石神井から大泉に出た〝火打石〟の夫。大泉では教学院さんと大泉

 

氷川神社さんを参詣したわけですが…

 

 

 

 

 

教学院さんは真言宗智山派のお寺さん…以前の記事でUPさせて

 

いただいた三寶寺さんと同じですが、教学院さんは江戸時代の中期

 

には三寶寺さんの末寺だったのだそうです。(昭和16年に本末関係は

 

なくなったとのこと。)

 

 

 

 

 

 

↑“豊島八十八ヶ所第四十六番”…“豊島八十八ヶ所”については以前

 

 の記事で触れさせて頂きましたので、よろしければこちらのページを

 

 お読みになってくださいm(_ _ )m。

 

 

 

↑こちらの梵鐘は、前回の記事でも名前の出た(道場寺さんの金銅

 

 薬師如来像を作った)人間国宝、香取正彦の作。(←「開創七五〇年

 

 記念 本堂改築事業記念誌」より) ウィキ「香取正彦」を読むと“1981

 

 年に梵鐘制作100点を達成し『百禄の鐘』を出版。”とあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

夫が教学院さんを参詣した際、ありがたいことに「開創七五〇年記念 

 

 本堂改築事業記念誌」をいただいて参りましたニコニコ。お寺の沿革に

 

ついて「記念誌」から適宜引用させていただきますと

 

 

『新編武蔵風土記稿』によると 「教学院 境内除地一町四方村内ニ

アリ。新義真言宗。豊島郡石神井村三寶寺ノ末。西円山ト号ス。文永

五年長全法印開山ス。……」とある。

 

※文永五年は西暦(ユリウス暦)1268年→「文永」 長全法印についてはネットで浚ってみましたが

 ちょっとわかりませんでした(w_-;。申し訳ございませんm(_ _ )m。

 

…前記『風土記稿』に

「……中興開山ハ良賢法印ト云ヘドモ。其ノ時代ハ詳ナラズ。……」と

あり、寺記によると永禄三年(一五六〇)良賢法印が復興したとある。

開山当所は永福寺と号し北方の丸山に在ったが、江戸中期に三寶寺

の末寺となり【享保十四年(一七二九)の『三寶寺末寺名簿』に記載】、

西円山教学院と改称した。その間丸山より現住所に移ったようである。

昭和十六年(一九四一)の三寶寺との本末関係はなくなり、独立した。

 

 

とのこと。良賢法印についても調べられなかった(ノ_-。) 夫のことですからこの日

 

三寶寺さんと教学院さんの両寺を参詣したのはおそらく偶然でしょう

 

が、それにしても良かった(=⌒▽⌒=)。

 

 

 

教学院さんの御朱印はこちら↓(*^▽^*)。

 

 

 

 

 

 

そしてこの日(6/4)の最後の参詣…大泉氷川神社さんニコニコ。(こちら

 

のページもどうぞ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

↑“当社の創立年月日は定かではありませんが、武蔵国一の宮氷川

 

 神社への崇敬の念から勧請したもので、明治維新におよび、村民は

 

 ここを当村(橋戸村)の鎮守と定め、明治七年(一八七四)に村社と

 

 なりました。”と掲示にありますが…夫が参詣した折は神社の方が

 

 いらっしゃらなかったそうで、残念ながら御朱印はいただけません

 

 でしたショボーン。また参詣させていただきますねあせる

 

 

 

 

ブログに挙げる順序はメチャクチャになってしまいましたが、水無月の

 

神社仏閣めぐりと美術展鑑賞記はこれで終わったかな…4日土曜日

 

夫婦でお出かけして、その後は夫の入院により〝火打石〟が一人で

 

美術展鑑賞に励んでase。気がつけば文月ももう末ですが、この場を

 

借りて今月を振り返ってみますか(;^_^A。毎度の事ながら慌しい総括に

 

なってしまうでしょうが、よろしければおつきあいくださいますようお願い

 

申し上げますm(_ _ )m。