今日はルネッサンスの真の意味12回目です。
過去の11回分を読んでない方はこちらからどうぞ。
こちらの絵は
サンタマリアノヴェッラ教会に描かれたフレスコ画でギルランダイオ作
今日はルネサンスの文芸・美術にも大きな影響を与えた、
新プラトン主義(ネオプラトニズモ)の思想のもと
アカデミア・プラトニカ(プラトン・アカデミー)というメディチ家主催の
プライベートサークルで活躍した人物たちを紹介します。
(文章はwikiより一部抜粋) マルシリオ・フィチーノ(Marsilio Ficino 1433年 - 1499年)はイタリア・ルネサンス期の人文主義者、哲学者、神学者。メディチ家の保護を受け、プラトンなどギリシア語文献の著作をラテン語に翻訳した。プラトン・アカデミーの中心人物。近年はルネサンスの芸術思想をはじめ、魔術思想、神秘思想の面など多方面で注目される思想家となった。
(文章はWIKIより一部抜粋) クリストフォロ・ランディーノ(Christoforo Landino 1424年 - 1498年)は、イタリア・ルネサンスの人文主義者。メディチ家のプラトン・アカデミーに集まった人物の一人。ネオプラトニズムの立場からダンテ『神曲』の注釈書を著し、当時の知識人に大きな影響を与えた。彫刻家ミケランジェロもランディーノの著作から多くを学んだと言われる。
『神曲』の注釈書(1481年版)で木星と土星が接近する1484年に世界の再生が訪れるという説を唱えた。1468年にはカマルドリ修道院でフィチーノ、アルベルティらにより「至高の善」をめぐる討論会が開かれた。ランディーノの『カマルドリ論談』はその記録である。
(文章は一部wikiより抜粋) アンジェロ・ポリツィアーノ(Angelo Poliziano 1454年 - 1494年)は、イタリア・ルネサンスの人文主義者で詩人としても知られる。メディチ家のプラトン・アカデミーの中心人物の一人。モンテプルチャーノの出身で、本名はアンジェロ・アンブロジーニ。通称のポリツィアーノは出身地のラテン語読み(モンス・ポリティアヌス Mons Politianus)に因む(この地はワインの産地であり、ポリツィアーノというワインもある)。フィレンツェでクリストフォロ・ランディーノに師事した。メディチ家当主ロレンツォに詩作を教え、長男ピエロの家庭教師になった。パッツィ家の陰謀の際に、ロレンツォを逃して命を救ったのはポリツィアーノだという。語学に堪能で、20歳にしてホメロスの『イーリアス』をラテン語に訳す。また、詩人としても著名で、ボッティチェッリの絵画作品『春』などはポリツィアーノの詩に構想を得ているともいわれる。
こちらはおまけ
ポリツィアーノとピエロ・ディ・メディチ(偉大なロレンツォの息子)でサンタ・トリニタ教会にあるギルランダイオ作の絵だそうです。ピエロ君かわいいなあ~。
ピエロ君の家庭教師をしていたから一緒に描かれたんでしょうね。
サンタ・トリニタ教会の前は有名なブランド街のトルナブオー二通りにあり、(正確に言うとサンタトリニタ広場ですが)
何回も前を通ったこともあるのですが、教会には一回も入ったことがありません。いつかこの絵を見に入ってみたいです。
ちなみに、ギルランダイオですが、フィレンツェの2つの教会に、最後の晩餐を書いています。
2つの最後の晩餐とも、キリストの隣にいるジョヴァンニはどうしても女性にしか見えないのですよね。
(それについてはこちらの過去記事「最後の晩餐 (伊語 Cenacolo ,または L'Ultima Cena) について」から見れます。)
話は戻りまして、
(文章はwiki より一部抜粋) ジョヴァンニ・ピーコ・デッラ・ミランドラ(Giovanni Pico della Mirandola、1463年 - 1494年)は、イタリア・ルネサンス期の哲学者である。「人間の尊厳」を主張したとされてきたが、近年では、ピーコの用いる「尊厳」の語には「序列」という意味もあり、今日でいう「尊厳」の意味はなかった、とも言われている。ともあれ、ピーコにとって人間とは、なんにでもなれる変幻自在のカメレオンのごときものであった。なお、苗字だけで呼称されるときはピーコである。
さて、プラトンアカデミーですが、もう一度 説明の為にWIKIを利用させていただきます。
(以下一部抜粋転載)
プラトン・アカデミー(Accademica Platonica)はルネサンス期にフィレンツェ・メディチ家の周囲に集まった人文主義者らによる私的なサークルをいう。大学のようなものではなく、フィチーノの友人たちの集まり、と言ってもよい。
概要
メディチ家当主のコジモ(1389年-1464年)は、古代ギリシア哲学、特にプラトンの思想に強い関心を持っていた。1439年のフィレンツェ公会議の際に東ローマ帝国の代表団の一人としてやってきた哲学者プレトンが行ったプラトン講義をきっかけに、フィレンツェではプラトン哲学への関心が高まっていたのである。
コジモは侍医の子であるフィチーノに語学の才能があるのを見抜き、1462年頃からフィレンツェ郊外カレッジ(Careggi)にあるメディチ家別荘の近くに別荘を与え、プラトンのラテン語翻訳に従事させた。フィチーノはプラトン全集やヘルメス文書などの翻訳により、名声を博した。そしてカレッジの別荘ではプラトンに心酔し、古代のアカデメイアに憧れる人文主義者らの会合が開かれるようになった。
- メディチ家のこの別荘は現存しているが、アカデミーの建物については記録もあまり残っていないとのこと。
プラトン・アカデミーはフィチーノを中心に、ランディーノ、ポリツィアーノ、ピコら多くの人文主義者が集い、メディチ家のロレンツォも加わって、プラトンの対話篇さながらに愛や美を巡る知的な討論を行った。異教的な思想が育まれ、ボッティチェッリの「春」「ヴィーナスの誕生」もこれらの知的風土の中に生まれた作品である。
1468年には(カレッジのアカデミーではないが)カマルドリ会系修道院でフィチーノ、アルベルティらにより「至高の善」をめぐる討論会が開かれ、ロレンツォも加わっている。ランディーノの著作が討論の様子を伝えている。
また1475年11月7日(プラトンの命日)にはプラトン当時を偲んで、カレッジに集まり『饗宴』を朗読し、その解釈を各人が述べるという催しも行われた。
ロレンツォの死(1492年)の後にはアカデミー活動は不活発となった。その後、メディチ家復帰(1512年末)後、プラトンアカデミーの再興が試みられたこともある)
関連年表
1439年 フィレンツェ公会議
1462年 フィチーノがコジモ・デ・メディチよりフィレンツェ郊外カレッジに別邸を与えられる。
1463年 フィチーノ『ヘルメス文書』を翻訳
1464年 コジモ死去
1468年 カマルドリの討論会
1478年 パッツィ家の陰謀
1484年 『プラトン全集』翻訳出版。ピコがカレッジを訪れる。
1486年 ピコがローマで討論会を企画(中止)
1492年 ロレンツォ死去
1494年 ポリツィアーノ、ピコ死去。メディチ家追放(~1512年)。
1499年 フィチーノ死去
(以上転載終わり)----------------------------------------------------------
関連年表についての補足ですが、1998年にランディーノも亡くなっています。
なので、このプラトン・アカデミーの中心人物4人共に、
ロレンツォが1492年に死んだ後、数年間の間になくなっていることになります。
なので、恐らく暗殺だろうという話です。
という事は、やっぱり、このメディチ家主催の勉強会は生命の危険も伴うほどの
激しい思想運動だったのだという事がわかりますよね。
それに非常に深く関係してるルネッサンス文化も、ただの美しい芸術だけではない、という事は
だんだん理解していただけたでしょうか?
また続きます!お楽しみに
<追記>ジョヴァンニ・ピーコ・デッラ・ミランドラ著
人間の尊厳について (1985年) (アウロラ叢書)
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マルシリオ・フィチーノ著