イタリアと大阪の実に困った相似

大阪市長選が告示された11月13日の午後、私は大阪駅に降り立っていた。

 大阪に特段の用事があったのではない。途中下車だ。その日の夕方、神戸を訪れる予定があって、往路の新幹線で駅弁を食べる姿が、なんだかわびしく思えたので、大阪で遅い昼食をとるプランを採用したのである。

 大阪に立ち寄るのは、おそらく20年ぶりぐらいだ。
 御堂筋の中心街を自分の足で歩く経験ということになると、さらに久しぶりだ。もしかして、大阪に赴任した新入社員の頃以来かもしれない。ということは、約32年ぶりということになる。その前は万博。41年前。タイム・スリップだ。

 大阪は、すっかり様変わりしていた。薄汚れた印象のあったJRの大阪駅も見違えるようにきれいになって、駅前からの眺望は、一から十まで私の記憶と違っている。別世界に来たみたいだ。

 その日は、2時間ほどかけて、主に梅田の近辺を歩きまわった。
 曽根崎あたりで道に迷いながら、私は、神戸での用事が済んだら、もう一度戻って来ようと心に決めていた。大阪の街の様子がこんなに変わってしまっている以上、アタマの中の大阪像をアップデートしないといけない。でないと、私は判断を誤ることになる。

 翌日は、昼過ぎに大阪に戻ってきた。
 神戸の住吉というところから乗った電車が、「大阪北詰」駅に着いたところで、異変に気づいた。

「あれ? この電車、新大阪には行かないんじゃないかなあ」

 と、私は、同行していた編集者のA藤氏に言った。

「そうですか?」
 彼はよくわかっていない。

「大阪城はたしか市役所のすぐそばだったはずだから、大阪駅とは全然別方向です」

 と、私は大阪の地理について講釈を垂れたのだが、この説明は、後で確認したところ、かなり盛大に間違っていた。乗っている電車が新大阪に向かっていなかったことは言った通りだったが、大阪城は市役所の近所ではなかった。それに、市役所と大阪城が隣接しているのであれば、その北側は大阪駅にほど近いはずで、つまり、私は、市役所の場所も、大阪城との位置関係も、まるでわかっていなかったのである。

 結局、われわれは、「北新地」という駅まで戻って、そこで電車を降りた。
「北新地は梅田に近いはずです」
「そういえばそんな歌がありましたね」

 今度の断言は、そんなに間違っていなかった。というよりも、前の日に北新地あたりをさまよっていた私には、ある程度新鮮な土地勘があったわけで、近いも何も、新地は、ほぼ梅田そのものだった。

 A藤氏とは北新地で別れた。粋な別れの名所なのだそうだ。なるほど。
 で、一人、30年ぶりの大阪を探訪した。曽根崎、堂島から大江橋あたりの地上と地下を昇ったり降りたりして、それからたっぷり夕方まで、中之島、淀屋橋を経て、あとはひたすらに御堂筋を南に向かって下った。


色々なことが判明した。
 私は、どうやら、大阪について、記憶を摩耗させていただけではない。むしろ、私のアタマの中の大阪は、ニセの記憶と間違った知識によってクリエイトされた一大夢幻郷だった。デキの悪いダンジョンのマップみたいな大阪市内観光地図。クリエイティブな記憶力。私の中の古い大阪は、型通りに猥雑で、埃まみれで、そして、あまりにもコテコテだった。これは、全面的に更新しないといけない。改訂して、バージョンアップして、新しい大阪についての、新しいイメージを、ぜひとも脳内に再構築しないといけない。

 おそらく、メディアの影響もあずかっている。
 テレビの中の大阪は、十年一日、通天閣とグリコ看板とヒョウ柄のスカーフを巻いたおばちゃんたちの映像を映し出すことに終始している。こうした傾向は、あらためられねばならない。

 実際に見る大阪は、画面の中の大阪とはずいぶん違う。御堂筋の左右の街並みは、歌舞伎町やセンター街なんかよりずっときれいだし、歩いている人たちだっておしゃれだ。自分の身体をパチパチ叩いている裸のオヤジは実在しない。

 東京のメディアが大阪の風景を古い定型の中に押し込めておきたがる理由は、なんとなくわかる。単純に、その方が面白いからだ。私自身、率直なところを言えば、自分の大阪像の中核をなしているものが古い偏見構造であることに、まるで気づいていなかったわけではない。ただ、それ(偏見)を打ち壊して、新しい大阪像を一から積み直す作業が面倒くさかっただけだ。そうだとも、オレは大阪に対して偏見を抱いている。でも、それを捨てるつもりはない。改訂する気持ちも持っていない。なぜなら、大阪の連中だって、どうせオレらに対して面倒くさい偏見を持っているに違いないわけだから――と、そんなふうに考えて、私は自分の中の偏見を防衛していたのである。

「PNSDだよ」
 と、親しい人間には、そういうふうに説明していた。
「なんだそりゃ」
「ポスト・ナニワティック・ストレス・ディスオーダー。日本語で言えば《大阪在住後ストレス障害》ってなことになる。意味あいとしては、在阪関東人が帰郷後に訴える心理的外傷とそれによる様々な疾患ぐらいかな」

 東京人と大阪人は、互いの偏見を持て余しつつ、半ば楽しんでもいる。そうやって、日本を代表する東西の大都市の人間たちは、互いに対照的たらざるを得ない宿命を甘受しているのである。

 とはいえ、偏見を弄んでいて良いばかりのものでもない。
 偏見は、ネタにして笑っているうちは良いが、時に、実質を獲得する。どういうことなのかというと、たとえば、軽率な子供たちは、メディアが提供する予断や偏見に沿ったカタチで人格形成を成し遂げてしまうということだ。

 と、「戯画化された大阪人的ふるまい」や「マーケッターによって創造された理想的な消費者としての東京人像」が、生身の生きた人格として、都市を闊歩する事態が現出する。彼らは、社会にとって(もちろん本人の人生にとっても)非常に厄介な不確定要素になる。誇張された「イラチ」や計算ずくの「イッチョカミ」はおそらくナニワの町の風儀をいたずらに悪化させているはずだし、東京の夜景を彩っているファンタジーとしての「都会派幻想」は様々な商品に数パーセントの価格を上乗せする結果をもたらしている。アーバンな田吾作。みゆき通りの植民地商人に憧れる価格交渉もろくにできないカモの群れ。なさけない話だが、「東京」という幻想に洗脳された東京人は、本当の故郷を喪失してしまう。お上りさんには故郷がある。が、上京した東京人には帰るべき町がない。なんということだろう。

 とにかく、現地を訪れてみて、私は、ちょっと反省したわけだ。慣れ親しんだ偏見にもたれて暮らすのは楽でもあるし、それらをいじくり回して遊ぶ娯楽は、一種文化的な営為ですらあるのかもしれない。でも、偏見はやっぱり偏見だ。正していかないといけない。でないと、偏見は、いつしか本物の怪物を産んでしまう。

 今回は、イタリアの財政危機について書くつもりでいた。これは、先週から決めていたことだった。

「来週は、ヨーロッパの経済危機かな」
 と、経済通でもないくせに、私は、この話題に飛びつく気持ちを固めていたのだ。

 なぜかって?
 そこに地雷があるからだよ。そう、馬には乗ってみよ、地雷は踏んでみよ。デジタル時代のコラムニストの基本プリンシプルだ。

 で、色々と腹案を検討している最中に、大阪に立ち寄るスケジュールが挿入されて、そういうことになってみると、偶然なのか、化学反応なのか、私の中では、大阪とイタリアが徐々にダブってきた次第なのである。

 説明する。
 大阪とイタリアはじっくり観察してみると、なんだかとても良く似ている。
 なにより、EUにおけるイタリアの立場と、日本における大阪の境遇が、他人ごととは思えない。

 次男坊の役割というのか、傍流の、二次的な、主導的でない立ち位置と、曖昧な権力基盤が、そっくりだ。

 昨今の状況も似ている。
 イタリアの財政危機がEUならびに世界経済に突きつけている問題の深刻さと、大阪のダブル選挙が、日本の政治状況にもたらすであろう波及効果の不気味さは、私の目には、まるで鏡に映った二つの悪夢みたいに見える。
 いずれも、不吉で、凶々しく、それでいてどこか滑稽でもある。実に困った相似だ。

 思うに、ヨーロッパにおけるラテンとゲルマンの関係は、ほぼそのまま、わが国における近畿圏と関東の関係に置き換えることができる。

 すなわち、前者(ラテンおよび関西)が、より古く、伝統回帰的であり、文化的な豊穣を備え、柔軟で、享楽的で、美的センスに富み、一方において、民衆的で、貧しく、近現代に至って停滞の相に直面しているのに対して、後者(ゲルマンと関東)は、新興で、文明的で、禁欲的で、実質主義で、経済上の優位に立ち、進取の精神に溢れ、官僚的で秋霜烈日でプラグマティックな特徴を備えている。であるから、経済および政治の実質的な主導権は、どうしても後者が握ることになる。いきおい、前者は、マーケットではお荷物に似た存在になり下がる。かくして、両者の間には、すきま風が吹き、相互不信が芽生える。

 現状を鑑みるに、イタリア経済は奈落の淵にある。大阪もまた財政破綻の危機を迎えている。しかも両者は、政治的な混迷に陥ってもいる。

 にもかかわらず、当地の庶民は明るい。一見するに、文化は爛熟し、町には、活気が溢れている。
 能天気? いや、そういう言い方は失礼だ。彼らは人生を享受している。今日の停滞は、不幸な結果に過ぎない。


 イタリアの累卵は、むしろ英独仏といったEU主要国のアタマを悩ませている。
 大阪の混迷もまた、どちらかといえば東京人の心根に暗い影を落としている。少なくとも私の目にはそのように見える。

 似ている。
 イタリア経済のアキレス腱が南北問題(先進的で豊かな北イタリアの工業都市群と、貧しいまま放置されている南イタリアの経済格差)にあると言われている点と、大阪の行政に不効率をもたらしているのが、市と府による二重行政であるとされていることも、似ていると言えば似ている。マフィアの暗躍による地下経済の肥大化と、山口組やエセ同和団体の策動による府政の停滞などなど、類似点をあげると切りがない。

 ギリシャ・ローマというヨーロッパ文明の最古層を担ってきた地域が、二十一世紀の今、再び一体化しつつあるヨーロッパの中で取り残されていることと、関西圏という日本文化の源流を為す地域が混迷していることは、偶然の一致であるのだとしても、印象深いできごとだ。われわれは、彼の地の危機を軽んじてはならない。彼らを軽んじることは、自分たちの過去を軽んじることだ。そしてそれは、おそらく未来を毀損することにつながる。

 大阪の人たちは、東京のマスコミが大阪の選挙をネタにすることを快く思っていない。
「ほっといてくれへんか」
 と、たぶん、そんなふうに感じている

 東京の文化人みたいなものが、大阪の現状や将来について、きいたふうな口を叩くことについても、心外に思っている。
「御堂筋を半日ばかり行ったり来たりした程度の関東のおっさんに、大阪の町を語ってもらいたくはないわな」
 わかった。
 忠告や進言みたいなことは言わないことにする。
 逆効果を恐れるからだ。

 なので、以下の発言は、このたびのナニワのダブル選挙に関しての選挙権を持っていない、他府県の人々に向けて言っていると思って聞いてほしい。大阪の人たちは、語尾を反転させてや。あんじょうたのんまっせ(棒読み)。

 私は、橋下さんの当選に、強い憂慮の念を抱いている。
 理由は、橋下市長の誕生が、大阪にとって厄災である以上に、日本全国の地方政治に致命的な悪影響をもたらすと思うからだ。勝ちっぷり次第では、影響は、中央政界にも及ぶ。

 橋下さんの思惑が当たり、維新の会が勝利して、大阪の議会と役所の主要な権力が彼らの手に落ちれば、たしかに「官僚支配からの脱却」は、かなりの度合いで実現するはずだ。「政治主導」という、橋下さんの従来からの理想も、たぶん、ほどなく果たされることになるだろう。

 でも、副作用は必ず生じる。
 具体的に言うと、橋下さん自身が自ら認め、周囲からそう評されてもいる「独裁」(6月29日に開催された支持者によるパーティーの席上で、橋下徹府知事《当時》は「今の日本の政治に必要なのは独裁」であると発言して気勢をあげた)的な政治手法が、市政を支配することになるということだ。なるほど動かなかった人間のうちの幾人かは、アメとムチによって動くことになるだろう。が、アメとムチで動くことを覚えた人間は、アメとムチでしか動かなくなる。あたりまえの話だ。

 橋下さんと維新の会が主張している「大阪都構想」および「教育基本条例」ならびにその背景にある競争至上主義と強権的な人事管理思想とて、一方の「正義」ではある。
 しかしながら、「正義」は、往々にして、「不正義」を為すための論拠になる。

 歴史の中には、「平和」という正義を実現するための手段が「戦争」であったりした逆説がいくらでも転がっている。ちなみに、「戦争」は、「殺人」を正義に転化する「正義」として、常に有効だった。これらに比べれば、「停滞」を打開する手段として「独裁」が一時的な正義の衣装を纏うことなど、さして難しいことではない。

 民主政治の意思決定過程が備えている欠点としての「不効率」や「リーダーシップの欠如」を正すための手段として、「独裁」は、非常に魅力的に映る。特に、外科手術が必要なほどに状況が悪化している場面では、「善き人による独裁」が最も効率的で、果断で、清潔であるように見えるかもしれない。

 第一次大戦後のイタリアには、ムッソリーニという稚気横溢の英雄的な政治家がいて、絶大な人気を博していた。
 果断で、アタマの回転が速くて、白黒がはっきりしていて、ユーモアのセンスのあるムッソリーニは、停滞したイタリアの状況を打破できるとても有望なリーダーに見えた。だから、市民は、ムッソリーニによる独裁を大いに歓迎した。

 結果は、ご案内の通りだ。イタリアは、巨大なツケを支払うことになった。今回の事態も、ムッソリーニの時代から引き継いだツケと無縁ではない。

 イタリア国民は、今回の危機に際して、「愉快な遊び人」のベルルスコーニ氏を辞任させ、地味な実務派のモンティ氏を後任に選んだ。そしてそのモンティ新首相は学者と有識者から成る、実になんとも辛気臭いテクノクラート型の内閣を組閣した。

 この判断が功を奏するのかどうかはまだわからない。
 でもまあ、スーパーリーダーの登場を夢見なかったイタリアの人々は、やっぱり多少は学習したということなのだと私は思っている。

 大阪はどうするのだろう。
 私は懸念している。
 面白ければそれで良いのか?
 いや、大阪の人たちは耳を塞いでくれていてかまわない。
 日本中の、大阪の住民票を持っていない人たちに言っておきたい。
 大阪でこれから起こることの一部始終を、私たちは、よく見ておこうではないか。
 観察と学習は、きっと、後々、役に立つことになるはずだ。






<RocketNews24 記事より>