いつもなら“寺社めぐり”と書いているところが“神社めぐり”となって
いますが…そう、この越前・若狭旅行はお盆休暇中に行ってまいり
ました。お盆といえばお寺さんは最繁忙期(失礼)。寺社めぐりを
すれば御朱印が頂きたい〝火打石〟夫婦ですので、お忙しいことが
わかっているお寺さんに御朱印の授与をお願いするのは申し訳ない
と思い、今回は神社さんのみの参詣…福井県立美術館に〝火打石〟
を落として、夫は神社参詣。福井市松本の簸川神社さんから越前の
神社めぐりは始まります。
簸川神社さん
簸川神社さんの“簸川”は“ひかわ”と読まれるのですが、“ひかわ”
神社といえば〝火打石〟夫婦が思い浮かべるのは“氷川神社”…
武蔵一宮の氷川神社さん。ウィキペディアで「氷川神社」(曖昧さ
回避)のページを読んでみますと(→こちら)
氷川神社(ひかわじんじゃ)は、素戔嗚尊を主祭神とする氷川信仰の
神社。武蔵国(現埼玉県、東京都)の荒川流域を中心として200社
以上、氷川を冠しない社も含めれば260社以上があり、簸川神社と
書く神社もある。
と記されています。“氷川”と“簸川”の表記の違いについてはウィキ上
では特に説明がないですね。「簸川神社」で検索すると文京区の簸川
神社さんが挙がってきますが(→こちら)、その解説に“氷川神社の
末社であるが、簸川と書く神社は非常に珍しい。”と記されています。
ではこちら福井市のの“簸川”神社さんの御由緒は如何??。夫が神社
さんで↓を撮影してきてくれたのですが…
ごめんなさいm(_ _ )m、〝火打石〟読み取れない。参拝の栞なども
夫は頂いてきていないし、ネットを浚ってみても…こちらのページに、
以前は天王社として祀られていたのが明治7年(1874)に簸川上町(現
松本2丁目)に移り、簸川神社として今に至っているとあるのですが、
それ以外の情報は残念ながら浚えませんでした。(こちらのページ
にも同様の説明があります。) 申し訳ございませんm(_ _ )m。
御由緒についてはひとまず置いて、夫の写真を追っていくと…
↑素蓋鳴尊の八岐大蛇退治の絵ですね。ウィキ「スサノオ」を
読んでいると、“全国に分布する神社”の項に
祇園信仰、津島信仰、氷川信仰などに基づくものが多い。これらの
神社は、祇園社や天王社を名乗ったものが明治の神仏分離の際に
現在の名前になったものが多い。
とありますが、こちらの簸川神社さんは天王社→簸川神社でウィキの
いうとおり…天王社さんの「夏の祇園祭(ぎおんまつり)は城下を代表
する風物詩だった。」(←歴naviふくい「福井城郭外の下級武士の町」
こちら より) とのことです。
簸川神社さんの御朱印はこちら(*^▽^*)↓。
御朱印を授与してくださったのが、御年100歳のお婆さま(御自分で100歳
とおっしゃられたそうです!)で、夫が参詣した折神社の留守を預かって
おられた御様子…もう手に力が入らないとのことで、印だけを授与して
くださいました。ありがとうございましたm(_ _ )m。
続いて夫が参詣したのは“越前東照宮”とも言われる佐佳枝廼社
さん。福井市大手に鎮座され、御祭神は“福井藩祖である松平
秀康公、江戸幕府初代将軍である徳川家康公、福井藩16代藩主
である松平慶永公(春嶽公)”だそうで…夫は“越前東照宮”の別称は
参詣時は知らなかったそうですが、図らずも福井で“東照宮参詣”が
できた。次回はその様子をUPいたしますね。