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八戸の根城を訪れたものの閉館日で見学出来ず、塀の隙間から覗き込もうとしたら警備員に見つかり、慌てて八戸駅まで逃げ帰ってきた私。


このまま何も見学できずに八戸を去るのは勿体ないので、JR八戸線に乗り、2駅隣の「本八戸」に向かいました。


駅から10分ほど歩いて訪れたのは、

 

 

 




現在、この「三八城公園」となっている地には、かつて「八戸城」という城がありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


南北朝時代、この地の代官に就任した南部師行が「根城」を築城した頃、その支城として建てられたのが「八戸城」の始まりだと言われています。


その後、室町~戦国時代を通じて東北地方で一大勢力を築いていた南部氏は、豊臣秀吉が天下統一を果たすと、領地を安堵され、盛岡藩(南部藩)の藩主となります。


その盛岡藩に、藩の存亡の危機が訪れたのは、三代藩主・南部重直が死去した時。
江戸で亡くなった重直は、徳川四代将軍・家綱に後継者の選定を頼んでいたのですが、その事を盛岡藩の家臣には伝えていなかった為、盛岡藩は混乱に陥ります。


次代藩主を巡って内部分裂を起こした盛岡藩に対し、江戸幕府は藩の取り潰しも考えますが、
東北地方を長く治めてきた盛岡藩の価値を認め、存続を決定。
将軍・家綱の裁定によって、三代将軍・重直の異母兄弟にあたる二人に、盛岡藩を分割して相続させる事にしました。


八戸二万石の領地を与えられ、新たに「八戸藩」を立藩したのは、それまで僅か二百石の領地しか持っていなかった、七番目の弟である中里数馬。


七男では南部の家を継ぐ可能性も無かったのか、母方の苗字を名乗っていた数馬ですが、「八戸藩」の立藩に伴い、南部直房と改名します。


そんな直房公の銅像が、「三八城公園」の中心、ちょっと小高くなっている丘の上に建っていました。

 

 

 

 


 

 

 

 



 

 

 

 



修築した八戸城を藩内統治の中心地とした直房は、城下町の整備に務め、八戸および八戸藩の発展の礎を築きました。

 


 

 

 

 

 

 

 


 

 

 




前後左右、四方から撮ってみました(笑)。


この八戸藩の誕生というのは、盛岡藩の立場から考えると、いきなり領地の一部を奪われてしまったようなもの。
将軍が決めた事とはいえ、恨みの感情があったとしてもおかしくありません。


八戸藩初代藩主・南部直房公は、41歳の若さで急死してしまいます。
公式には病死とされているものの、盛岡藩による暗殺説も色濃く残っていたそうです。


また、直房の息子で二代藩主の南部直政も39歳で亡くなりますが、こちらも盛岡藩による毒殺説があるそうです。

 

 

 




 

いつの時代も、遺産相続にまつわる争い事というのは怖いものですね・・・。