左馬頭隆季のブログ-38年戦争6 アテルイらが投降して叛乱が収まると、翌年の延暦二十一年(802)、胆沢城、延暦二十二年(803)には志波城を築城し、北上川中流域の支配に乗り出します。志波城は、その後、南に移され徳丹城となりました。
新たに設置された胆沢城には多賀城から鎮守府が移され、対蝦夷政策の最前線の中心拠点となります。

ただ、桓武天皇は五回目の征討作戦も考えていたようで、延暦二十三年(804)に再び田村麻呂が征夷大将軍に任命されています。ただ、延暦二十四年(805)に參議藤原緒嗣の意見により、蝦夷征討は中止になり、五回目の蝦夷征討軍は立ち消えになりました。

ところが、弘仁元年(810)に陸奥出羽按察使に就任した正四位上文室朝臣綿麻呂によって再び蝦夷征討が実行されます。他に、陸奥守従五位上佐伯宿禰清岑、陸奥介従五位下坂上大宿禰鷹養、鎮守将軍従五位下佐伯宿禰耳麻呂、鎮守副将軍従五位下物部匝瑳連足継らが参戦しています。

戦闘は、弘仁二年(811)に陸奥出羽両国の2600人を動員して、幣伊地方(岩手県東部)、爾薩体(岩手県北辺)を対象に軍事行動を起こします。
この作戦では出羽守従五位下大伴宿禰今人が雪の中、勇敢な俘囚300人余りを率いて爾薩体を攻撃し、60人余りを討ち取ったという戦果が報告されています。