大和大納言・豊臣秀長と大納言塚。 お願いの砂箱 ~ 豊臣秀吉と秀長の兄弟の物語
大和大納言秀長は、優しく賢くとても立派なお殿様でした。
現在の大和郡山の基礎を築かれ、「学問の智将」と呼ばれていました。
出世にまい進する秀吉と部下や多くの将士達の間をとりもち、兄を補佐しました。
秀吉に従い、数々の戦場を駆け巡り、山崎の戦い、賎ヶ岳の合戦、四国、九州征伐に参加しました。
豊臣政権の中では、千利休とともに政治の大黒柱として活躍していました。
天正15年(1587)には大納言に命じられます。
奈良・大和にあって大和大納言という名で人々に親しまれます。
晩年秀長は病気がちとなります。
天正18年(1590)には大和へ秀吉が見舞に訪れ、大和の社寺に病気平癒の祈願をしました。
翌19年1月、秀長は城中で死去。
秀長が生きていれば、秀吉の後年汚名となった朝鮮出兵はなかったといわれています。
秀長の葬儀には、秀長を偲んで”野も山も崩れんぱかり”の人が集まったそうです。
墓所は上箕山大納言塚。
昭和50年に大和郡山市の指定文化財(史跡)に指定されています。
土壇の上に立派な五輪塔が立っています。
入口のそばに、「お願いの砂箱」といわれる箱があります。
あけてみますね。
ここに訪れた人は、お参りにできたお礼を申し上げたあと、
「自分の名前」と、「願い事」をいいながら、手前の石から、穴に三回お砂を通します。
すると願い事がかなうと信じられています。
☆大納言塚
奈良県大和郡山市箕山町14
近鉄郡山駅、徒歩15分
大和郡山・夏祭り(夕涼み会)
2011年8月26日(金)、27日(土)
17:00~20:00
旧川本邸と源九郎稲荷神社で夏祭りを開催します。
詳しくは源九郎稲荷神社ホームページの「おしらせ」をご覧ください。
現在の大和郡山の基礎を築かれ、「学問の智将」と呼ばれていました。
出世にまい進する秀吉と部下や多くの将士達の間をとりもち、兄を補佐しました。
秀吉に従い、数々の戦場を駆け巡り、山崎の戦い、賎ヶ岳の合戦、四国、九州征伐に参加しました。
豊臣政権の中では、千利休とともに政治の大黒柱として活躍していました。
天正15年(1587)には大納言に命じられます。
奈良・大和にあって大和大納言という名で人々に親しまれます。
晩年秀長は病気がちとなります。
天正18年(1590)には大和へ秀吉が見舞に訪れ、大和の社寺に病気平癒の祈願をしました。
翌19年1月、秀長は城中で死去。
秀長が生きていれば、秀吉の後年汚名となった朝鮮出兵はなかったといわれています。
秀長の葬儀には、秀長を偲んで”野も山も崩れんぱかり”の人が集まったそうです。
墓所は上箕山大納言塚。
昭和50年に大和郡山市の指定文化財(史跡)に指定されています。
土壇の上に立派な五輪塔が立っています。
入口のそばに、「お願いの砂箱」といわれる箱があります。
あけてみますね。
ここに訪れた人は、お参りにできたお礼を申し上げたあと、
「自分の名前」と、「願い事」をいいながら、手前の石から、穴に三回お砂を通します。
すると願い事がかなうと信じられています。
☆大納言塚
奈良県大和郡山市箕山町14
近鉄郡山駅、徒歩15分
大和郡山・夏祭り(夕涼み会)
2011年8月26日(金)、27日(土)
17:00~20:00
旧川本邸と源九郎稲荷神社で夏祭りを開催します。
詳しくは源九郎稲荷神社ホームページの「おしらせ」をご覧ください。