ごきげんよう
自然療法士ラクシュミー優です。
に続きます。
31歳の誕生日を迎え、
数日後にあのアメリカの同時多発テロが起きた。
フィレンツェでの2年間に及ぶインテリアデザインの学校の
卒業のために課題の製作の最終仕上げに必死だった時。
なぜか自分の人生の節目の時に
社会的に大きな事件や出来事が起こる。
だからあの時、あれが起こったと記憶がより鮮明に刻まれる。
9月に無事に学校を卒業し、
さて日本に帰国するかどうするか。
と言うより、最初から日本に帰国する気なんてなかったのかも。
特にフィレンツェであてはなかったけど
フィレンツェに残るという選択に全く迷いはなく、
その後も実際に滞在が難しくなるようなことは
今まで一度も起きていない。
すぐにフィレンツェ大学の建築学部の教授の
小さな設計事務所でお手伝いが始まった。
仕事の半分は教授の愚痴を聞くことだったけど
ここでも、なかなかできない貴重な体験を
いくつもさせてもらった。
全てがスムーズだった。
日本に戻っていた1年を抜いても現在まで
17年もフィレンツェにいるのは、
向かい風が吹かなかったからだと思う。
特にイタリア人と結婚しなかったにもかかわらず
ここに今いることは結構奇跡なのかも。
学校が終わってから半年くらいで
面白いぐらい必要なタイミングで仕事の滞在許可証
(イタリアに住んで仕事を出来る権利)を取得できた。
探したわけでもなく、ちょうど必要となった時に
情報がぽろっと舞い込んできた。
多くの人が仕事の滞在許可証の取得で苦労し、
そのために付き合いをしていた人と結婚する
きっかけになる人が多い。
期限のない永久の滞在許可証にも
自然に切り替えができ、
本当に滞在に関しては苦労知らず。
ただ、ここフィレンツェでは
仕事の問題には数々直面。
これはなかなか受け入れられないことが
たくさんあったから。
自分の中でこれはやりたくないとか
こだわりばっかりでガチガチ。
それがどんどん視野を狭めていった。
30代前半は、インテリアの分野で
仕事をすべきと思い、
幾つかの設計事務所をまわっていた。
自分の中の迷いが、
この分野でやっていくということを
どんどん遠去けていたのだとその時も自覚していた。
それでもどうしようもない
混沌とした苦しい時間が流れていた。
仕事にも結婚にもあぶれてしまっている私。
そんな風にしか自分を考えられずに
ずいぶん苦しめたと思う。
30代前半はプライベートでは
その当時一緒にいた人とは本当に楽しくて、
なのに、心から楽しめずにいた。
ないものばかりを見つめ、
あるものに感謝が全くできていなかったから。
毎日がフェスタ。
毎日夕食に招待されたり、したり、それか外食。
お出かけ、旅行三昧、グルメ三昧。
楽しかったけど、
一人でいることが好きな私には
苦痛になることも多かった。
このころの経験が今の私の
家に人を食事に招待しない、されない。
に結びついたのかも。
朝から買い出しに行き、1日が食事の準備に追われるのが
どれほど楽しい時間を持ててもやっぱり嫌だった。
ここ、イタリアでは
人を招待したりされるのが当たり前なので私は異種。
35歳を迎えようとする前に
自分自身を生きれない、
枠にガチガチにはめていたため、軽い鬱になった。
こちらでは、心理カウンセラーのところへ行くというのが
敷居が低いために、通うように当時一緒にいた人に勧められ、
しぶしぶ2回ほど行った。
でもなんか違う! と思ってそこへは通わず。
それからしばらくして、
知り合いを通じて別のカウンセラーのところへ。
その人は、人間はこの世に生まれること自体が
安心できていた母親のお腹から出され、トラウマだ。
恐怖でいっぱいなのが当たり前。
生まれたばかりにいかにそのトラウマが
癒されるかが大事と。
私がどうのというより、そんな話を何度か聞いた。
記憶のほぼない幼少時代がいかに大事かと
そこでも気づかされた。
後になって自然療法の学校の最初の授業で
この世に生まれた瞬間の
『インプリンティング』刷り込み、
つまり恐怖やトラウマがその後の人生に
大きな影響をもたらすことを習った。
自然療法の学びで自分の中の理由の分からない
深い悲しみの感情の理由を
理解でき、自然に溶けていった。
当時、結婚に対する恐怖は心の中で渦巻いており
したいけど怖い、不安、
何よりも自分が自分の足で立てていない、
仕事が安定していないことが
自分をより落ち込ませていた。
35歳にもなるのに、
結婚もしていない、仕事でもキャリアを積み上げていない、
ないないだらけで、目の前真っ暗
としか思えなかったのです。
苦しんだ挙句、
35歳を目前に日本へ一旦帰ることを決めた。
目的はインテリアの仕事をするため。
帰国し、すぐにインテリアの仕事は見つかったけど
現実は甘くなく。
未経験の大手の会社のインテリアの設計変更の
相談を受けるという仕事だった。
慣れない仕事には必死に取り組んだけど
やはり自分が日本の社会には、
もはや適応できないという思いが強くなっていった。
大きな挫折感も経験し、
本望ではなかったインテリア小物販売の
相談分野に担当も変わることになった。
ところが、本望でなかったのだけど、
一緒に働く人たちが良かったことや
仕事の内容も思っていたものとは異なり
楽しかったのです。
フィレンツェに再び戻る直前の
職場の人たちが開いてくれたお別れ会で
このあたりから、ものの見方が変わるようになりました。
ガチガチで来て、なんて今まで損をしていたのだなと。
とりあえず目の前にあるものを否定せず、
試してみる
別の視野を持つ
ということの大切さを知り
この日本でのたった1年が
私にとっては非常に重要な経験となった。
こんな感じで仕事をすることに必死で
子供どころか結婚からは更に大きく遠ざかり‥
その当時一緒にいた人とも別れて、
自分が勝手に日本へ戻ったとはいえ、
人生の中でも数えられる苦しみの時間が続いていたのです。
まさに自分が生み出した苦しみ以外の何ものでもない。
結婚とか子供とか、そんなことを考える余裕もない、
それ以前の自分のあり方に
これからの生き方に混沌とし、
底には深い悲しみを抱えながら、
なぜそんなに悲しみを抱えていたのかもわからずいた時代。
日本での1年の滞在を経て
フィレンツェに戻り、1からのやり直しが始まりました。
ここから大きく私の人生は変わっていきます。
長〜い文にお付き合いどうもありがとう。
自然療法士ラクシュミー優でした。
また次回に続きます。