左馬頭隆季のブログ-10世紀の奥羽 10世紀も北東北には不穏な空気がありました。

この時代、新たに岩手郡が建てられています。また、朝廷支配の北限には岩手関が設けられ、磐井郡と胆沢郡の境目辺りで今の平泉の町あたりに衣関(衣川関とは異なる)が設けられていたようです。
この衣関が鎮守府と陸奥国府の境のような役割にもなっていったようです。

そして、次の十一世紀、奥六郡には安倍氏、出羽国仙北には清原氏という俘囚系豪族(蝦夷系の姓を持たない豪族)が生まれてきます。
ただ、六国史の編纂が終わって、主要な日記の記述が始まるまでの隙間に十世紀があたるので、十一世紀に入るまでの間に奥羽で何があったのか、詳しいことはわかりにくい状況ではあります。
左馬頭隆季のブログ-9世紀の奥羽 蝦夷との長い戦争が終わって、北上川中流域にまでその支配の手を伸ばした朝廷ですが、まだ、北東北は安定せず、叛乱や闘乱、略奪、放火などの大小様々な襲撃が絶えない地方でした。

左図は9世紀の北東北の動きを概略したものです。

北上川中流域を手に入れたことで、ここに磐井郡、胆沢郡、和賀郡、江刺郡、志波郡、稗貫郡を設置します。後に奥六郡と総称される六郡の内、5つは9世紀にもうけられています。残りの岩手郡は10世紀になります。

出羽国府は、これまで秋田城にあったらしい(諸説有り、確定ではない)のですが、ずっと南の最上川河口ちかくに遷されているようです。

左図にはいくつかの叛乱や襲撃が記述されていますが、そのうち、元慶二年(878)に起こった元慶の乱は、最も規模の大きいものです。
秋田城介の苛政に憤った米代川流域、男鹿半島の蝦夷達が協働して叛旗を翻し、秋田城を襲撃、周辺集落を焼き討ちして略奪、住民殺害などを繰り返した叛乱です。
この原因は秋田城介の周辺蝦夷・俘囚に対するひどい搾取(不平等な交易など)が原因ですが、秋田城を周辺に居住している移民との軋轢からくる反感も底流にあったかもしれません。

※年号と西暦の対応>
斉衡二年(855)
貞観十七年(875)
寛平五年(893)

左馬頭隆季のブログ-38年戦争6 アテルイらが投降して叛乱が収まると、翌年の延暦二十一年(802)、胆沢城、延暦二十二年(803)には志波城を築城し、北上川中流域の支配に乗り出します。志波城は、その後、南に移され徳丹城となりました。
新たに設置された胆沢城には多賀城から鎮守府が移され、対蝦夷政策の最前線の中心拠点となります。

ただ、桓武天皇は五回目の征討作戦も考えていたようで、延暦二十三年(804)に再び田村麻呂が征夷大将軍に任命されています。ただ、延暦二十四年(805)に參議藤原緒嗣の意見により、蝦夷征討は中止になり、五回目の蝦夷征討軍は立ち消えになりました。

ところが、弘仁元年(810)に陸奥出羽按察使に就任した正四位上文室朝臣綿麻呂によって再び蝦夷征討が実行されます。他に、陸奥守従五位上佐伯宿禰清岑、陸奥介従五位下坂上大宿禰鷹養、鎮守将軍従五位下佐伯宿禰耳麻呂、鎮守副将軍従五位下物部匝瑳連足継らが参戦しています。

戦闘は、弘仁二年(811)に陸奥出羽両国の2600人を動員して、幣伊地方(岩手県東部)、爾薩体(岩手県北辺)を対象に軍事行動を起こします。
この作戦では出羽守従五位下大伴宿禰今人が雪の中、勇敢な俘囚300人余りを率いて爾薩体を攻撃し、60人余りを討ち取ったという戦果が報告されています。
左馬頭隆季のブログ-38年戦争5 延暦十三年(794)、三回目の蝦夷征討軍が派遣されます。奇しくも、この年は長岡京から平安京に遷都がなされた年でもあります。

このときの最高指揮官は征夷大将軍に任命された大伴弟麻呂、副将軍として坂上田村麻呂が現地に下向しています。約十万の大軍が動員されたようです。
実際の指揮は田村麻呂が行ったようですが、この戦闘の詳細はよくわかっていません。このときの記事が史料に残っていないからです。
この時代は、まだ、六国史と呼ばれる6つの国史の編纂時期に当たっていて、延暦十三年は日本後記という国史に記述されているはずですが、この史料は、欠けている記事が多く、この年の記事も既に散逸して残っていません。他に国史の概略をまとめた日本紀略や類従国史などがありますが、それらにも戦闘の詳細は残っていません。ただ、日本紀略には、戦果が記載されています。それによると、斬首457級、捕虜150人、馬85頭、焼亡75ヶ所となっています。かなりの戦果だと思われますが、その後も征夷軍が起こされているので、決着がついたわけではないようです。恐らく、叛乱蝦夷のリーダー、アテルイがまだ生存していたからでしょう。

それから7年後の延暦二十年(801)に四回目の征討軍が派遣されます。今度の指揮官(征夷大将軍)は、前回の征夷軍で副官をしていた坂上田村麻呂です。今回は前回の半分、四万の軍勢が動員されたようです。
そして、この征討では、賊軍の首領、アテルイとモレが投降し、約三十年続いた叛乱もようやく一区切りつきました。
左馬頭隆季のブログ-38年戦争4 この叛乱鎮圧のため、朝廷は、合計四回征討軍を編成し派遣しています。その中で、比較的、戦闘の詳細が史料(続日本紀)に残っているのが、紀古左美が征東将軍となって指揮を執った二回目です。これは延暦八年(789)に行われ、五万三千人弱が動員された戦闘です。
征東副使として、従五位上多治比真人浜成、外従五位下入間宿禰広成、従五位下紀朝臣真人、鎮守副将軍として従五位下池田朝臣真牧(まひろ)、外従五位下安倍猿嶋臣(さしまのおみ)墨縄という陣容でした。この戦闘は、蝦夷側の巧みな戦術に翻弄され、大敗を喫し、桓武天皇の激怒を受けます。
続日本紀には、陸奥征討軍からの戦闘報告と、それに激怒する桓武天皇の勅の内容が記載されています。
最初に征討軍は、陸路、海路、河川の三つのルートから攻撃しようと意図し、海路(沿岸部の蝦夷攻撃)は多治比浜成が担当したようで、この軍はそれなりの戦果を挙げたようです。
河川ルートは北上川を舟で遡上する軍ですが、恐らく、軍需物資の輸送が主な任務だったのか、史料には戦闘状況など記載がありません。指揮したのは紀真人だったのではないかとも言われています。
残りの陸路は、蝦夷軍の巧妙な罠にひっかかり、大敗を喫してしまいます。
まず、多賀城から北上し、衣川を渡った地点で陣(衣川の営)をしきました。ところが、この状態で約一ヶ月、動かず、戦闘報告のないことにしびれを切らした桓武天皇が、なぜ動かないのか、状況を報告するよう催促します。天皇の催促に焦った現地軍首脳部は、急遽、作戦を立て、拙速な戦闘行動に打って出ます。
その作戦というのは、前中後の3つの軍に分け、前軍を安倍墨縄、中軍を入間広成、後軍を池田真牧という陣営で、胆沢の蝦夷の中心拠点がある北上川東岸北部を目指し包囲攻撃するというものでした。
中軍・後軍は北上川を渡河し東岸を北上しました。途中、蝦夷軍と遭遇しましたが、蝦夷はすぐに退却を始めたため、中軍・後軍は追撃を開始、途中の村々を焼きながら、北上していきます。そして巣伏村に到着、計画では、ここで前軍と合流して、蝦夷の拠点を攻撃する手はずだったのですが、前軍は蝦夷軍に前進を阻まれ、北上川を渡河できず、立ち往生していました。そして、東の山麓から新手の蝦夷軍が出現し、中軍・後軍の前後に回り込み、挟み撃ちにされてしまいました。これで退路を断たれた中軍・後軍は全軍総崩れとなり、多くは北上川で溺死(1036人)というみっともない結果に終わっています。(戦死者25人、矢に当たる者245人という小数なので、恐らく殆ど戦わずして敗走ということか)
考えてみれば、簡単に退却を始めたのは、蝦夷軍の罠だったのかもしれません。ただ、巣伏村まで北上する途中、蝦夷の村を14ヶ村、800余りの家屋を焼亡させたという一応の戦果も挙げています。
この大敗で、もはや、軍を維持できないと判断した紀古左美は、軍を解散して帰京したい旨、許可を求めますが、天皇は大激怒、つたない作戦で大敗し、貴重な人材を多数戦死させておいて、勝手に帰京したいとは何事かと返します。
天皇から、こんな勅を賜った紀古左美らは、おそらく震え上がったのではないでしょうか。官位剥奪か、あるいは、それだけでは済まないかもしれない(流罪、下手すると死罪か)と思ったかも知れません。再び、胆沢攻撃をしたようです。(この二度目の攻撃については、従来、論じられることは無かったのですが、「古代蝦夷と律令国家」(蝦夷研究会)では詳細に考察されていて、参考にしました。)
この二度目の攻撃では、朝廷軍側の戦死者1000人余り、戦傷者2000人余り、討ち取った賊軍の首89と、相当な激戦だったようです。その結果、胆沢は廃墟と化したと報告しています。
ところが、この報告を聞いて、桓武天皇は誤解したようで、先に大敗を喫して、ほとんど戦わずして敗走したのに、何で、こんなに死傷者が多く、敵の首を多く取れたのか不審である、つまりは、先の敗戦報告で叱責されたので責任逃れのための嘘の戦勝報告だろうと決めつけられてしまいました。その結果、帰京した紀古左美ら現地軍幹部は勘問を受け、その罪に応じて官位剥奪などの処分を受けるという結果になりました。
左馬頭隆季のブログ-38年戦争3 宝亀十一年(780)三月、按察使(あぜち)の紀広純(きのひろずみ)は牡鹿郡(おしかぐん)大領の道嶋大楯(みちしまのおおだて)と上治郡大領伊治公呰麻呂(これはるのきみあざまろ)を連れて、造営中の覚鱉城(かくべつじょう)を視察する途中、伊治城に立ち寄ります。このとき、呰麻呂は紀広純と道嶋大楯を殺害し、彼らが率いていた軍勢(主力は俘囚の軍)を味方にして、伊治城を落城させます。このとき、陸奥介(むつのすけ)大伴真綱(おおとものまつな)を呼び多賀城付近まで護送し逃がします。ところが、この真綱は多賀城に入ると陸奥掾(むつのじょう)石川浄足(いしかわのきよたり)とともに逃亡し、数日後、反乱軍は主のいない多賀城に攻め寄せて、略奪、放火をし、多賀城は陥落します。また、この過程で周辺の城柵も攻撃し、陥落させていたようです。新田柵遺跡の発掘結果では門にその痕跡が残っているそうです。そして、これが延暦二十年(801)まで続く蝦夷の叛乱の発端になります。

先の蝦夷攻撃で大きな軍功があり、高い位階まで賜った夷俘が、突然、叛旗を翻し、按察使という奥羽の最高地方官を殺害、更に陸奥国府の多賀城を初め、各地の城柵を焼き討ちした行動は、陸奥・出羽のみならず、中央政府にとっても大きな衝撃を与えた大事件だったでしょう。
これによって、一時的に陸奥国内の軍事施設は機能しなくなり、非常に危険な状況になりました。そして、この後、桓武天皇という強硬派の天皇が即位することで、東北の蝦夷に対しては武力制圧を中心とする厳しい態度で臨まれることになります。

※日本紀略の延暦十五年(796)十一月二十一日の記事に相模、武蔵、上総、上野、下野、越後、常陸、出羽らから9000人を伊治城に遷し置いたとあるので、あるいは、呰麻呂の攻撃の後、再建されたのかも知れません。当時、城柵は郡の行政機能も持っていたので、その方面での必要性から再建されたのかも知れません。
左馬頭隆季のブログ-38年戦争2 これに対して朝廷側は陸奥に援軍を差し向け、出羽にも蝦夷討伐を命じます。陸奥では、宝亀七年(776)には二万の兵で山海(山道:北上川沿いに北上する道、海道:桃生、牡鹿を経て三陸海岸沿いを北上する道)の蝦夷討伐を行うことを決定します。
また、出羽国府軍は志波村で敗北し、また、陸奥からは胆沢の蝦夷を攻撃しています。
宝亀九年(778)には、蝦夷討伐に功績があったということで上治郡(栗原郡)大領である伊治公呰麻呂が外従五位下を授かっています。この位階は主に一般豪族に授ける位で夷俘に対しては珍しいことです。それだけ大きな軍功を上げたのでしょう。
宝亀十一年(780)には長岡(宮城県大崎市長岡)に蝦夷が侵入してくることが報告され、胆沢方面の蝦夷に対して覚鱉城(かくべつじょう)を新たに築城する計画が浮上します。
左馬頭隆季のブログ-38年戦争1 伊治公呰麻呂の乱から坂上田村麻呂によるアテルイ討伐、そして文室綿麻呂による征夷までの38年間に渡る対蝦夷戦争のことを38年戦争とも呼んでいます。これから、この戦争の経過を図で追ってみたいと思います。

蝦夷に対する最前線に桃生城(ものうじょう)、伊治城(これはるじょう)が造営されてから十年ばかり後の宝亀元年(770)、朝廷に服属していた夷俘の宇漢迷公宇屈波宇(うがめのきみうくはう)が賊地(蝦夷居住地)に逃亡します。陸奥国府は使いを送って帰るよう説得しますが拒否します。それどころか、1、2の部族を率いて城柵を攻撃するとまで言い放ちます。
そして、宝亀五年(774)、海道の蝦夷(桃生、牡鹿を経て三陸海岸沿いを北上する道を海道と呼び、その海道沿いに居住していた蝦夷)が橋を焼き、道を塞ぎ、桃生城に攻め込んで西郭を破り城内に侵攻します。遺跡の発掘結果からは、このとき桃生城は焼けおちたようで、つまり、蝦夷は桃生城を完全に陥落させたようです。その後、桃生城は再建されることなく、放棄されたことが遺跡の発掘結果から判明しています。
夷俘(いふ)と俘囚(ふしゅう)、どちらも朝廷側に従属した蝦夷の呼称ですが、両者の間には身分的差別があったようです。
夷俘は朝廷に服属した蝦夷としては、俘囚より下の身分として見られていたようです。夷俘と俘囚の区別がどこから生まれてきたのかは、恐らく、より朝廷に従順な蝦夷を俘囚として迎え、将来も服従的か疑念がある蝦夷を夷俘としたとも思われますが、実情は、それぞれのケースで様々な経緯や事情があったと思われます。この夷俘と俘囚に分けるという政策は、朝廷支配下に入った蝦夷たちを連帯させない分断政策という面もあったからです。
ちなみに、俘囚の場合は、「君子、吉弥侯、公子(きみこ)」や「君子部、吉弥侯部、公子部(きみこべ)」という姓が与えられ、夷俘には「XX公(XXのきみ、XXは地名)」という姓が与えられることが多かったようです。
例えば、「きみこ」としては、十二年合戦で出羽清原氏の一族として登場する吉彦秀武がいます。一方、「きみ」としては、伊治公呰麻呂などがいます。面白いのはアテルイの例です。叛乱の主役の時は阿弖流爲と史料に書かれ、田村麻呂に投降後は、大墓公阿弖流爲と書かれています。朝廷の軍門に下った時点で「公(きみ)」姓が与えられています。「きみこべ」でないことも示唆的です。

俘囚は、しばしば、征夷軍の最前線としてかり出されています。俘囚には、このように蝦夷征討の軍隊としての機能もあって、国司に直接、隷属していたようです。
一方、夷俘は、郡に属しており、新たに建郡された郡(蝦夷系住民主体の郡)の郡司になるものも現れています。

彼らが公民の身分を得るには、夷俘→俘囚→改姓して公民、という段階を必要としますが、史料では、改姓した姓として上毛野公、下毛野公などを賜ったことが記録に残っています。ただ、改姓して一見、公民の身分を得たように見えても、夷俘として見られ続けていたようです。
また、俘囚については、こういう例もあります。
続日本紀の神護景雲三年(769)11月25日の記事に、

陸奥国牡鹿郡の俘囚、外少初位上勲七等大伴部押人が訴え出るには、「伝え聞くところによると、我々の先祖はもとは紀伊国名草郡片岡里の出身で、昔、大伴部直の率いる征夷軍に従軍して陸奥に来たときに、陸奥国小田郡嶋田村に居着いたということです。その後、子孫が蝦夷に捕らわれ、その結果、歴代の子孫は俘囚とされました。既に我々は朝廷に帰服して久しいので、俘囚の名を除き、公民の身分を取り戻したいと思います。」そこで、これを許した。

これを読むと、一概に俘囚と言っても、由来は蝦夷とは限らないとも言えますね。
北東北には、早くから関東、北陸から住民が移住させられたり、あるいは、課役から逃れるために逃亡してきたり、あるいは征夷軍に従軍した兵士の中には現地に居着いた人もいたらしいので、俘囚と呼ばれた人々の中には、実は先祖は和人という人たちも多かったかも知れません。