2013年長野の旅、2日目の午後は、こちらを訪れました。
どちらかといえば都会だった上田、諏訪から、自然豊かな木曽にやって参りました。
実は、今回の旅の中で一番楽しみにしていたのが、この場所。
義仲館。
木曽で、義仲といえば、当然、この人。
木曽義仲の資料館です。
彼の妾にして、武芸に秀でた忠臣だった巴御前と並んで、訪問者を出迎えてくれます。
中に入ると、もっとリアルタッチの人形が待ち受けていました。
義仲の忠実な部下で、共に戦い続けた「義仲四天王」の人形も。
この今井兼平と樋口兼光は兄弟で、義仲と同じ乳母で育った幼馴染でした。
義仲の妾だった巴御前は、この兄弟の妹だったという説もあり、
その一方で樋口兼光の娘だったという説もあります。
どちらが本当なのかによって、全然、年齢が違ってくるのですが…。
義仲館の中には大きな絵が何枚も飾ってあり、
それを辿っていく事で、木曽義仲の生涯が分かるようになっています。
現在の埼玉県比企郡あたりで生まれたとされている義仲ですが、
同じ源氏の源義朝(頼朝、義経の父)との争いで父親を殺され、
逃れてきた木曽で、兼平・兼光兄弟や巴御前と共に青春時代を過ごす事となります。
当時、京都で権力を握っていたのは。平清盛を中心とした平氏。
天皇や公家の存在を無視して、横暴な振る舞いを続ける平氏の態度に、
天皇政治の危機を感じた後白河天皇と、その子である似仁王は、
全国の反平家勢力に平氏討伐の勅書を出しました。
義仲のところにも、似仁王から「平家追討」を促す使者が来ました。
この時代、やはり女性である巴御前は、こういう席には直接、同席出来なかったんですね。
大河ドラマの影響からか、巴御前というと、どうしても小池栄子の顔が思い浮かぶ(笑)。
木曽で挙兵した義仲軍は、信濃、越後と攻め上がり、北陸地方へと進軍します。
現在の富山・石川県にある倶利伽羅峠で、平氏の10万もの大軍と衝突すると、
牛の角に松明をつけ、相手に突進させる「火牛の計」で平家軍を混乱させ、
この戦いに勝利します。
遂に京都まで攻め込み、平氏軍を京都から追い出す事に成功します。
しかし、京都の治安を回復する事が出来なかったのに加え、
田舎育ちゆえに都会の流儀が理解できずに「粗野な人物」として公家に嫌われてしまいます。
また、皇室の継承問題に介入しようとしたり、強引に「征夷大将軍」の地位に就任したり、
性急に権力を欲しがる義仲の態度は、天皇・公家との関係に深い溝を作ってしまいました。
義仲を煙たがった皇室が、遅れて上京してきた源頼朝・義経の方に信頼を寄せるようになると、
元々父親の敵である頼朝に対抗心を燃やす義仲は、更に暴走。
遂には、同じ源氏同士の軍が京都を戦場として衝突する事になりました。
既に人望を失いつつあった義仲軍は、勢いに勝る頼朝軍に大苦戦。
宇治川の戦いで四天王の根井、楯の2人を失い、
京都から敗走する途上で巴御前とも別れた義仲は、
四天王の生き残りである兼平・兼光兄弟と共に近江(現在の滋賀県あたり)まで逃げ落ちますが、
そこで頼朝軍の追っ手に取り囲まれてしまいます。
最期は、薄氷の張った田んぼに気付かずに踏み込んでしまい、
割れた氷の穴に馬が足を取られたところを、額を射抜かれて討ち取られてしまいました。
結果的には、志半ばで命を落とし、ライバルだった源頼朝が天下を取った訳ですが、
頼朝よりも先に京都に入り、天皇を救った時点では、
義仲の方が源氏のトップに立ち、天下を取る可能性が高かったような気がします。
もし、義仲が天下を取っていたら、長野に「木曽幕府」が開かれ、
全く違う歴史が流れていたのかもしれませんね。