・油ものばかり食べている
・コレステロール値が高い
・血液中の脂質の値が高い人 と

血液検査で何の問題も
なかった健康な人の血液を
比べても、その状態に違いは
見られません。

ただ、コレステロール値や
脂質の値が高すぎないに
越したことはないでしょう」

おわり

出典:『山本健人、SALUS Sep、東急、p4』