城跡の一番外側にある三の丸の空堀跡。
草に覆われてはいますが、比較的、綺麗に形が残っていますね。
水戸城は石垣を使わず、堀や土塁など地形の凹凸で形成されていた土造りの城でした。
この堀を渡ると、県庁や水戸市役所の庁舎、図書館などがあります。
その区域を抜けた先にあったのが、弘道館公園。
水戸駅から直接訪れると、この地図の上側(東側)から公園に入れますが、私は逆に下側(西側)から入園。
「弘道館」は、江戸時代、水戸藩第9代藩主だった徳川斉昭が設立した水戸藩の藩校でした。
広大だった敷地は、現在、学校や官庁の敷地になっている部分が大半で、弘道館の遺構を中心とした部分だけが公園として残っています。
公園に入るとすぐに、何やら建物の尖った屋根が見えてきました。
この八卦堂の中には、設立者である徳川斉昭が教育方針を記した石碑が収められています。
ご覧の通り、お堂の間近までは近付けないので、その石碑を直接見る事は出来ませんが、その拓本(紙などに転写したもの)は、弘道館の正庁で見る事ができます。
※ネットで調べてみると、過去に何度か「特別公開」が行われ、直接に石碑を見る機会はあったようですね。
江戸時代に建てられたオリジナルの堂は、第二次世界大戦の戦災にて焼けてしまいました。
空襲による焼夷弾の直撃を受け、八卦堂は炎上。
しかし、中に収められていた石碑は無事で、昭和29年に再建された現在のお堂に再び収めらています。
そんな八卦堂の近くにあるのが、
おそらく、水は涸れていると思いますが、しっかり石の蓋が載せてあります。
まさか、夜中になると井戸の下から青白い手が這い出てきてくるので、それを封印する為に……という事ではないと思いますけど(笑)。
同じく、近くに立っている石碑。
「種梅記碑」なる石碑。
水戸藩第九代藩主の座に就いた徳川斉昭が、水戸藩内に梅が少ない事を知り、江戸から梅の種子を持ち帰って、藩内全域に植えさせた事を伝えています。
その梅は、今では納豆と並ぶ水戸の名物になっています。
公園内にも多く植えられている梅の木々の間を抜けて、どんどん奥へと進んでいきます。
道の脇にあったのが学生警鐘。
弘道館の学生に時間を告げたり、連絡事項がある時の告知に使われていた鐘です。
現代でいうところの、学校のチャイムや校内放送ですね。
学生警鐘の先にあるのが、この建物。
しっかり門が閉じられていて、中には入れませんでしたが、こちらは孔子廟。
以前訪れた足利学校にもあった、儒教創始者の孔子を祀った霊廟です。
八卦堂と同様に、大戦の空襲を受け、この門(檄門)と左右の塀だけを残して焼失してしまいましたが、昭和45年に再建されました。
どこかの隙間から内部が覗き見える場所はないかと、塀に沿って歩いて行きましたが、全く見えず。
そんなに甘くないですね(笑)。
孔子廟の横を抜け、公園の東側からグルリと回り込み、弘道館正庁の入口に向かいます。
弘道館の中心地で、藩校の校舎だった正庁。
幕末に起きた内戦や、昭和の大戦による空襲にも焼失せず、現在まで残る正庁とその正門などは、現在、国の重要文化財に指定されています。
2011年の震災の影響で、今年の3月までは一般公開を控えていたようですが、現在は再開されています。
受付で入場料200円を支払い、正庁内部の見学へと向かいました。
(茨城への旅(5)に続く)