『散るぞ悲しき』 | 元広島ではたらく社長のblog

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六本木ヒルズや、ITベンチャーのカッコイイ社長とはいきませんが、人生半ばにして、広島で起業し、がんばっている社長の日記。日々の仕事、プライベート、本、映画、世の中の出来事についての思いをつづります。そろそろ自分の人生とは何かを考え始めた人間の等身大の毎日。

『散るぞ悲しき』 梯久美子(かけはし くみこ)新潮社 を読んだ。

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太平洋戦争最大の激戦地 硫黄島 その守備を任されたのが、栗林忠道中将。この本は、今年度の大宅壮一ノンフィクション賞の受賞作。戦争が終わって半世紀以上たっている。また守備兵2万がほぼ全滅と言う状況、戦後は長くアメリカの占領地であり、詳しいことはほとんどわかっていない硫黄島について、関係者のインタビュー、戦史資料、そして中将が硫黄島から家族に宛てた手紙を元に硫黄島を描き出した作品である。


来週、クリントイーストウッドが監督をする『父親たちの星条旗』、そして年末には、日本側から見た『硫黄島からの手紙』と言う映画が公開される。同じ戦闘をアメリカと日本両方の側から描くと言うクリントイーストウッドの考えは、とても共感できる。ここ数年日本のテレビや、映画で描かれて太平洋戦争は、日本人しか出ない、日本人が犠牲者の、”感動”を商品にしたものでしかなかったと思われる。イーストウッドの”硫黄島”は、見てみたい気がする。


『散るぞ悲しき』の話を続ける。

太平洋戦争は、緒戦の真珠湾攻撃から連戦連勝であった。しかし、ミッドウェーの海戦以降、日本はアメリカの反抗にあい、それまでの、植民地を増やす戦争の段階から、植民地を守る段階、フィリピン、サイパンが陥落するに及んで、日本の本土を守る段階へと戦う段階がどんどん変わっていった。

栗林忠道中将が、硫黄島の司令官に任命され、島に居たのは、昭和19年6月から、翌年20年3月26日に最後の攻撃まで。栗林中将には妻と3人の子どもが居た。硫黄島は、サイパンから日本にB29爆撃機を飛ばす場合その2600キロメートルの中間点にあたり、ここを米軍が拠点に出来れば、まさに、天然の空母として、より日本の攻撃がしやすくなるという戦略の重要地点。ここをもし取られることになれば、一気に東京が爆撃されることになるのである。

栗林中将が、この硫黄島総司令官に任命されるということは、アメリカとの工業力の差、物量の差を考えた場合、


勝てない戦いであること

還ってこれない戦いであること


これはどうしようもない事実であった。しかし、硫黄島の戦略の重要性を考えたとき、誰かが行かねばならなかったし、ここを少しでも長引かせ、少しでも有利な条件で、講和に持ち込めば、日本本土が焼け野原になることは無いという覚悟のうえであった。それは天皇陛下のためでなく、日本のためでなく、愛する妻と子どもたちのためであった。軍人がそんな家庭的なことを言うはずがないし、もっと勇ましい言葉を口にすべきかも知れないが、この本には、硫黄島から、妻子どもに送った、たくさんの手紙が紹介されている。

その中には、お勝手口のすきま風の心配や、末娘(一番将来を案じていた)のたか子ちゃん(9歳)が夢に出てきた話、すこしのんびり屋の妻に、あれこれ、生活のこまごまとした指示を出したりと、アメリカ海兵隊を最後まで悩ました司令官には似つかわしくないほど、やさいしいパパ振りを発揮している。硫黄島を奪われることは、妻子の住む東京に、B29の爆撃を許してしまうことになる。絶望的な戦場で、ただ、そのことが、この人の戦う最大の理由だったのだろうと梯さんの筆は進む。


硫黄島を攻撃したのは、泣く子も黙るアメリカ海兵隊(海兵隊の勇猛果敢さは、むしろこのときの硫黄島の戦いがそう呼ばれる起源になる)。昭和20年2月19日、アメリカの硫黄島上陸作戦が開始される。5日ほどで終わると思われていた戦闘は、3月26日まで続く。勝つことは出来ない戦い。出来るだけ長引かせるために、栗林中将は赴任したときから、司令官自ら、戦線の将兵を視察して回った。通常、自分たちの司令官を肉眼で見ることのない戦場にあって硫黄島の守備兵はそのほとんどが、栗林中将を眼にしている。硫黄島最大の弱点である、水がなく雨水のみでしのがないといけないと言う状況を、自ら、1日水筒1本のみという態度で示し、将兵の結束を促した。また日本兵特有の、「バンザイ攻撃」をすることを禁じ、「武人の美学」を否定し、一人でも多くの敵をたおし、少しでも長い時間抵抗する戦いを徹底した。

硫黄島の地下に縦横にめぐらした迷路のような地下壕、そこに隠れながら最後まで抵抗した日本兵が居なくなるのは戦争が終わって4年たった昭和24年。その最後の一人は最後の最後まで栗林中将の戦い方を守った。小泉元首相のような人が司令官であれば、惨めな戦いをするより、潔く万歳を唱えながら、敵に斬りこむことを認めたかもしれないが(兵士の苦痛を思えば、その選択も否定できない)、栗林中将は、少しでも長引かすことが、東京に住む妻子を生き延びさせることが出来ると言う信念があったからこそ、そのような戦い方を選んだようだ。


また、若い兵隊は皆、他の戦地に行っているため、本土に枯渇し、硫黄島の守備兵は、16,7歳の若年兵、応召兵が多かった。既に除隊し、仕事を持っている人たちで、本土に、妻子を置いてきたことは、栗林中将と全く同じ境遇だった。(私の祖父も、子どもが4人居ながら、昭和20年応召され、5月フィリッピン沖で戦死した。もう3ヶ月終戦が早ければ・・・・)30代40代の応召兵だから、ただ闇雲に「バンザイ攻撃」をして命をなくすことより、どう自分の命を使えば、戦争を有利な講和に持ち込むことが出来るか、そのための戦い方をして、皆死んでいった。16,7歳の若年兵は、まだ母恋しい年頃、夜中故郷を思い、唱歌を歌っていたそうだ。軍歌でない、物寂しい歌を、栗原中将がとがめることはなかったそうだ。

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上陸を阻止するための作戦で、陸軍、海軍の間に足並みのずれがあったり、武器弾薬の補充をほとんどしない後方、島の重要性を考え2万もの守備兵を配置したのに、硫黄島放棄の姿勢を早くも打ち出した首脳部と、栗林中将の心中をあざ笑うかのように上層部の無能さが露呈する。そのことについて、非難する電報を打ッたり、最後の突撃前には、激しい決意を秘めた決別電報を打つ。そして、辞世の句3つを残して、最後の攻撃をする。この辞世の句、決別電報の内容はやがて、文言を入れ替えたりする操作が行われるのだが・・・・その変えられたのではない最初の言葉が本のタイトルに採り上げられている。

人の上に立つ人たちの、縄張り意識や、自らの非を認めない官僚体質など、何も変わっていない。


最後の攻撃前の3月20日、東京大空襲で、8万人が死ぬ。栗林中将死亡後、沖縄戦が始まり民間人だけで10万人、そして広島、長崎で20万人以上の市民の犠牲者が出る。中将の死、守備兵2万の犠牲を日本は活かす事が出来なかった。


硫黄島の守備兵を見殺しにするしか出来なかった時点で、講和に入れば、沖縄、広島、長崎の悲劇はなかったかもしれない。「太平洋戦争の尊い犠牲の上に、今の私たちの平和は、成り立っている」と一言で言うが、硫黄島の戦いを軍首脳部、政治家は活かすことが出来なかった。縄張り意識や、つまらないプライドで、そういうチャンスを活かさなかった軍人と一緒くたにして軍人を祭っている後世の日本人をむなしく死んでいった前線の将兵はどう思っているだろうか?

私のような戦後生まれは、知略に優れ、勇ましい言動で、最後も、果敢に死を選ぶ軍人が優れた軍人のステレオタイプとして刷り込まれている。栗林中将も合理的で、物事を正確に判断する力があり、多くの美徳があるが、何よりも家族のことを大事に思う一人の父親であったことがうれしい。一度も会った事のない私の祖父もこんな人だったのだろうか?