封建社会を終わらせたように | kyottides的 喜怒哀楽

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一年余りにわたって 開店休業状態 でしたが、そろそろ、また、あれやこれやと綴ってみようかなと思い始めています。よろしくお願いします。

エジソンとかフォードとか、あるいは、豊田佐吉とか松下幸之助、本田宗一郎とか、産業資本家たちは、思想的にも政治的にも、いろいろとなんだかんだあっても、世界の暮しを変えたほどの本物の変革者だった。 そういう"ド迫力"は今の資本家たちには見られない。むしろ、腐敗の象徴ばかりが目立つ。

私が業界新聞にいた頃は、島正博、堀録助に凄みを感じていた。 20代の頃、初めて自分一人でワンマン社長(=独裁者)堀録助インタビューに臨んだときはガタガタ震えていたほど。(でも、その時の記事を三日間、デスクに置いていたのは珍しいことだったと、秘書課長が教えてくれて歓喜 (^^♪ )

島正博さんは、和歌山の島精機製作所の創業者。工業用横編機の開発競争で世界制覇。 堀録助さんは厚木ナイロンの創業者。国策会社・片倉工業の出身で、戦後のストッキング業界を発明の連続で様変わりさせた。シームレスストッキング、パンティストッキング、サポートストッキングと相次いで発明。

思うことは、マルクスもレーニンも指摘していることだけれど、産業資本の時代から金融資本への主導権の変遷の中での変質ぶり。後者の時代は既に腐敗の始まりの時代であって、ブルジョアジーの知的荒廃と倫理的荒廃の蔓延する時代となる(なっている)、ということだ。
産業資本家の中で勝ち上がったのは、発明家たちだった。社会を変えるほどの結果を生み出していた。しかし、そうした無頼漢どもが活躍する愉快な変化の日々が、次第に影をひそめて、マネーゲームの金融資本の動向が暮らしの全体を左右するようになってくると、働く者たちの希望も野心も消え去って自らの保身しか眼中になくなり、それは、子どもたちの世代にも反映して刹那的な享楽にふけることにしか興味を持てない子たちが溢れる社会となった。

もう、資本主義経済の社会は、終わりにするしかない時代なのだ。それを「必然の国から自由の国へ」と表現したのがマルクスとエンゲルスだった。生産は社会的な組織性の時代になっているのに、その(成果の)取得は私的な無政府主義の時代なのが資本主義であって、社会的な取得という共同性の仕組みに変革しなければ発展できないところまで来ている、と。
誰かが人間的に発達する機会を得るのが私的取得形態の成果によるものだとすれば、それによって生み出される成果は私的に還元されなければならない。だが、社会的な支えの下で獲得されたものならば、その人の成果は社会的に還元されるのが当たり前になる。
これは私の成果です、という私的な請求権を社会に対して抱く意識や感覚が生まれる根拠がなくなる。自らの成果は社会的な支えによって獲得されたものであって社会的に還元する、という意識へと変わる。

マネーゲームにさえ勝利すればいい私的な競争関係が社会の発展性を阻害している。誰もが自由に発展する機会を損ねる桎梏になっている。もう、それを終わりにして、次の発展段階の社会に切り替えようではないか。封建制度の時代を終わらせて資本主義の時代になったように、資本主義の時代を終わらせて次の時代を切り開こうではないか。
一人はみんなのために、みんなは一人のために。
そういう社会をめざし、実現しようではないか。それだけの力を作り上げてきた社会なのだから。